2005年8月




御結婚おめでとうございます  投稿者: ふてき  投稿日: 8月30日(火)23時59分27秒 

ご指摘のとおりですね。
http://www.cmh.ru/catalog_6.htm
ここの上から3頭目ですもんね。

Свитч(UKR)--ЦИНГ(UKR)--ДИЦ(UKR)
Switch(UKR)--Tsing??(UKR)--Dits(UKR)

なんと内国産3代目になりますか。
うーむ、Switch の先が気になります。やはりタゴール系なのだろうか。。。 




書き込みは何年ぶりでしょうか  投稿者: 新婚大阪人  投稿日: 8月30日(火)23時28分10秒 

ロシアダービー9位のサラは 父が ЦИНГ なので
Switchには ならないですよね。
で ЦИНГは 1996年のウクライナダービー勝ち馬。
で 父の名前が Switch Свитч (UKR)です。 




オーチンハラショー!  投稿者: ふてき  投稿日: 8月28日(日)19時58分42秒 

これは素晴らしいサイトですね。タレコミ感謝っす。

ブログのエントリの方は後ほど訂正&追記しておきます。
着順も間違えてたりもしてたようで、今ごろ冷や汗噴出(笑)

それにしても貴重な情報が「英語で」満載です。
ウクライナの種牡馬 Switch(UKR) の正体は一体なんなんだろうって。
個人的には Dubai Excellence よりこっちの方に興味津々。 




毎年のことですが  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 8月28日(日)18時48分2秒 

8月は忙しく競馬も殆ど手付かず。。。ぼちぼち暇になるので、
活動を開始したいと思っています。

ロシア競馬で良いサイトがあったので報告しておきます。
http://www.donskoistud.ru/
ニュースの項目では、歴代の二種のロシア3冠馬(3歳3冠世代3冠)も
紹介されています。
今年のロシアダービー出走馬でふてきさんが内国産としている馬は
ウクライナ産であるようです。
確認してみてくださいませ~~ 




ということでしたか  投稿者: ふてき  投稿日: 8月23日(火)23時08分16秒 

若き日の白井氏らしいエピソードですね。
当時の日本産トロッターなんてどう考えても低レベルだったでしょうに
曲がりなりにも本場で勝ち星を挙げたのならもっともっと賞賛されて
しかるべき史実なのではと。

あと、速歩界が泥まみれだったとすると、それに嫌気がさし米国へ持っていった
と言う面もありそうですかね。
いずれにせよ日本の速歩は程無く雲散霧消ですが。。。




白井氏が発行していた新聞  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月23日(火)20時12分43秒 

『昼夜通信』に事の次第が書かれていました。
父母共に昭和27年白井氏が初めて渡米した時買ってきた馬です。

暮の31日に、横浜を出た太平洋上の快速船チャイナ・ベア号は、九日に桑港に到着
した。これが本場のアメリカで一流馬に互して勝てるとは思っていない。日本の記
録では米トロの時計資格のハロン一六秒八にやや達しない。だがこれをアメリカの
トレーナーが、アメリカ式に再調教し、アメリカの馬場でアメリカのレースをすれ
ば、中堅級までいけるのではないか。…との夢は持っている。これは一つのテスト
である。一応日本の代表的トロが、どこまでの素質があるか、めくら蛇におぢずか
も知れないが、成功しても失敗しても、日本の速歩馬の将来を卜するには、とに角
大きな参考になる筈である。

白井氏の持ち馬だったみたいですね。登録名義人のフランク・ゲイ氏は平地の元調
教師で、当時はハリウッドパークの渉外係でした。初勝利の後売却したようです。 




何を隠そう  投稿者: ふてき  投稿日: 8月22日(月)22時43分13秒 

自分もトマコマイの出なんですが(笑)

ランチョってあの白井新平氏の牧場のことだったんすね。
まぁこの馬の加州送り込みには関わってないのでしょうけど。。。

デルマの All Breed にこの馬の登録はありませんが、父の父が載ってますね。
例によって Flying Childers~Mambrino から派生した米トロの父系ですか。
この馬自身は持込みになるのですかな。導入の背景にどんな意図が込められていたのやら。

Erratum の生年修正しました。
あと、From the New World に情報記載のあるアメリカからの輸入サラブレッドを
一通りデルマに登録しました(母の生年未記載馬を除く)。 
http://www.pedigreequery.com/ralston2




Erratum は b. 1895 です。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月22日(月)20時29分0秒 

ところで昭和35年にランチョトマコマイで生まれたダーネルファイブという馬
1965年にサクラメントとフェニックスで勝ってます。
父トーピード(Torpedo, ch. 1941 by Guy Abbey)
母ダーネルスリー(Darnell's Lee, b. 1947 by Darnell's Abbe)
という血統の鹿毛のトロッターで、加州イングルウッドのF・W・ゲイ氏により
スタンダードブレッドとして1965年に登録されました。

残念ながら米国での詳しい成績は日本ではわかりません。中央競馬では旧4歳時
と5歳時に56戦8・5・2・41ですが、当時の速歩は八百長だらけですから
これだけで力量は測れません。また全馬がマル特すなわち地方上がりで、3歳時
地方で走っていた馬ばかりという構成でした。
お母さんはダーネルス・リーなんだけど弟にダーネルシックスがいたり・・・
それにしても何故アメリカへ行ったのか不可思議千万です。 




駒苫連覇おめ  投稿者: ふてき  投稿日: 8月20日(土)15時33分4秒 

当時はルイヴィル競馬場でしたね。
成績もなかなかのようですけど、この馬、伝説のハッギン氏生産なんすね。
(デルマによれば母父 Maxim もハッギン氏がNZから連れてきてる模様。)
日本に入ってからトライアムフハントとトニックの成績が逆転してるのも興味深く。

Erratum の父母、頂いた情報で繋ぎました。
ただしデルマで編集作業する際の仕様で、生年の入ってない馬は各種データを
入力できないんですよ。
なので Erratum の生年にテキトーな数字を入れなければならず、
あくまで暫定的に前後の整合性の取れる1892年を入力しました。
実際の生年がわかり次第修正しますので、それまでの間はみなさまご注意を。 
http://www.pedigreequery.com/triumphant6




整理が悪くて元資料が  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月20日(土)14時18分57秒 

見つからなくてフロッピーに入れたものしかないんで歯切れが悪いんですが
トライアムフハントの母父はデルマの maxim2 で母母は faux+pas6 ですね。
この馬は在米時76戦14・10・19・33、明らかにトニックより上で
今のチャーチルダウンズでも勝ったことがありますが、最後はシアトルに流れた
くらいですからやはりC級馬かと。6ハロンを得意とするスプリンターでした。 




僅か百年前のことなんですけど  投稿者: ふてき  投稿日: 8月20日(土)12時17分41秒 

サラブレッドの底辺クラスの馬ですらその他大勢の品種達との能力差を
見せ付けてくれますね。
このトニックの全姉から派生した牝系がつい最近まで残っていたらしく
またまた米国馬産界の懐の深さを見せ付けられちゃうわけで。。。
http://www.pedigreequery.com/DIGIS+GOLD

それと、ついでなんでトライアムフハントも入力しました。
わかる範囲の情報だけですが。 
http://www.pedigreequery.com/triumphant6




TONICは1908年輸入ですね。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月20日(土)02時35分22秒 

馬券景気に湧く日本に来たつもりがタッチの差で馬券禁止に。
トニックの来日前の成績は

1906 オークランド  3戦0・0・0・3  収得賞金なし
1907 オークランド 10戦0・1・0・9  収得賞金75ドル
1908 オークランド 17戦2・3・0・12 収得賞金1,175ドル
1908 シアトル   16戦0・3・2・11 収得賞金不明

シアトルの夏は毎週走らされた日本風に言えばC級馬ですが、これでもセッツや
メルボルン二世なんかより遥かに強かったんですよね。距離が伸びると勝ったり
上位に来たりしていて、アメリカ競馬には合わなかった一面もありそうです。 




浦潮競馬  投稿者: ふてき  投稿日: 8月19日(金)23時07分42秒 

確か遠征第二弾も企画だけはされていたんですよね。
馬が無理だったんで、騎手が身体一つで出稼ぎに出たと言うことですかな。

*トニック、デルマに登録しときました。
英名スペルに根拠はありませんが、普通に考えればやはりこれなのかと。
本邦輸入年は1908年にしときました。違ってたら修正いたします。

#しかし当時の極東ロシアでもサラブレッド生産が行なわれていたんすね。。。 
http://www.pedigreequery.com/tonic10




ウラジオ余聞  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月19日(金)19時41分44秒 

今度は昭和34年の優駿です。石井三郎という人の記事ですが、半沢喜一郎元騎手が
競馬共助会に勤めていたので、半沢氏からの聞き書きと思われます。

明治42年に日露大競馬会が行われましたが、翌43年マスレンコという大金持ちの
貴族から日本レースクラブに騎手の依頼があり、半沢と秋山辰治が7月中旬に出航、
2ヶ月半の間に20勝くらいずつしたそうです。横浜で乗っていたパースがウラジオ
に居残ってボス格になっており、金がなくなるとパースと組んで馬券勝負のレースを
仕組んだとか。

44年にはマスレンコからサラブレッドの種馬をとの依頼があり、半沢がカナダ人の
主人が持つトニックを4月にウラジオへ運んだとのこと。トニックといえば明治末期
の日本最強馬であり、その後半生が謎だっただけに、渡露したと知って一安心です。

同じ記事に、美馬孝之は帰国の船中で肺炎に冒され、故郷の新冠に戻った1週間後に
亡くなったと書かれていました。 




要保存でしょう  投稿者: ふてき  投稿日: 8月17日(水)07時56分45秒 

古の競馬人を記録するコンテンツでもあればいいんですけどね。
成績だけじゃなく簡単な略歴とかエピソードとか織り交ぜた内容で。

この貴重なログが黙って流れちゃうのも勿体無い話ですし。




近代的騎乗法の開祖??  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 8月16日(火)17時42分34秒 

昭和33年の競馬週報の記事は、重要且つ興味深い内容がテンコ盛りですね。
ありがたく参考にさせていただきます。

「南米チリーから皇帝の名で」は"ペルーから大統領の名で"が正しいですが、
美馬孝之がチリでも騎乗したことは以前にも話題にした通りです。
チリへ移った理由として「一年中雨が殆ど降らない気候」のリマから離れて、
気候の良いサンチアゴで療養という意味合いもあったのかなと推測しています。
それにしても弟、美馬勝一は数多くの優秀な弟子を育てるなど、
騎手としてだけではなく、厩舎運営にも才がありながら実に残念な末路です。

中村一雄=逃げ、といったような印象があるのですが、
その裏にはそのような背景があったとは!
中村一雄が現場を離れたことは競馬界にとって
大きな損失だったと言えでしょう。
それにしても中村一雄は実に興味深い人物です。
現在では彼のような人物が忘れさられているのが実に惜しいです。
彼に限らず古い競馬人らを紹介できる媒体があればよいに・・・とつくづく思います。
中村一雄については、なかり情報が集まった感がありますね。
機会を見て整理したいと思います。

ちなみに中村一雄の成績を「千百四回騎乗で二百七十一勝」とありますが、
これは少々補足が必要です。
成績書に騎手成績が記載されるのは昭和4年春季からですが、
戦前の騎手の生涯成績を集計する際には、
二着・三着の回数が記載される昭和5年秋季以降を集計するのが
一般的のようです。この中村一雄の成績(1104回騎乗で271勝)も
昭和5年秋季以降の成績の集計です。
昭和5年春季以前の成績を含めると以下のようになります。

【中村一雄】
 ◎生涯勝鞍:342勝
 ◎首位騎手タイトル:2回(1930,1931)
 ------------------------------------------
 Season       1st  2nd  3rd  N.P. Total
 1924(T-13)     0    -    -    -    -
 1925(T-14)     1    -    -    -    -
 1926(T-15)     2    -    -    -    -
 1927(S-02)     4    -    -    -    -
 1928(S-03)    14    -    -    -    -
 -------------------------------------
 Total         21    -    -    -    -
 -------------------------------------
  1929(S-04)    32    -    -    -  138
 1930(S-05)s   18    -    -    -   76
 -------------------------------------
 Total         50    -    -    -  214
 -------------------------------------
 1930(S-05)a   24   20   12   67  123
 1931(S-06)    61   43   20   93  217
 1932(S-07)    38   23   20   71  152
 1933(S-08)    24    9   24   57  114
 1934(S-09)    38   18   19   71  146
 1935(S-10)     8    6    4   10   28
 1936(S-11)    11    5   11   38   65
 1937(S-12)    25   12    6   38   81
 1938(S-13)    24   17   16   37   94
 1939(S-14)    18   12   16   37   83
 1940(S-15)     0    0    0    1    1
 -------------------------------------
 Total        271  165  148  520 1104
 ------------------------------------- 
編集済 




やはりこの人が戦前ナンバーワンかも。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月15日(月)22時48分33秒 

名手美馬勝の弟子で名をなしたのが中村一雄(広の兄)である。師匠ゆずりのモン
キーで馬に逆らわず当りの軟かい騎乗をし始めて注目を集めた。天性の巧みさに加
え、非常に研究心が強く、赤石のモンキーは騎乗者の腰が高く、背から頭の方がよ
り馬に接近して低い気味であったのに反し、中村はその馬その馬によって多少騎乗
姿勢を変えていた。騎手の重心をより馬に近ずけ、なるべく自然の型をくずさない
騎乗法をとって、日本に於ける騎乗技術を理論化し合理化する努力をなした。

弟子に教えた原則も、この結論であった。自厩の馬はモンキーで騎乗しても十分能
力が発揮出来るように、調教から苦心したが、スタートの出遅れは絶対にないのは
勿論、常に人より先に飛び出していた。その為、中村式騎乗法は逃馬の技術だ、と
も思われ勝ちであったが、その実は好スタートから出た馬を無理に抑制することな
く自然に乗って充分その馬の能力を発揮さす方法をとったためである。

馬に行く気があれば先頭に立ち、もし、行く気がなければどん尻にでもついて直線
まで行き、そこで勝負を決する、この合理的な騎乗法は、昭和の始めにはまだはっ
きりと騎手に会得されていなかったが、中村一雄の颯爽とした勝ぶりに、ようやく
近代的騎乗法が萌を出した感があった。千百四回騎乗で二百七十一勝をあげた。 




鳴尾生れというのは?ですが。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月15日(月)22時35分19秒 

モンキー乗りがコッフェや赤石によって日本に持ちこまれたがその騎乗技術を
見よう見まねから、独自のものに開いたのが美馬勝一である。美馬信治、美馬
孝之などの兄がいたため、通称美馬勝と呼ばれていた。

彼は明治二十八年四月一日兵庫県鳴尾町に生れたが、天性の感のよさから騎手
としては一時代を画した名手であった。師の北郷氏もその才能を愛し、自分の
妻君の妹を彼の嫁とした程であった。

アブミが短かく、馬の背にかくれる様な乗り方ながら、その追込みも十二分に
馬の能力を発揮させた。腕力と脚のしまりは無類で、後から来る馬を、普通の
騎手ならふり向いてうかがうのがあたり前だが、彼は自分の股越しにうかがう
という放れ業を得意としていた。くせ馬を御するのも巧みだし、よく乗る馬に
応じた作戦をたてた。彼など騎乗法、作戦ともに当代の名手といってよかった。

だが、巧みさがまた悪への誘いとなったところに、彼が後年中央競馬を追われ
る原因があった。馬を御すこと、わが足を動かす如く巧みなところに、八百長
への誘惑があり、彼はその責任を問われて、昭和十四年、騎乗回数六七五回、
九二勝で競馬から身を引いたが、当時病を得てもいた。後に新潟の地方競馬へ
下り、誰が乗っても障害を飛越しないクセ馬に六十数才の身で騎乗して飛越さ
したという逸話を残して、往年の天才の面影をしのばせた。 




孝之が早世したことも書かれていました。  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月15日(月)22時21分44秒 

美馬孝之は、後に京都に厩舎をかまえた美馬信治調教師の実兄で、林義和氏の
門下。騎手として非常に天分ある人であった。

明治四十三年に南米チリーから皇帝の名で日本騎手クラブへあて日本人騎手を
三名ほどほしいという申込みがあった。日本人は一たいに体が小さく、目方も
軽く競馬の騎手にはもってこいだとの考えからであったのだろう。当時腕前が
すぐれ、勝鞍も多く、どの競馬にも活躍する花形の一人であった美馬孝之騎手
に白羽の矢が立ち、南米に渡り、その期待に応え彼地でも一流クラスのジョッ
キーの仲間入りをした。だが、一年中雨が殆ど降らない気候に負けて、わずか
三年で病を得て帰国、後一年ほどで死んだのは、かえすがえすも残念であった
というべきだろう。 




参考までに。昭和33年の競馬週報から  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月15日(月)22時14分8秒 

赤石孔は明治二十七年十一月十三日に福島市に生れ、福島中学校を二学年終了後、
少年騎手を希望、募集に応じて渡欧、英、仏、独、オーストリア、チェコなどの競
馬に従事、ジョッキーとして活躍、本場仕込みのモンキー乗りを会得、昭和二年帰
国して日本の競馬に新風を持ちこんだ。

まだ日本ではモンキー乗りは流行せず、半モンキーが僅かに中村一雄、本田昌雄、
渡辺正人などによって乗られているに過ぎなかった時、本場仕込みの巧みなムチさ
ばきは見る人をしてウナラせるものがあった。赤石さんのムチは「一ムチ千両」と
後進に噂されたほどの玄人芸であった。追込みにかかる前のムチの持ち替えの早わ
ざを見るだけでも彼の競馬を見る価値があると激賞するファンさえいたのだから、
大した人気でもあった。

昭和十四年まで根岸(横浜)に厩舎を持っており、日本での騎乗は三百回、そのう
ち三十六勝、二着三十五回、三着三十四回であった。最後の活躍馬はダービー候補
とうたわれたタエヤマであった。ダービーでは中村広のスゲヌマに惜敗したが、そ
の決戦も名勝負として競馬史に残ってよい一戦であった。 




なるほど  投稿者: ふてき  投稿日: 8月13日(土)07時00分3秒 

その排他主義こそがサラブレッド(スタッドブック)のそもそもの理念だったのでしょうしね。

ここにも解説が載ってるようです。>B-1
http://www.tbheritage.com/HistoricDams/HBMares/HB1.html
アイルランドの生産者、馬主、調教師団体により度重なる要請が行なわれ
ようやくウェザビーの承認が得られた、とそんな話なのですかな。

Birdcatcher や Solon 等の一部のビッグネームに限ってはネットにおける表記でも
(GB)ではなく(IRE)を付記するのが半ば常識化してるように思われるんですが、
生産国表記の混在した今の状況を当のアイルランド人はどう思ってるんでしょうかね。
国家の定義の問題とか、難しい事はわかりませんけれど。。。 




スプーネーといえば  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月12日(金)22時29分25秒 

ある時点まではサラブレッドと思われてたわけで、まさかスタッドブックに載ってる
馬がサラブレッドじゃないとは思わなかったんでしょうね。しかしなぜサラブレッド
じゃない種牡馬を交配したのかと考えてみると、当時は種牡馬が(繁殖牝馬も)サラ
ブレッドかどうかなんて考えて生産してなかったんじゃなかろうかと。

スタッドブックは第3巻からアイルランドの部を付載しましたけど、「アイルランド
にいる大ブリテン島起源の馬」限定なんですよね。競馬はどちらの島でも行われてた
わけで、ギャロウェー馬に東洋種を交配してより速い馬を作る生産方法も両方の島で
行われていたはずなんですが、ウェザビーは「大ブリテン島起源で今も大ブリテン島
にいる馬」「大ブリテン島起源で今はアイルランドにいる馬」だけスタッドブックに
取り上げ、「アイルランド起源で今もアイルランドにいる馬」「アイルランド起源で
今は大ブリテン島にいる馬」は黙殺したんですね。こうしてもともと同じものだった
ものがサラブレッドと英半血に分かれていったんじゃないでしょうか。

ジャージーアクトの撤廃でアメリカンファミリーなんかも今じゃ立派なサラブレッド
になってますけど、裏面には何十系統ものアイルランド起源の消されたファミリーが
あったんだろうと思ってます。

これなんか100年前のアジア最高の名馬ですけど。
産地はGBになってますがこの馬も母系も皆アイルランド産です。
http://www.pedigreequery.com/mayfowl 




こちらも今週は  投稿者: ふてき  投稿日: 8月12日(金)18時18分50秒 

雑事に襲われネットから離れ気味になっておりましたm(_ _)m

「新世界より」に記載されたスイテンの父 *Spooney の全競走成績表にある
出走レースの1(または2)着馬の名前を眺めていて思ったんですが、
当然のように著名な馬の名前がほとんど出てこない中(そもそも格の高いレースには
出ていない)、唯一知っている馬とあいまみえていたのが、1884年の
ウインザーハンデ@ウインザー(約10F)で、そこでの勝ち馬が
アルゼンチンに輸出され大成功した Whipper In(GB) なのでした。
このウインザーハンデが当時どういう位置にあったのかは全く存じませんが、
他のレース名と単純に比べてみても、この一戦が Spooney(GB) の現役生活で
最大のチャレンジだったんだろうなぁ。。。などと
猛暑でデロデロになりながら感慨に耽っていたというわけで(笑)

蛇足ながらこのレース Spooney は4頭立ての4着(Whipper In から3馬身1/4差)だったと。 
http://www.pedigreequery.com/whipper+in




遅れましたが  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 8月 7日(日)22時12分32秒 

ここ2・3日多忙のため亀レスになりました。

スイテンの調査ごくろうさまです。
こちらの調べでも大正2年藤枝・東京の出走で確認とれています。
それにしても、よくもまぁ老齢まで走らされたようです。
それでも引退年に勝ち鞍を上げてスゴイものです。

当時の京都日出新聞なんかをみると「大谷光瑩師の馬が・・・」なんて見出して掲載されてますね。
やはり地元では特に有名人ですし、新聞の記事などをみると、
競馬好きも広く有名だったようですね。 




面白い逸話ですね  投稿者: ふてき  投稿日: 8月 6日(土)23時30分56秒 

うちは代々浄土真宗(勿論自分は無関係)という環境なのですが、
何ひとつ知りませんでした(どこかで読んだのを忘れてるだけかも)。
検索してみると、現如上人って開拓に関わっていたり、東本願寺の札幌別院を
創建したりと北海道に関わりのある人なんですね。。。いやはやもう無知と言うか何と言うか。

インドから欧州へ視察旅行に出てたりもするようですけど、お忍びで競馬場に
寄ってたりは。。。しませんよね(笑) 




当時の門首(法主)は  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月 6日(土)16時56分23秒 

俳人句仏としても名高い彰如上人(大谷光演師)ですが、ここでいう門首は実際には
東本願寺の実権を握っていた前門首の現如上人(大谷光瑩師)でしょう。宮武外骨が
『滑稽新聞』で「親鸞聖人もご存じない」と揶揄したほどの馬券狂で、競走馬も持っ
ていました。この頃は馬主として表面に出ていませんが、競馬番頭の川那辺甚蔵氏の
名義で走らせています。大谷家の場合、裏方(夫人)も代々宮中から来ていますし、
宗教家というより貴族でしょう。特に光瑩師は一代飛んで少年時代に法主になってい
ますから、恐いもの知らずのドラ息子がそのまま家督を継いだようなもので。 




寺と馬  投稿者: ふてき  投稿日: 8月 6日(土)09時34分11秒 

間の抜けた疑問なんですが、東本願寺門主は何の目的でスイテンを欲したのでしょうか。
これが神社だったら、芦毛馬ですし何となく納得できるのですが。。。

熊爺がその生涯を捧げた名種牡馬「蟠竜」、そして大馬商北村爺の「芳稜」。
となると気になるのは当然我らがグル。果たして一体どの馬を狙っているのか。 




芳稜の父は  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月 5日(金)19時24分1秒 

第二モンマースですね。 




スイテンの最後の勝利は  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月 5日(金)19時21分4秒 

大正2年4月13日藤枝でしょうか。最終出走は4月27日東京で黒沢が乗って2着
みたいですね。この時の馬主は藤村清次郎氏となっています。黒沢は大正末期に大正
中期の名馬トクホを静岡県の地方競馬で発見し、買い取った人でもあります。

安田氏へは5月17日に坪内元三郎騎手を通じて買い戻しの話があり即決、安田氏は
邸内に厩舎を新築してスイテンを迎え、6月10日に記念写真を撮影、12日に盛岡
産馬組合に向けて送り出したそうです。
『日本之産馬』同年7月号に寄せた安田氏の文に「一昨年の五月に至り意外な方面か
ら種々の手を経て、私に譲与を迫まってきた。私も最初は断ったけれども其懇望先と
云ふのは、我邦古来の活仏と称せられる東本願寺門主であると聞いて、即ち私の希望
するところの名馬の後を全ふするに人と処を得たものであらうと決心し、非常に別れ
辛い思をして門主に譲ったことは当時新聞紙にも伝へられて居るから大抵の人の知る
所である」とあって、無念さが偲ばれます。盛岡産馬組合は浅川馬政長官の推薦で、
無償譲渡しました。

『日本之産馬』が伝える種牡馬スイテンは「何処として非難すべき点がない」「初学
者の馬学資料に誂ひ向きだと思ふ」「もっと早く種馬だったら第二の芳稜たるを得た
かも知れぬ」「一寸気が付いたが此の馬は母系に於て芳稜と関係がありそうだ」と絶
賛されています。芳稜は蟠龍と並んで日本馬産史上最高と謳われた大種牡馬で、父モ
ンマース、母エリース。スイテンは2代母がエリースなので近親です。ただ、この頃
既に芦毛馬はレースに出られなくなっていたので、スイテンの子が競馬で活躍するこ
とはありませんでした。 




今のところ  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 8月 4日(木)22時59分58秒 

確認できている高橋諒平の最初の騎乗は、明治41年1月の阪神臨時競馬で、
その年は小倉でも騎乗しています。もしかしたら出身は北海道ではないのかもしれません。
黒沢文助のように馬券禁止下の内地での騎手業に見切りつけて北海道にわたったケースも
あることですし。

阪神での友村常吉と哲二の逆転は大正二年春季です。この年が常吉の最後の阪神騎乗で、
哲二の最初の阪神騎乗だと思われます。阪神での騎手名表記は当初は「友村」が友村常吉で、
「哲二」が友村哲二でしたが、大正5年秋季から友村哲二が「友村」になっています。
常吉の最後の騎乗から4年経っており、友村哲二を下の名前で表記する意味も
無くなったのでしょう。

杉浦照は早い時期に"照明"を称していましたか。そういえば尾形景造や渋川景紀の改名は
宗教に嵌っていた多賀一の奥様の意見によるものだそうで。。。
まぁ新堂捨蔵のように名前を複数もっているのも理解不明です。

例の資料ですが、登録騎手名簿の情報は微妙なところがあります。
実際に騎乗した騎手が掲載されていないケースが多々見られます。
他にもあります。例えば明治44年度版に見える、山田嘉平、山内嘉平、山口嘉七の3名、
大正5年度版に見える山内嘉平、山口嘉平の2名、
これら騎乗馬などから山内嘉平で同一であることは間違いないでしょう。
年齢が異なるので別人のように思われますが、記載年齢はあまり信用できません。
山田・山内・山口、嘉平・嘉七は、手書きの崩し文字で記したため見間違えたのだと思います。
また山内・山口の混乱は電話での聞き違いもあるかもしれません。
これらの混乱は新聞記事でも確認が取れています。
記載年齢は全面的には信用できないのは伊三郎も同様です。
高橋→徳田→高橋と改姓した伊三郎ですが、大正5年の登録騎手名簿では
両者が別々に記載されその年齢も異なっているのです。
実際、大正6年の東京春季と藤枝春季で伊三郎は高橋姓であったことが確認されるので、
彼が徳田姓になるのは大正5年ではなく大正6年秋からと言えそうです。

続秀太郎の騎乗歴はまだ増えるかもしれません。
もうすこし確認が必要のようです。
スイテンは・・・波乱万丈ですね(^-^) 




その後の東京は  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月 3日(水)20時31分15秒 

名前を書き分けてますね。諒平は大正5年春季を最後に出てこないようです。
明治44年現在の住所が佐留太(富川)ですから、アイヌの可能性もあるかも。
8年秋横浜のオークランドは政次郎ですが、5年秋東京のホクリョウは伊三郎でした。
8年春横浜の青木と玉谷は私も気付いておりました。6年秋横浜の菊太郎は了解。
明治45年春阪神は神戸又新日報に友村とあるのが出典ですが、この時代なら
常吉でしょうね。常吉と哲二の逆転は大正2~3年頃でしょうか。
杉浦照明は昭和4年からと見るのが穏当ですが(同年新年号の雑誌に杉浦照
として名刺広告が出ている)、大正12年の成績刷りに杉浦照明と書いた物
があるので、その頃から通称として使っていた可能性があります。
続氏はますますスゴイですね。いつかどこかへ発表して下さい。

スイテンの件は例の報告書にちゃんと出てますね。見落としてました。
『安田伊左衛門翁伝』末尾の座談会で佐竹氏が言うには東本願寺へ1万円で
売ったが6千円しか払わないので馬をカタに取って北海道へやったとか。
岩手で種牡馬になったのは確かだと思ってたんですが、調べてみます。 




各位、諸々  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 8月 2日(火)02時13分24秒 

> GURU@偏屈爺さま
Grey Terror 情報が届いていてなによりです m(_ _)m

> ふてきさま
洗脳されたまま共産党の左翼運動家になった帰還兵が多くいたことを思うと、
武田文吾の説得は大きかったのでしょう。
時代もあるのでしょうが、昔の競馬人の話は重いものがありますね。

> 通りすがりさま

明治44年秋季函館のルリの騎手は高橋諒平で問題ないので、
その後の東京での"高橋"も高橋諒平で間違いないと思います。
ご指摘のように東京・阪神のルリは高橋諒平が連れていたのでしょう。
この年の高橋諒平の騎乗はルリ出走の開催のみのようです。

高橋諒平は営口競馬にも遠征に行っていたのですか。
彼のサインは貴重な情報を提供するお宝品です!。
ただ高橋諒平の詳しい出自はよくわからないですね。
函館あたりの出とすれば、その師匠筋は函館大次か飯田藤作あたりなのかな。
(函館大次といえば、直系の函館大典さん(函館で動物病院をなさっていた)が
昨年お亡くなりになったとか。。。)。

その他「天皇賞の世紀」で気になった点は、
大正8年春の横浜帝室御賞典
・三着サチ   (騎手)×佐々木勇太郎⇒○青木正吉
・着外ビユーラン(騎手)×不明⇒○玉谷清人
大正6年秋の阪神帝室御賞典
・三着キツシヨー(騎手)×佐藤嘉七⇒○佐藤菊太郎
(佐藤嘉七は大正8年秋にレツドウヰングで阪神遠征したのが唯一の関西遠征とのことです)
明治45年春の阪神帝室御賞典
・着外カイリク (騎手)×友村哲二⇒○友村常吉
などでしょうか。あと騎手名ですが、杉浦照が一時期"杉浦照明”と改名するのは昭和に入ってからではなかったかな?

あとは直接は関係ないですが、続秀太郎が新潟で2戦2勝、藤枝2戦2勝していることが
新たに確認できました。更に勝率アップです。
あとスイテンの出走履歴ですが、同著者「新世界より」に全出走歴(M40~M45春)が
掲載されていましたが、大正2年までスイテンの出走歴が確認できており、
大幅な加筆が必要のようです。明治45年秋以降、札幌・新潟・藤枝・東京と
転戦させられていて、この10歳を過ぎた老馬への酷使は御賞典を拝受した馬への
扱いではないな・・・と思ったりです。 
編集済 




Lucky Boy 氏のブログも  投稿者: 通りすがり  投稿日: 8月 1日(月)22時38分5秒 

拝見しました。ルリの騎手??と思いましたが、Japan Weekly Mail を調べると
R. Sakamaki なんて書いてあって問題外。東京競馬会東京競馬倶楽部史を見ると
高橋としか書いてませんが、その翌々年ルリと同馬主のトワダが走っていて騎手
の名が「諒平」でしたから、ルリの騎手も高橋諒平で間違いないでしょうね。

高橋諒平は公認競馬では函館を中心に活躍した人で、道南や東北北部の地方競馬
がベースだったと考えられます。Lucky Boy 氏がお持ちの例の資料では騎乗地が
「函、東、坂」ですね。ルリも道南や青森の地方競馬で活躍し、函館を皮切りに
東京、阪神と転戦した馬。ということは諒平が連れて歩いたのかもしれません。

一條家所蔵の営口競馬倶楽部番組の裏表紙に「高橋諒平」のサインがあります。
『日本之産馬』に営口から某騎手の通信として、馬券がさっぱり売れず前半戦を
終えてまだ賞金が支払われていないことが伝えられていますが、字が書けた騎手
は少ないでしょうから、高橋諒平からの連絡だった可能性が高いと思います。

他にもお気づきの点があればご指摘下さい。 




旧約版  投稿者: ふてき  投稿日: 8月 1日(月)20時57分29秒 

1998年当時の経典をプリントアウトしたものが手元にあるので、
現在のものと見比べてみました。
いやしかしなんというか、感嘆の一言に尽きますね。
データの充実もさることながら、教義の急激な先鋭化を見るにつけ
思いも一塩なので御座います。