2005年4月




RE:友は  投稿者: ふてき  投稿日: 4月29日(金)11時10分17秒 

やはりその線ですか。
もしかしたら「旗」とか「若」とかも関係者名由来かもしれませぬ。

「歩み」によれば、カーネーション(AUS)は明治37年横浜(春)のグランプリーを
勝っているようですが、とすると輸入後直ちに競馬に使われたってことなんでしょうか。
まぁ1898年生まれのようですから既に5(6)歳になってたわけで特に違和感はありません。

オルローフというのは全く知らないのですが、乱暴に言っちゃえば
ロシアで改良されたアラブ種?ということでしょうか。

ソネラ、デヴォーニアの件もそうですが、一條氏はもっと評価されてしかるべき人ですね。 


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RE:Still...  投稿者: ふてき  投稿日: 4月29日(金)11時07分12秒 
Nehushta(USA) by Fecher(GB) ------------------------------- ジョーアンドリュー系
Carolita(USA)1889 by John Happy(USA) --------------------- ウェイバリー系
  Warble(USA) 1896 by Darebin(AUS) ------------------------ マッチェム系
   Birthy d'Or(USA) 1905 by Robert d'Or(USA) -------------- タッチストーン系
    Nameless(USA) 1914 by Woolwinder(USA) ----------------- ハンブルトニアン系
     Pan d'Or(USA) 1926 by Panhandler(USA) ---------------- ピーターパン系
      Rusty Pan(USA) 1943 by Big Horn(USA) ---------------- ベンドオア系
       Pere's Pan(USA) 1954 by Flitterpere(USA) ----------- サンインロウ系
        Becky Pere(USA) 1964 by Big Pond(USA) ------------- ハイペリオン系
         Secret World(USA) 1970 by Peaceful World(USA) ---- フリートナスルーラ系
          Shady Secret(USA) 1975 by Shadyside(USA) -------- ターントゥ系
           Miss Queen High(USA) 1982 by Countyercards(USA)  ゲーンズボロー系
            Dee High Queen(USA) 1995 by Toot'n Tudor(USA) - オーウェンチューダー系
             High Pache(USA) 2003 by Copelan's Pache(USA) - トムフール系

父の Copelan's Pache てのは Foolish Pleasure の近親ですか。
しかしよくもまぁ聞いたこともない(父系表にも未掲載レベルの)種牡馬を代々と。
血統調べてみても、無名だが良血(俗な意味で)という種牡馬も少ないですし。
Darebin(シドニーカップ、ビクトリアダービー)がかけられていた辺りまでは
それなりにメジャーな牝系だったんでしょうけど。
用途は草競馬用か愛玩用か。
こういうの見るたびに思うんですが、今の本邦馬産界には良い意味での「変人」が居ないなって。
常識人だけで構成された世界だと、どんな業界であれ何れは行き詰まりますって(笑)

今年のケンタッキーダービーにもコープランの系統から一頭出走してきそうですけど、
まぁ普通に考えると真っ先に用なしの存在なんでしょうね。
もし勝っちゃったら Lil E.Tee 以来の空気読まなさ加減になろうかと。 




友は当然一條友吉の友でしょうね。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月29日(金)01時13分58秒 

氏が輸入した下総の6頭中最も期待されてた馬でしょうから。
お腹にはマンノウォーの子(月友)が入っていたわけで。

『ホース・レビユウ』を読んでいて、小岩井農場の輸入馬表があったんですが、
有名な明治40年のサラブレッド以前に、明治35年にハクニー牡2頭牝3頭、
36年にハクニー牡2頭、37年に豪州産横浜抽籤洋種牝6頭米国産洋種牝3頭、
39年に豪州産洋種牝1頭を入れてますね。
横浜抽籤馬の中にはプレッチーポリーの母カーネーションもいます。

荒井牧場(朝鮮)の紹介も面白く、第1次大戦末期に馬を全部始末した
「チタ国立牧場」の選良43頭を横田という人が朝鮮に輸送し、それを
買って善良なオルローフトロッターを繁殖中とか。

米国での吉田善助氏と一條氏の写真もあったので、社台牧場が輸入した
ソネラなんかも一條氏の見立てだったことは間違いないですね。 




Still she is a Thoroughbred.  投稿者: GURU@偏屈爺  投稿日: 4月29日(金)00時59分30秒 

たまたまデルマで見つけた High Pache(f) (2003) という牝馬。
アメリカンファミリー A-5 で、それだけなら何ということもないのですが、
ある意味で「途方もない」血統馬です。存在そのものが奇蹟です (*_*) 
まさか150年前から極東の血統ヲタクを驚かすために代々配合を・・・? 
http://www.pedigreequery.com/index.php?query_type=horse&search_bar=horse&h=HIGH+PACHE&g=5&l=




ネタ発掘の  投稿者: ふてき  投稿日: 4月27日(水)23時55分58秒 

楽しみが増えましたね。
一條家は先代の残した競馬資産を散逸させていないのが立派の一言です。

ところで、星友は一條友吉氏のお名前から一字とって名づけられたんでしょうか。
根拠は何もないんですが、どこかそれっぽい空気を感じまして。 




ヒカルド9000勝ですか。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月27日(水)21時58分30秒 

盛岡の一條家に行ってきましたが、『ホース・レビユウ』という雑誌がありました。
第1巻第2号(昭和3年8月)、第4号、第5号、第6号、第2巻第1号。
続氏の「抽籤馬全廃論」「十八年前の昔を思ひ浮べて」も載っています。
広告によれば日本騎士倶楽部発行『競馬時報』という月刊誌もあったようです。 




となると  投稿者: ふてき  投稿日: 4月21日(木)23時30分36秒 

非函館系の最大系統は林義和系になるのでしょうか。
それとも今では林系も独立系統と言えなくなっているのですかね。

この辺の話題に関してはズブの素人なもんで、資料眺めつつ。。。 




どんどん増えますね。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月21日(木)20時57分6秒 

勝ってないのが残念ですけど。

ところで古い優駿に高橋孔照89歳の修行時代回顧記事がありました。
新冠御料牧場がまだ御料になる前、開拓使勧業課の管轄だった明治15年、
勧業課御用係の函館大経先生から薫陶を受けたようです。
調教師系統の祖師のうち、山島久光が西洋馬術を習った相手は函館大経しか
考えられませんが、高橋孔照も函館大経を先生と呼んでいるとなると、
函館系を大まかに括れば全体の3分の2になってしまいそうです。
もちろん地方競馬の騎手は別にしての話ですけど。 




続  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月21日(木)20時17分24秒 

鳴尾速歩競馬会の明治41年春季の最終日に開催された特別競走の速歩競馬で
続秀太郎がクスノキに騎乗して2着に入線していました。
この特別競走は番外扱いなので、普通なら公式記録に数えないのでしょうが、
馬政局の報告書では、明治41年の競走回数にこの番外競走も含まれているのです。
明治41年度は、川崎や目黒、板橋でも番外競走が行われているのですが、
これらも全て馬政局の報告書では公式の競走回数に含まれています・・・何故なのだろう?
明治41年度は何か特別な理由があるのかな?
ただ言えることは、この年の番外競走はあらかじめ番組台帳に記載されており、
クラブ側としては公式競走として施行しているとということです。

ともかく、速歩競馬でのクスノキの騎乗を含めるのなら、
続秀太郎の騎乗数はまた1つ増えますね(^-^) 




ガイカと続騎手  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月21日(木)05時28分59秒 

第二北星は第二北清ですか。父系はトロと理解できるわけですね。
競馬連合会の報告書が刊行される以前の血統情報は厳しい~。
あとは牧場の記録などが頼りになるのでしょうけど、
そうあるものでもないから。

続秀太郎の騎乗情報について。
「馬匹世界」掲載の明治41年春季、関西競馬会でのガイカの騎乗騎手、
第2日第5競走の「都築」、第3日第9競走「鈴木」は、続秀太郎ではないでしょうか?
まだ各種新聞と調査・対校していないので何とも言えないのですが、
「都築」は「続」の誤植、「鈴木」は「ツヅキ」の音の聞き間違いの可能性があると思われます。
『馬匹世界』は誤植が多いですから(^-^) 




豊平は  投稿者: ふてき  投稿日: 4月20日(水)09時40分57秒 

馬産地日高のフロンティア、大塚助吉さんのところに居たのですよね。
(「天馬駆ける」を先日読みまして)
幻の名馬「英」を始め、その頃の馬の品種に関しては現役競走馬、種牡馬を問わず
眉に唾を10回くらいつける必要がありそうです。

今になって出来る検証作業と言ったら、僅かに残った状況証拠集め位なのでしょうけど。。。 
http://www.bunkamura.ne.jp/mokichi-club/~meiba/tachikawa/lost/backnumber/0016.html




第二北星は  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月19日(火)01時16分23秒 

第二北清のような気がします。報告書でハツカリの産地が玉山となって
いますので。玉山村は第二北清が供用されていた所ですから。
第二北清の父はジョンアールで、馬券黙許~禁止初期の北海道の競馬は
豊平の子でなければジョン(アール)の子というくらいでした。
それに持込馬とされる豊平ですが、私はジョンアールの子かもしれない
と考えています。ジョンアールは血統不詳のトロッターなんですが、
ホップエークルスも母がサラですし、サラの血を持っていそうです。 




バレましたか  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月18日(月)04時16分41秒 

その通りです。競馬連合会の報告書です。血統や名義人・騎手等の情報を得るに
大変に活用させてもらています。欠かせない資料ですね。
開催等で馬名が異なる場合などは、この馬名登録表で統一しています。


続秀太郎の騎乗数のずれは、プレッチーポリーの横浜分でしたか。
大正2年春季までに続秀太郎が札幌で2勝したことが、
当時の札幌の番組表に掲載されています。
そのうち1勝は明治41年秋札幌にガイカで挙げたもの。
もう1勝は・・・「北海タイムス」が伝える大正1年秋季第1日(9月21日)
第8競走で金根に騎乗して勝利を挙げた騎手「都築」が続秀太郎のことでしょう。
この分を加えれば、39戦25勝になりますね。
ただ大正2年秋季以降の札幌競馬の番組表には騎手成績が記載されていません(確か・・・)。
もしかしたら、それ以降も札幌で勝ち鞍を挙げているかもしれません。
僕はまだ大正1年までしか札幌競馬の整理を終えていないので何とも言えないのですが。。。

「馬匹世界」は良い競馬雑誌ですね。馬券禁止時代も刊行が続いていれば良かったのですけど。
ただ所収の成績記録は漢字の誤植が多いです。
恐らく手書きの情報を読むときに間違えたのだろうとことは推測できますが。
特に札幌分はヒドイ。前記の札幌番組表所収の騎手成績を基に、
成績を整理していたら、全く勝ち鞍が合わない。。。
特に「村田」村田長八と「村中」村中七次郎が完全にごちゃまぜになっています。
それは「北海タイムス」と対校すれば問題はないのですけどね。
ただ当時東京から遠く離れた競馬の情報を伝えることが
如何に大変だったかを感じます。 
編集済 




Lucky Boy さんがお持ちなのは  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月17日(日)20時21分27秒 

競馬連合会の報告書ですね。私も20年以上前にはさんざんお世話になりましたが、
その後すっかり忘れておりました。改めてチェックしてみたら出るわ出るわボロが。
阪神の初回の御賞典拝受馬アサカゼの父は不二見と思っていたら、鈴木健夫氏発見の
新資料によりカカオに訂正・・・したのに・・・父カカオのアサカゼは別馬でした。

>たぶん
下の例はかなりヤバいおつきあいがあって、「嫌な稼業だなあ」と思ってたんじゃと。

>いろいろ
戸畑から函館に運ぶだけでも大変なのに、その中間札幌でも走ったとは考えもせず。
馬匹世界のコピーを見ると確かに札幌で障害を使って勝ってますね、ガイカと続騎手。
プレッチーポリーは東京3連勝の前に横浜で2戦1勝してます。
これで38戦24勝でしょうか。勝率.631、イチローよりすごい。 




たぶん  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月16日(土)23時28分38秒 

中村一雄にもそのような話がありましたか(^-^)
ただ、日本競馬会成立前は(その後もだけど)少なからずトップ騎手らは疑わしい話が
付いてまわったものですし、その時期の話が中村一雄の戦後の競馬復帰に
関係していることは無いのじゃないかな。
昭和6年の競馬界追放の形になった大正~昭和初期の大御所の仲住与之助のケースでさえ、
同じく疑われた息子達弥は戦後調教師業を続けていますしね。
戦前に疑惑を掛けられた騎手・調教師の多くが
戦後も競馬界に復帰したことを考えると、美馬勝一って・・・。

往々に調教師時代の中村一雄の評判がよく、当時の『優駿』にも将来競馬界を牽引する人物
であると高く評価されています。どうやら彼は競馬中止に故郷に帰った時点で、
もう競馬界には見切りをつけたようです。彼の祖父が更科村の村長であるなど、
中村家は代々地元の資産家だたことからして、実家の酒造業を継いだか、
または農家に転じたのではないでしょうか。推測ですが・・・。 




実際  投稿者: ふてき  投稿日: 4月16日(土)16時20分30秒 

紙一重の世界だったのでしょうしね。当時は。
今となっては知る術のない闇の部分ってのも相当なものじゃないかと。

美馬家の長男孝之は御賞典を一度も拝受してないことになりますか。
ちょっと意外でした。 




暇なので食っちゃ寝てネット  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月16日(土)01時38分41秒 

してたらまたここに来てしまいましたが、想像するに中村一雄は帰参できない理由が
あったんじゃないですかね。

昭和9年秋阪神の帝室御賞典3頭立てで3着はともかく、
「最初から中村君の騎乗態度が不謹慎とのかどで主務省から指示あるまで騎乗停止を
命じられ馬も出走権を剥奪された」(神戸又新日報)
「クラツクラバレリー最初からレースをせず約三百㍍の差で入選不快なレース振りで
あった」(大阪時事新報)

このようなあからさまな行為は八百長とは思えませんが、何かあったクサイ。 




四兄弟  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月16日(土)00時57分49秒 

第二北星・・・全くわかりませぬ。お手上げです。
明治43・44年出走登録馬名表で第二北星の子はハツカリだけでした。

美馬四兄弟はネタに尽きませんね。
競馬界もう一つの四兄弟である大久保四兄弟(福蔵、亀治、末吉、末太郎)とは
全く違った生き方となっていますね。

美馬勝一の弟子で最も優秀だったのは、やはり中村一雄でしょうか。
その騎乗は師匠ゆずりの逃げを得意とし、彼こそ天才と呼ぶ人も多かったとか。
中山四千メートルでハクリユウで逃げ切りレコード勝ちしたのも彼です。
昭和5年・6年と首位騎手を獲得し全盛期を迎えたにも係わらず、
翌年からは調教師として厩舎運営に集中してしまったので、
騎手としての全盛は非常に短いものでした。
確かダービーで本命視されていたミラクルユートピアは、
彼の管理馬でしたね(ダービー当日に骨折で出走断念)
ちなみに彼の弟、中村広は昭和25年に首位騎手を獲得しているので、
兄弟での首位騎手獲得を達成しています(史上2組目)。
中村一雄は広と共に、戦時中に故郷の長野県更科村に戻り、
戦後、広は競馬界に戻ったのですが、
一雄は競馬界に戻るのをあきらめてしまいました。

以前から、戦後の中村一雄の情報を探しているのですが今のところ手がかりなし。。。
どこかに良い資料はないかな~~~。 
編集済 




なるほど  投稿者: ふてき  投稿日: 4月15日(金)22時56分23秒 

それはありそうな背景ですね。

しかし美馬四兄弟、皆同じ道を歩んだとは言え、四者四様の性格相違
見事なまでに生き様の違いを見せてくれたってことですね。

天才肌で海外進出の先駆けも無念夭折した長男。
結果最も社会的成功を収めることになる常識人な次男。
破滅型キャラを随所にちらつかす社会不適応な三男。
ひたすら地味な裏方職人タイプの四男。

漫画チックに妄想膨らますとこんな感じでしょうか。
他意は一切ないので、関係者の方笑ってお許し下さいね。
ちなみに言うまでもなく自分は三男勝一型っす。 




第二北星とはどんな馬  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月15日(金)20時26分54秒 

なんでしょう。初めて聞く名前です。盛岡産馬組合の第二北清とは違うんですね。

昭和初期の競馬ファンに掲載された「馬主と騎手」秋月睦男(野辺好一)によれば
北郷五郎の弟子に美馬勝一、稲葉秀雄(秀男)、小林光威(三雄三)、佐藤順治、
梶与三男、美馬信次となっています。信次は非常に古い時代に尾形師に入門していた
のでしょうが、馬券禁止時代にブランクがあり、北郷厩舎に入ったと思われます。
美馬勝一の弟子に中村一雄、美馬武雄、古野庄三郎、井川為雄(為男)、竹野与太郎、
石井正、中村広。
美馬信次の弟子に武田作十郎。

美馬武雄は初め信次の厩舎にいて勝一厩舎に移り、アルプスという馬の馬丁兼任でいた
とき2度までもエビハラを治したそうで、夏も冬も鳴尾の海岸で水に入っていたとか。 




のようですね  投稿者: ふてき  投稿日: 4月15日(金)19時17分7秒 

大島輝久氏の「日本の調教師」にも

「信次は尾形厩舎初期に主戦騎手として健闘。大正13年札幌の
帝室御賞典をフラックスで優勝。昭和10年にヒロウイツクで
阪神記念。ほかにパンシーで特別競走2勝などの記録が見られる、
弟子の養成に力を入れていたが、30年に死亡。」

とありました。
ついでに、

「長男の孝之は林義和系で、ペルーに渡って騎手生活。胸部の
疾患で帰国してまもなく死亡。末弟の武雄は師匠につかず、
自力でか業を持ち、息子の重大を弟子にした。
姉は稲葉兄弟の母である。」

このシリーズのスクラップも散逸してしまっており、勝一を記述した
ページはついぞ見つけられませんでした。。。

で、これを読んでて改めて気づかされたのですが

尾形藤吉-美馬信次-武田作十郎-武豊

となるので、徒弟関係で言えば美馬信次は武豊の師匠の師匠格にあたっていたんですね。 




いろいろ  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月15日(金)13時39分33秒 

大正13年札幌の御賞典(勝馬フラツクス)は美馬信次で問題ないようです。
戦前の「優駿」に掲載されていた美馬信次厩舎の紹介で、
「王子製紙の足立さんの愛馬フラツクスに乗って札幌・函館で鳴らしていた時分が・・・」
の一文がありました。

公式成績書でも昭和3年以前は騎手成績統計が記載されていないので、
成績表の騎手の名字だけでは個人の特定が難しいですね。
個人的に昭和3年以前の年間騎手勝鞍数を集計したのですが、
どうしても確定できない騎手も少ないないです。
まぁ成績上位者は確定できたんで問題はないんですが。。。

同開催で同じ名字の騎手が出走していう時は「美馬勝」「美馬信」と下の名前の略を
付しているのですが、その開催で同じ名字の騎手が出走していない時は
略名が付されないこともあるようです。
ですので、「美馬」と「美馬信」が並び立っていても、
一様に前者を勝一とも言えないかもしれませんね。


続秀太郎の成績ですが「函館競馬百年史」に掲載されていますね。
そこでは35戦22勝とありますが、「天皇賞の世紀」には37戦23勝とあります。
このずれは、おそらく新たに成績が判明した部分だと思われます。
「天皇賞の世紀」では大正元年~2年に12戦11勝、
「函館競馬百年史」では大正元年~2年に9戦8勝ですので、
ずれはこの時期の成績によるものだと思うのですが、微妙にずれが一致しない(^-^)
「函館競馬百年史」掲載分には続氏の札幌開催での勝鞍が含まれていないので、
そのあたりの分だとは思うのですけどね。
それでも、続氏が明治41年秋札幌で挙げた1勝は含まれてはいないでしょう。
まだまだ続氏の成績が判明してくる可能性ありそうな気がします。 
編集済 




なるほど目から鱗です。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月14日(木)22時07分2秒 

美馬4兄弟は新冠御料牧場生まれ、乗馬技術は子供の頃から身につけていたでしょう。
当時の慣習として同姓の騎手が複数いる場合、先にいた騎手を名字で表すことが多く、
「美馬」は長兄の孝之かと思っていました。勝一しか免許されていないのなら、信次が
免許された後「美馬」と「美馬信」が並び立てば前者は勝一ですね。

函館競馬百年史を見ると大正10年春に2戦1勝した騎手が美馬勝一になっています。
また昭和11年に暴行事件を起こした美馬勝一を42歳と書いていますから、大正4年
には21歳、十分に御賞典を勝てる年齢です。

すると大正13年に札幌で御賞典を勝った騎手はどうなんでしょうね。成績書は美馬と
だけ書いていますが、中央競馬年鑑では美馬信になっています。当時美馬信次は札幌に
勝一は新潟に厩舎を構えていたと思うのですが。

美馬勝一は「美馬勝が乗るレースは馬券が買えない」と言われたほどの八百長が禍して
戦後は公認競馬への復帰が許されず、しばらく甲子園で菓子屋をしていましたが、結局
新潟県営競馬に身を投じました。優駿に載った60代後半の写真は見るからにうまや者
という感じで、続氏らの競馬とはまた違った競馬の世界の人でしたね。 




補足  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月14日(木)21時52分48秒 

「天皇賞の世紀」成績表にて。
明治44年秋、阪神の御賞典の勝ち馬ハツカリの血統が不詳になっていますが、
の明治44年の出場登録名簿によれば、父が第二北星、母が不詳となっていました。 




いっそのこと  投稿者: ふてき  投稿日: 4月14日(木)18時54分12秒 

美馬家の戸籍を調べますか(笑)

>>競馬ブック

自分も今となっては気になる不定期連載が掲載されてる週のみの購入で。
10~15年前は毎週何かしら心躍る連載があったんですけどねー。
まぁインターネットの影響も大きいんですが。

続氏ネタはつきることがないですね。
みっちり調べたら、きっと面白い伝記が作れるんじゃないかと。

「続秀太郎なくしてトウカイテイオーは存在しえなかった。」
と言ったら流石に言い過ぎですかね(笑) 




美馬情報  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月14日(木)11時59分16秒 

勝一のデビューですが、兄信次に先駆けて早かったようです。
明治44年の騎手名簿には、美馬勝一は東京と藤枝で騎手免許が交付されていたことが
記されています。実際に出走したかはともかくですが。。。
また美馬孝之は東京と阪神で免許を交付されたとありますが、
居住住所が記されておらず、すでに日本にいなかったことが窺えます。
ちなみにその名簿には手書きで「死」と書かれていました。

大正1年から大正4年までの騎手名簿は存在を確認できないのですが、
大正5年から大正11年まで騎手名簿は現存しています。確認したところ、
「美馬」の名字で騎手免許が交付されたのは勝一のみで孝之・信次の名はありません。
また勝一が免許を取得した競馬場は、「美馬」が騎乗した競馬場と完全に一致するので、
大正期の「美馬」は勝一で間違いないでしょう。

孝之が早くに死去したことは、諸々の資料に書かれているのですが、
具体的な内容が取れたのは尾形氏の回想のみです。
できればもう一つ別に裏付けが取れれば完璧なのですけどね。
ただ大正期以降は競馬界で孝之が活躍した具体的情報は全くないので、
帰国後早くに死去したと考えるのが妥当だと思います。


戦後ヒサトモが地方競馬で走ったという話は今では有名になりましたが、
続氏が関わっているとしたら・・・。ありえそうな話ですね。 
編集済 




すごい情報ですね。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月14日(木)09時15分58秒 

でも美馬孝之が帰国後死んだというのはどうでしょう。競馬法成立後も生きてると思いま
した。競馬法の頃に次男の信次がようやく活躍し始めてますし、勝一はその頃デビューし
てるかどうか。その他のことは多分著者が寄る年波でボケたんじゃないですかね。他にも
随分間違いが多くて、いずれ一挙修正になるものと睨んでます。

ところで続氏はヒサトモを落札したことも自慢してます。取手で汽車を乗り捨てて自動車
を飛ばしてようやく間に合ったとか。5~6千円の馬をという宮崎信太郎氏にこの馬なら
繁殖として1万円の価値があると説き、1万5~6千円までならと言われてセリに参加し
乾鼎一氏と競り合って2万円で落札。人の懐の迷惑を考えないところはさすが続氏です。
ヒサトモは戦後地方競馬を走って死にましたが、空胎が続いたので馬体を作り直すために
走らせたのだとか。ここで大疑問。そんな突飛なことを思いつく人がどこにいるのか・・
永遠の謎ではありますが、宮崎氏も函館の人、そしてヒサトモを買ったのが続氏なら・・ 




知らなかったよ~  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月14日(木)04時32分57秒 

競馬ブックで「天皇賞の世紀」なる読み物を連載していたのですね。
最近、全くブックを買っていなかったので全く知りませんでした。
で、早速一通り読みました。御賞典の発祥についての論はとても興味深いです!
大変に勉強になります。できれば刊行本になることを望みます。
ただ、どの年をもって発祥とするかは、まだまだ議論の余地があるのでは?
というのが僕の感想です。

掲載されている成績表ですが、まだ詳しく確認してていませんが、
ざっと気が付いた点を挙げてみます。

・大正4年秋と5年秋の横浜の御賞典の優勝騎手、大正8年東京春の2着騎手は
美馬孝之ではなく弟の美馬勝一。
  > (補足)美馬孝之は、多賀一ら仲間3人で作っていた“Hクラブ”のお抱え騎手で、
  > 目黒の祐天寺の裏に厩舎を構えていたのですが、馬券禁止時代の日本競馬に見切り付け、
  > ペルーの大統領に請われて、南米に渡ったことは何度も話題にしたことです。
  > 移住を前提に、明治44年5月日本を発った美馬ですが、
  > 現地で胸を患い一年足らずの滞在で日本に帰国することになりました(大正2年3月)。
  > その後の彼の消息ですが、尾形藤吉によれば、帰国して半年ばかりで亡くなったそうです。
  > ちなみに美馬孝之が管理していたHクラブを引き継いだのが尾形藤吉です。

(*)・大正4年秋の東京の御賞典で着外馬が不明となっていますが、
英字新聞「ジャパンガゼット」には“ソトヤマ、ダミリ、ハナサカリ”、
と記されています。

(*)・大正8年春の横浜の御賞典で、英字新聞「ジャパンガゼット」では
3着の騎手が青木、着外のビューランの騎手は玉谷となっています。

・大正3年春の東京の御賞典。着外馬ウラカゼの騎手野武のフルネームは野武亀吉。

・大正6年秋の横浜の御賞典。着外馬ヤエギクの騎手Kiichiは岸参吉のKishiの誤植でしょう。

・大正7年秋の横浜の御賞典。着外馬スワコの騎手池田のフルネームは池田多蔵。

(*)著者は「ジャパンガゼット」確認しているはずなので、
別の資料、「ジャパンメール」などと記述が一致しないのかもしれませんね。 




歴史のイフ  投稿者: ふてき  投稿日: 4月13日(水)19時17分28秒 

幻のJ1ファミリー牝祖と言う感じでしょうか。>飛花(USA)
もし万が一にも続氏らの計画が成功していたら、今日の日本の競馬の姿も
或いは違った形になっていたのかも。なんて妄想もしてみたり。

このアサヒ自身渡島生まれのようですし、飛花の牝系ってのは
基本的には続=平出コンビの影響下にあったのでしょうかな。

こちらの↓サイトでも紹介されている「ウルグアイファミリー」ですが、
ひょっとしたらファミリーテーブル4でフォローされてるのかな、
と思ってたんですが、やはり当然と言うか圏外でしたね。
しかるべき団体の正式な承認は未だと言うことなんでしょうかね。

ちなみにFT4で扱ってる範囲はAが39まで、Bが26、Cが36、
Arが2、Pが2まで、となっております。 
http://bloodlines.net/TB/Families/FamilyNumbers.htm




日本サラブレッド候補  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月13日(水)01時08分15秒 

御賞典と言えば大正8年に横浜でアサヒという馬が勝っていますが、
日本サラブレッド協会が無事に登録事業を始めていた場合(可能性は0でしょうが)
この馬がサラブレッドになっていた可能性があります。アメリカ血統書も第1巻は
イギリスにルーツを辿れないヴァージニア植民地の馬が大量に載っていますし、
豪州や南米にもイギリスに遡れないファミリーがありますが、続秀太郎氏が
サラブレッドとして例を挙げたのが「飛花」です。パークスの乗馬だったそうで
今の基準なら半血としか言えませんが、続氏はアラブかサラブレッドかわからぬが
純血種で「古き北海道産馬の血統は必ずこの飛花号より胚出」と書いています。

アサヒ 父ダイヤモンドウヱツデイング(サラ) 母第五飛練
 第五飛練 父セントフヲスチノ(サラ) 母第三飛練
  第三飛練 父ユスーフ(アア) 母飛練
   飛練 父ホツプエークルス(トロ) 母第二アドミラル
    第二アドミラル 父アドミラル(トロ) 母飛花(米国産、血統不詳)




呼吸数  投稿者: ふてき  投稿日: 4月10日(日)09時39分7秒 

当時の札幌では外向けにも数値を発表してたってことでしょうか。
3マイルやら曲線やらの特別な競走に関して。

コザクラと言う名の馬で御賞典を勝ったのは2頭いるんですね(東京と横浜)。
・カルマ×青柳の牡(大正元年生)
・セントフヲスチノ×神戸の牝(大正5年生)
どちらかと言えば後者の方が著名な存在なのですかな。

#SAダービー勝った馬の父 Marco Bay ってなんだっけ?
#と、思ったらトムフールの傍系ですか!いやいや痛快。 
http://www.pedigreequery.com/buzzards+bay2




3マイルレースでも  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月10日(日)01時08分18秒 

呼吸数の報道がありましたよ、北海タイムスで。
なんでそんなことを知ってるかというと大正5年に東京で帝室御賞典を拝受した
コザクラの母の青柳が札幌・函館でデビューから15連勝した馬で、その記録を
調べてたら3マイルレースで負けた時にすごい呼吸数だったと。青柳はクリフジ
をしのぐ不敗の名馬どころか30敗以上して竜頭蛇尾に終わったんですけどね。 




謎が謎を呼ぶ  投稿者: ふてき  投稿日: 4月 9日(土)21時14分35秒 

まだ微妙に読み解けませんね。
1頭落馬しちゃったりと、かなりトリッキーな設定であることは確認できますけど。

>>ミンドル呼吸百二十

これは何でしょうかね。
エンデュランスでは心拍数チェックがあったと思いましたが、呼吸数は? 




感謝です  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月 9日(土)01時09分22秒 

早速の松平笑山の情報、ありがとうございます。
本名が判明しただけでも大助かりです。
僕も出版年鑑などを少し調べてみましたが、今のところは情報は得られずです。
”松平八六”の名は聞いたことがある気がすすのですけどね。。。

雑誌は、どこかの蔵にひっそりと眠る個人所蔵ものに期待するしかないのかな。
そう言えば去年だったか、九州のある家の蔵から現存しないとされていた明治期の
複数の地方新聞数年分が発見されて話題になりました。
そのようなことが現実にあるのですよねぇ。

曲線競走でについて。初めて開催された明治43年秋季二日目第八競走
“内外国産各種混合曲線競走”。「北海タイムス」は以下のように伝えています。
-------------------------------------------
本競走は競馬中第一の困難なる競走にして、前記三頭(ミンドル、第二北海、
サウスウエルス)にマンソウと四頭出走。マンソウ先頭ミンドル最後方より発走す。
暫らくにして、サウス、第二北海の二頭マンソウを抜きにしてサウス先頭に立ち
第二北海とマンソウの二頭抜きつ抜かれつ争う。中半哩の辺より数十間の後位にありし、
ミンドル急に速力を出して見る間に三頭を抜きて、遂に先頭に出でて愈よ曲線にかかり
マンリウ小廻りにミンドルの左方を廻らんとして落馬し、
ミンドル大廻りに左手前に廻り速度を増して一着に入る。
第二北海、サウスウエルスの二頭此れまた巧みに曲線を廻り二三の順に決勝点に入る。
ミンドル呼吸百二十.
(注)読みやすいように句読点を追加。一部、漢字を仮名に変換してあります。
---------------------------------------------

記事から推測して、曲線はゴール直前に1つですね。
他の観戦記事も合わせて見ると、最後の曲線を抜けたところがゴールのようです。
これはコーナーの出口をゴールとしたのかもしれません。
まだ納得いきません・・・引き続き調査してみます。 




門別には  投稿者: ふてき  投稿日: 4月 7日(木)22時01分6秒 

「松平牧場」さんもあるらしいですし。

しかし知られざる雑誌資料の類って、まだまだありそうな感じですね。
まぁもっとも、このクラスだと現存してたとしても個人所蔵に限られるかもしれませんが。
いつの日か謎のミッシングリンクを繋げる役割を果たしてくれませんかねー。 




↓競馬会は競馬界の誤り  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月 7日(木)18時41分16秒 

です。 




『馬之友』大正8年7月号に  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月 7日(木)18時40分13秒 

▲松平八六氏(馬事公報社長) 
笑山の号を以て多年馬事界殊に競馬会に侃々諤々の筆陣を張られ貢献する所
多かりし同氏は去月十日宿痾を以て終に永眠せられしは悼惜の至り也。

という記事があります。馬事公報という雑誌は私は見たことがありませんし
国会図書館にもありません。しかし馬券禁止時代に競馬雑誌を発行していた
とは敬服の至りです。松平がどこかの殿様の系列だと面白いんですが、地方
競馬に松平(まつひら)騎手がいますし、その辺はよくわからないですね。 




気になる。。。  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月 6日(水)21時01分23秒 

話は飛んで、『馬の友』の大正6年春の松戸競馬の記事に「馬事広報の松平笑山氏・・・」と
見えます。また馬事文化財団所蔵の第二次競馬連合会報告書の表紙に
「馬事新報社松平笑山君より寄贈せらる」と手書きで書かれていました。

「馬事広報」「馬事新報」は、オンライン所蔵検索では上記の雑誌は出てこないようです。
実に気になるところなのですが、もっと気になるのが松平笑山。
彼って誰だい? あの松平家の者なのかな。だとしたら笑山はペンネームか。
調べてみなきゃ!です。 
編集済 




龍勢萌え  投稿者: ふてき  投稿日: 4月 4日(月)08時49分32秒 

どこか関取っぽい名前ですが(^_^;)

曲線競走は競馬のスラローム種目と言う想定ですかね。
直線に数箇所障害物を置いて、それを蛇行しながら駆け抜けるイメージ。

しかし札幌競馬場、平成より明治の方が距離バラエティが豊富だったという
事実には言葉を失いますなぁ。 




ご教授ありがとうございます  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月 4日(月)03時44分13秒 

> 通りすがりさん

>>障害物を避けながら走ったのかなと・・・
「曲線競走」なるほど、そのような競走だった可能性はありますね。それならば想像できます。
もしそうだったとしても奇抜な競走であったとことは変わりないですね。
観戦記事や誰かしら観戦した人の日記に状況が書かれていると嬉しいのだけどなぁ。。
札幌の3マイル競走は、最初は印刷ミスかと思いました。
明治44年春季の最終日、優勝戦2マイルと長距離戦3マイルを龍勢が連勝しましたが、
『競馬世界』の記事に、龍勢が言葉をしゃべったら「2マイルと3マイルの長距離を勝ったけど、これっれ動物虐待じゃない?オレだから大丈夫だったけど、他の馬だったら死んでいたよ。」と
言うだろう、という内容のものがありました。なかなか洒落た記事です。
札幌や函館は、同一馬の一日複数出走の例が多々ありますね。

メートル訴訟の説明ありがとうございます。
これまでずっと「距離の不正操作」だと思い込んでいました。
思い切り勘違いですね・・・お恥ずかしい。。。。
ブログにガセ情報を流してしまった・・後で訂正書きをしておかなければ。
あのブログでの書き込みですが、日本と海外の中央・地方競馬の比較論をする前提で、日本の中央・地方競馬の交流禁止の経緯を説明しようと思ったのですよ。でも交流禁止を説明するには、さらに当時の競馬事情を説明する必要が・・・で結果ダラダラと脱線気味に内容になってしまいました。まぁ、少しでも古い競馬に興味を持つ人が増えればいいかなぁ~と。
書き込んでいる内容は、先人たちの著作物の良い所取りなのですけど(^-^)

まだまだ勉強不足なので、何かありましたらまたご教授ください。 




曲線競走は謎ですね。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月 4日(月)01時09分32秒 

札幌はアイデアマン持田謹也氏の指揮の下、全国に先駆けて障害レースをやったり
3マイルレースをやったりしてますが、曲線競走もその一環でしょう。明治44年
の番組を見ると普通のレースの距離は6f、7f、8f、9f、12fで、曲線は
10fですね。タイムは9fで2分10秒、12fで2分57秒程度なのに対し、
曲線10fは2分30秒を要しているので、時間がかかってます。9fの発走地点
から出て、障害物を避けながら走ったのかなと妄想してます。

札幌は他と同じ1周1マイル馬場ですが、ゴールを直線の中央に置いて、右回りも
左回りもできるようにしてました。将来的には現在の厩舎地区までコースを拡張し
左回り1周1マイル半くらいの大競馬場を構想していたみたいですが、馬券禁止で
夢に終わったみたいです。コーナーが非常に緩いのはそのためかと。

Lucky Boyさんのブログ少しですが読みました。
メートル訴訟は距離のことではありません。投票数を記した掲示板をメートル板と
呼んだのです。バロメーターなんて言い方と同じですね。勝ち馬の投票数が50票
だったのにレースが終わったら100票になってたとか、そういうことです。 




わからんです  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月 3日(日)22時34分38秒 

普通に考えれば「曲線」=「コーナー」なのでしょうが、
まさかコーナーだけを走るなんてことはないでしょうし・・・よくわかりませぬ。

調査して報告します。 
http://blogs.dion.ne.jp/luckyboy/




何でしょうかね  投稿者: ふてき  投稿日: 4月 2日(土)21時20分53秒 

単純に考えれば「直線」に対する「曲線」なのでしょうか。
直線競走ばかりやっていてコーナーを使う曲線競走がマイナーだった、
なんてことはありえないでしょうしね(苦笑)

明治末期ということは競馬場自体今の桑園の前身で間違いないでしょうけども。はてさて。 




お宝情報ですね  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 4月 2日(土)12時06分16秒 

プランゲ文庫については、以前よりその存在は知っており、
そのうち調査してみたいと思っていましたが・・・ビツクリですね!
戦後間もない時期の刊行物は、競馬に限らず多くの分野のものが国内に現存しないもの多い。
戦後の言論統制、GHQの検閲の遺産で現在に残されたというのは、
あり意味で歴史の皮肉と言えるのかな(^-^)
僕も暇をみて調べに行ってみよう!

で、ちょっと話は飛ぶのですが、明治末期頃の札幌競馬の成績を整理いたところ
「内外国産各種混合曲線競走」なる競走がありました。
この“曲線競走”とはどういうものなのでしょう?
手抜きせずにちゃんと調べれば良いのですけど(^-^)、
知っている方がいらっしゃれば、ご教授してください! 




確かに  投稿者: ふてき  投稿日: 4月 1日(金)23時39分43秒 

年代が全然違いました。汗々。>「競馬評論」
まぁでも、それがキッカケで何かの新発見に繋がるなら本望なのですが。

新しい方の「競馬評論」は地道に古本屋巡りするしかないですかな。
まぁ札幌辺りですと、ほとんど期待はできないでしょうけど。。。 




でもよく見ると  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月 1日(金)22時53分52秒 

国会図書館とは別ルートで入手・販売してるのかな?
ZKの133万円は高すぎるので(競馬だけ10万円くらいならいいけど)
この次国会図書館へ行ったとき雑誌が入ってないか探ってみます。 




↓ワーオ!  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月 1日(金)22時43分0秒 

これすごいです。私が下に書いた「競馬評論」とは違いますけど。
プランゲ文庫はメリーランド大学にあって、進駐軍が検閲した新聞雑誌書籍です。
それを国会図書館の憲政資料室がマイクロ化して持ち帰っているわけですが、
私が一昨年見た時にはまだ新聞しかなかったような気がします。
競馬ブックとか競馬ニホンとか(新聞のはずですが)雑誌扱いだったんですね。 




自分は全く存じあげません  投稿者: ふてき  投稿日: 4月 1日(金)19時42分4秒 

ネットの古書検索でもほとんど出てこない感じっすね。
さらっと見た中でそれっぽかったのはこれ↓くらいでしょうか。
ただ出版元が株式会社競馬評論社とか白雲書房とか記されてるんすが。。。

文生書院のプランゲコレクションってのは寡聞にして知らなかったです。
国会図書館に行けばマイクロ閲覧できるのかと思ったら、そうでもない感じですか? 
http://www.bunsei.co.jp/prange/list/ZK_3.htm




雑誌といえば  投稿者: 通りすがり  投稿日: 4月 1日(金)18時10分39秒 

どなたか「競馬評論」をご存じありませんかねえ。
JRAにも現存しませんが、昭和40年代中頃に確かに月刊で出ていました。
版元は日本競馬人協会というすこぶる付きの怪しい団体でした。
学生の身分ゆえ「優駿」「競馬ブック」「週刊エース」を買うので手一杯。
激しく読みたいと思う今日この頃であります。