2005年2月




RE:外地競馬 投稿者:ふてき  投稿日: 2月28日(月)23時20分13秒 

台湾は全く初耳でした。台北か高尾ですかね。
樺太競馬も聞いたことあったような無かったような。。。

チンタオ競馬の解明はLBさんの双肩にかかっているのではと(プレッシャー)




外地競馬 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月28日(月)19時48分12秒 

戦前の朝鮮競馬の記録はどれほど残っているのでしょうね。
日本には数年分の朝鮮競馬成績書が残っていますが、
韓国馬事会には全ての成績書は残っているのかな?
恐らくは残っていると思うのだけどなぁ。
まぁ韓国での競馬の大衆化は最近の話ですから、
自国の競馬史を調べようというマニアックなファンはまだいなさそう。
史学界レベルでも研究対象にはまだなっていないのではなかな。

そういえば古い雑誌記事に、チンタオ競馬に小倉の馬が数頭遠征に来た、
というのがありました。
ドイツ人によって始まったチンタオ競馬も後に日本人の管理になったので、
日本から馬を呼びやすかったのでしょう。
こうなるとホント馬の全成績の把握は不可能かも。。。

日本の外地競馬としては、朝鮮、満州、台湾、南樺太がありますが、
アカデミックレベルで史学研究の対象とされていないのですよね。
満州競馬は最近になって立命館大の先生が研究していますけど。
特に朝鮮競馬は近代日本史の上で充分に研究対象になるのだけどな。
編集済




その当時 投稿者:ふてき  投稿日: 2月28日(月)18時47分26秒 

半島で行なわれていた競馬成績ってのはやはり入手困難なシロモノなんでしょうね。

キタノホシは新冠の御料牧場産馬のようですが、やはりそっち方面の
競馬人が中心となって進められていたと言うことでしょうか。>植民地競馬

2頭の戦績をわかる範囲で時系列にしてみますと

大正14キタノホシ生まれる
昭和元
昭和2                  ロンプ生まれる
昭和3                  
昭和4秋(横浜)横浜特別1着、御賞典2着
    (東京)各古馬特H2着
昭和5春(阪神)各古馬特H3着
   秋(東京)御賞典1着
昭和6春(小倉)各古馬特H着外      (小倉)各古馬特H1着、御賞典1着
                     (阪神)御賞典3着
   秋                 (阪神)各古馬特H3着

と言う感じでしょうか。
朝鮮遠征してた時期とは昭和5年の12月から翌年4月の間と
いうことになりますかね。

朝鮮開催の理由の一つには国内のシーズンオフ対策ってのもあったんでしょうか。




日本にも中央競馬と 投稿者:通りすがり  投稿日: 2月28日(月)09時13分52秒 

地方競馬がありますが、それとは別に・・・
キタノホシと言えば昭和5年秋の東京で帝室御賞典を拝受した名馬で、
ロンプと言えば昭和6年春の小倉2日目に帝室御賞典を拝受し、引退後は
第二ベバウと名乗ってダービー馬カイソウを産んだ名牝ですが、両馬は
上記の小倉初日に特Hで対戦していまして、そのときの雑誌記事に

 「朝鮮戻りのキタノホシ」

と書いてあるのですよ。こうなるとキタノホシの完全な成績は調べようが
ありませんね。他にも同様なケースがあるかもしれません。




公表された数が 投稿者:ふてき  投稿日: 2月28日(月)07時50分22秒 

実数かどうかはわからないんですけども。
ただ写真を見る限り鈴なり状態なのは確かなようですね。
コース規模の似通った札幌で過去最高が6万人ですから、仰せの通り
バックストレッチから内馬場に至るまで鮨詰め満タンてことなのでしょう。

競馬ファンが減り馬券ファンばかり残ってる理由はわかる気がしますね。
つまるとこヒーローが地元に残れない構造は駄目なんでしょう。競馬ファン的に。
幾ら出身馬がアメリカで活躍したとしても。
無理を承知で例えてみれば、
生え抜き上位20頭ほどが抜けてるため「金杯」位のメンバーで行なわれる
「グランプリ有馬記念」だったり、ディープインパクトやストーミーカフェが
引き抜かれた状態で行なわれる「ダービー」だったりとか。
そりゃ純粋な競馬ファンの足は遠のくでしょう。




び~にゃ 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月27日(日)19時46分8秒 

V.S.C.で10万人なんで信じられないですよ。
まずスタンドに10万人なんて入るのかな?(笑)
まぁV.S.C.は実に開放的なので、裏門の厩舎のあるスペースでも観戦できるし、
コース中側はサッカー場とラグビー場になっているから、
そこにも観客でいっぱいなのでしょう。

V.S.C.の平日開催なんて閑散としたものです。
ホントに競馬やっているの?と思うぐらいに人がいない。
数えることができるのでは?ってぐらいです。
確実に日本のWINSのほうが人がいます!
チリは場外馬券売り場があちこちにあるので、
競馬場まで馬券を買いに行かない。
テレビも競馬専門チャンネルがあるので万全です。
こんな状況でも3冠とチリ競馬場大賞だけは観客が集まるのだそうです。
僕はEl Ensayoとチリ競馬場大賞は見にいきましたが、
すごい人でしたよ。

でもスタッドブックのハイメ氏はもっと競馬場にファンを呼ぶ努力をしなきゃだめだと
言っていました。少し歩けば競馬場までいけるのに、
多くが近くの馬券売り場に行ってしまう。
やっぱり競馬場で競馬楽しむのが本来の姿なのだけどね、との言葉。
これはホントに競馬場まで足を運ぶ人が少なくなってしまった現状を
物語っています。
チリは馬券売り上げでも南米の中では優等生なのですが、
ハイメ氏いわく、「決して競馬ファンが多いわけじゃない。
彼らは競馬が好きなのではなく、馬券が好きなだけんだよ。」ですって。。。

観客の激減といえば、アルゼンチンのほうがヒドイのかも。
アルゼンチンは馬券の売り上げも下がっているし。。。
30年ぐらい前の3冠レースの写真なんかをみると、
ものすごい人の数でスタンドから立ち見スペースが埋め尽くされている。
日本のG1競走なみですよ。
でも最近では亜ダービーですらスタンドがガラ空きですし、
カルロスP大賞も無料観戦スペースは空白が見られます。
並のG1なんかは写真だけみたら誰もG1競走なんて信じないでしょうね。
まぁアルゼンチンの場合は殆どがホントに偽G1ですけど(笑)




ふむふむ 投稿者:ふてき  投稿日: 2月27日(日)16時48分10秒 

コンセプシオンのとり扱いはその方向で進められるのが良さそうですね。
まぁその次元の問題に突っ込んでくる猛者もそうはいないでしょうけど。

騎手の成績もそうですけど、馬に関してもローカル出身だと
知られざる戦績ってのがあるのかもしれませんね。
今この時代ですら怪しげな様相漂ってる位なもんで(笑)

エルダービーは観客10万人以上だったらしいですが、
あれは非日常なお祭りイベントなんでしょうね。
じゃなきゃ、わざわざ新聞に「この日は警察官が大量に動員され警備を。。。」
なんて記事が出るわけないですしね(笑)




そうなんですよ 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月27日(日)14時58分16秒 

そもそも日本人の感覚で厳密に中央・地方の境を見極めようというのが
間違いなんですよね~~。
チリの成績書での中央・地方の区別というのは、
ページのセクションが完全に分けられていて、
且つ競走の通し番号も分けられているといった形なのですが、
1932年の成績書ではコンセプシオンは中央競馬の区分に入っています。
翌1933年からは地方競馬の区分になります。
コンセプシオンが中央に格上げになるのは1990年代になってからなのですが、
チリ競馬の草創期では、サンチアゴやビーニャでの競走数もそう多くないので、
多くの中央騎手が普通にコンセプシオン開催で騎乗しています。
20世紀前半までのコンセプシオン競馬はビーニャと同様、
夏季のみ開催されるリゾート競馬なので、サンチアゴの競馬が夏季休止中に
遠征するのが通例だったようです。
完全にコンセプシオンは中央競馬の競走体系に組み込まれていたと
考えることができるでしょう。

しかし夏季におけるサンチアゴ競馬の開催が通常になると、
当時は交通の便がそんなに良いわけではありませんから
コンセプシオンまで足をのばす首都圏の騎手は殆どいなくなり、結果、
3大競馬場との交流が疎遠になっていった・・・という歴史を歩みます。

古い時代のコンセプシオンについて語った資料というのが、
そうないので判断に困るところなのですが、
20世紀前半までの重要性と、1932年の成績書が中央競馬扱いしていることを踏まえて、
1932年以前のコンセプシオンを中央競馬として統計を整理することに決めました。
1932年以前の騎手成績からコンセプシオンの結果だけを差し引く作業をするとなると、
かなり大変ですし。。。
ただ、この辺の経緯はちゃんと注を立てて説明しないとだめですね。

>あと騎手はそういうローカル出身という人も多いでしょうから
>生涯勝ち鞍なんかを考えると結構無視できない問題かも、で。

そうなんですよね~~。
逆のパターンもありまして、確か亜首位騎手7回のカイェターノ・サル-ノは
若いころ一時コルドバに移籍して、そこでリーディングを獲ったのじゃなかったっけな。
まぁ、地方競馬出身の南米騎手の生涯成績は把握は不可能ですね。
現在の亜首位騎手ファレーロですらラスピエドラス時代の成績はもう良く分からない。
レギザーモのフロリダ競馬場(ウルグアイ)での成績なんかは
全くお手上げですよ。


馬券発売に関しては、チリは南米で最も先進的ですよね。
ただ一層、競馬への来客数が減りそう。
チリでの競馬場のガラガラは異様ですよ。
編集済




南米における中央地方の境界 投稿者:ふてき  投稿日: 2月27日(日)13時07分29秒 

最終的には「各種全国統計に網羅されてるか否か」が分かれ目となるんでしょうか。
その網羅状況がまちまちとなると、部外者にとってはかなり摩訶不思議なことに。

アルゼンチンなんかの一般戦についた競走名には聞いたこともない
ジョッキークラブ名をぼろぼろ見かけますから、一口に地方競馬と言っても
相当に奥深いんだろうなという気はしますね。

あと騎手はそういうローカル出身という人も多いでしょうから
生涯勝ち鞍なんかを考えると結構無視できない問題かも、で。

そういや、先日クラブイピコで馬券のネット販売が始まりましたね。
PATと似た感じのシステムですかな。
はたして売上増の起爆剤になるかどうか。




最近は 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月26日(土)18時21分20秒 

ネタ切れでして。。。何か話題がないかな。

チリの騎手ランキングは中央競馬で決めるのが通例で、
公式の成績書でも中央競馬の集計のみを記載しているのですが、
過去の成績書をさかのぼって調べてみると、
騎手成績が中央競馬のみの集計になるのが1945年からで、
それ以前の成績書の統計には地方競馬の成績も含んでいます。
ただ一般の競馬本では1944年以前の騎手成績も中央競馬のみ
の集計を記載しています。これは伝統のようです。

そもそもチリ競馬において中央と地方が区別されるのはいつごろからなのか?
成績書を見る限りでは1932年から中央と地方の成績を
区別して記載されるようになります。
しかし1928年に刊行されたチリ競馬史本ではすでに中央・地方の区別が
なされており、又当時の競馬雑誌でも区別されていることから、
両者の区別はかなり古い時代からなされていたと理解できます。

まぁチリ競馬の中央・地方の区別はあくまで便宜上のことで、
両者に厳密な法の区別が存在するわけではないことは言うまでもなのですが。。

ちなみに種牡馬成績は騎手成績とは違い、最近まで中央・地方をあわせた集計でした。
今は種牡馬成績も中央のみなのですが、なぜ地方が外されてしまったのか。
理由は何ともいい加減です。
アントファガスタとペニューラスに競走結果を送るように催促したけど、
送られてこなかったので、それ以来。成績書から地方競馬の成績を排除してしまい、
種牡馬成績も集計するのを止めたというのです。
なので最近の成績書にはアントファガスタの競走結果は
記載されなくなってしまいました。
現在ではアントファガスタの成績はネットで公開されているし、
馬券発売のネットも存在するのに、いまだ成績書からは排除されたままです。
そう仲間はずれをしなくても良いのに・・・なんて思ったりです。
編集済




でしたか 投稿者:ふてき  投稿日: 2月21日(月)22時46分34秒 

カラクリ了解です。
今後は準公式サイトな認識で情報活用したいと存じます。

それにしても罪作りなドメインですなぁ(笑)




そのサイトは 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月21日(月)22時32分4秒 

チリスタッドブックの公式サイトではないようです。
公式サイトはクラブイピコの公式サイトの中にあります。

下記のスタッドブップのHPは、2社の馬関連の団体が立ち上げた
データベース会社のようです。
そのうち、競走馬部門については雑誌El Turf.com と業務提携か
なんかしているようです。

各種のゼネラル統計が見れるのはうれしいですね。




他山の石 投稿者:ふてき  投稿日: 2月21日(月)21時54分12秒 

なんと、本編が正解で全成績表の方が間違いでしたか。
となると地球規模で孫引き誤報が広まっていそうですね。
BBR誌を逐一検証して正誤表を作ると大変な枚数になりそうです。

唐突ですが、チリアンスタッドブック公式サイト、ご存知でしたか?
http://www.studbook.cl/
ちなみに血統検索、競走成績、各種ランク(ゼネラルもありますよ)などは
関連サイトのこちらの方で。
http://www.elturf.cl/ 




どうやら 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月21日(月)21時09分30秒 

フォルリの勝ったモンテビデオ賞は6月開催ですね。
BBR誌がミスして、さらに山野氏が間違った解釈をしたということでしょう。

根本資料に当たるのは、やはり原則ですね。

誤報を流すのは僕も一緒ですので。。。
編集済




確かに 投稿者:ふてき  投稿日: 2月21日(月)20時42分28秒 

ご指摘通りの記載状況のようですね。両書とも。
「伝説の名馬」フォルリの項(亜在籍時)の記述に関しては
BBR誌の影響がずいぶんと大きいようです。
ただ、元ネタのBBRの方も本文の方でモンテビデオ賞は6月(June)の
開催だったとしてますね。これは単純ミスでしょうか。混乱に拍車。

この当時は今とは比べ物にならないほど情報が少なかったので、
希少なソースのケアレスミスに引きずられてしまったとしても
致し方ない面はあるんじゃないでしょうか。

情報洪水の今日ですら誤報連発する管理人てのもここに存するわけで(笑)




まだまだ続きそう・・・ 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月21日(月)01時28分50秒 

熱は下がったが気管支のほうが悪化・・・。
なかなか復活できずです。

アフリカ競馬のフォローありがとうございます。
あとエジプトにもサラ競馬が嘗て存在したと思うのですが・・・記憶が定かでないです。
アフリカはイメージする以上yの国で競馬が行われているのですよね。
ほとんど詳細は不明ですが。下記の国々を競馬旅行したら楽しいだろうなと、
しみじみ思ってしまいます。
まぁ当分の間はネットで情報が流れてくる事も無いことですし、
もうしばらくマイナー競馬国フリークの最後の秘境として存在しててもらいましょう。

まったく話は飛びますが、
病床の暇つぶしに山野浩一「伝説の名馬」を久方ぶりに引っ張り出しました。
フォルリの項を読んでいると、「この時代のアルゼンチンの競走馬は8月になると
一つ歳をとり(現在は7月)・・・」とありました。
へっ??そんなの初耳だぞ?と驚き調べ直したところ、
フォルリの時代も当然のごとく加齢月は7月でした。

なぜ山野氏はこんな初歩的な勘違いをしたのか?
でその理由を考えてみました。

①1960年代後半のBBR誌にフォルリの全成績が記載されているのですが、
それには加齢月を8月として整理してあり、山野氏はそれを鵜呑みにした。
→でも1964年のBBR誌アルゼンチンの項にはちゃっと加齢月は7月を文中にある。

②当時の2歳王者戦モンテビデオ賞が、フォルリの年は7月開催の3歳戦として
行われたのですが、モンテビデオ賞=2歳戦 という思い込み、
それが加齢月が8月という間違いにつながった。

③その他参考した資料自体が間違えていた。

まぁ、こんなところでしょう。
いやらしい重箱つつきでした。




風邪は万病の元 投稿者:ふてき  投稿日: 2月20日(日)13時49分5秒 

お大事になさってください。
まずは健康第一ですから。特に非サラな稼業な我々にとって(^_^;)

南ア以外のアフリカとなると、もはや皆目わかりませぬ。
ウガンダ、タンザニア、スーダンっすか。うーむ。。。
お話を伺った印象だとスタッドブックも東アフリカ諸国で共有してる気配っすね。
実質ケニアしかサラブレッドの生産はしてなさそうですけど。
スーダン内戦は一応停戦したんですかな。
もっともまだ競馬どころじゃないでしょうけどね。

アフリカ諸国全体の中で英国式サラブレッド競馬を開催したことがある国となると
どのくらいあるんでしょうかね。
手元で判るだけでもいい加減に羅列しますと

・南ア(略)
・ジンバブエ(マショナランド/ハラーレ)(マタブルランド/ブラワーヨ)←閉鎖か?
・ザンビア(キトウェ)(ムフリラ)(ルサカ)(ンドラ)
・チュニジア(ハンマメット)
・アルジェリア(アルジェ)
・モロッコ(アンファ/カサブランカ)(ラバット)
・ケニア(ンゴング/ナイロビ)(リムル)
・ニジェール(ニアメ)サラ競馬かどうか不明
・セネガル(ダカール)
・タンザニア
・スーダン
・ウガンダ
・モーリシャス(シャンデマール/ポートルイス)
・マダガスカル(タナナリブ)

ネットでは下記サイトを参考にしました。
果たしてこの中に記録をしっかり管理してる団体がどれだけあるのかと。

#Spey Bridge のデルマ情報、加筆しときました。
http://jeanlouis.maldant.free.fr/index.htm 




東アフリカ 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月20日(日)00時03分38秒 

風邪で寝込んでいます。高熱です。もう4日間も・・・。
いいかげん寝飽きたけど回復の気配なし。
この時期の風邪は厄介なのでお気を付けて。

話は関係ないのですが、ケニヤ、ウガンダ、タンザニアで
「東アフリカ連邦」構想があるそうな。
もともとケニヤジョッキークラブは東アフリカジョッキークラブでしたし、
ケニヤダービーも創設当初は東アフリカダービーという名称でした。
ダービーの出走条件は今でも東アフリカ産馬限定です。
競馬面からみれば東アフリカ連邦は、前代への回帰となるとも言えなくも無いです。

そうした前提でアフリカ大陸の競馬ベルトを考えると、
南アフリカ→ジンバブエ→ザンビア→(東アフリカ連邦)
と繋がることになります。
東アフリカ連邦から北は、本来なら英領だったスーダンへと繋がるところですが、
内戦中なのでさすがに競馬は閉鎖しているでしょう。
嘗ては南アフリカやケニヤからサラブレッドを輸入して競馬が行われていましたが・・・。
一度、大使館でも問い合わせて聞いてみようかな。
もしスーダンで競馬が中断されていなければ、
北アフリカ3国まで競馬ベルトが繋がるのですけどね。
そう言ってしまえば、ザンビア競馬も最近は行われているのだろうか?
ザンビアジョッキークラブは現存するらしいがパリ会議にも加盟していないし
ネットからは競馬開催は確認できない。
ザンビアジョッキークラブの創設は1964年と新しいです。
これはローデシア時代の競馬の中心は南(ジンバブエ)であり、
北ローデシアとして分離してからこの地域で競馬が開催されたからです。
ザンビアダービーは Copperbelt Derby という名称で、
BBR誌には1968年に Sanatoga (SAF) g. 1964, by Royal Pardon が
勝っていると書かれています。

思うにジンバブエ競馬史についても、Ipi Tombe が活躍したのもかかわらず、
ちゃんと紹介した雑誌記事やサイトはなかったですね。
Ipi Tombe は史上二頭目のジンバブエ産 July Handicap 勝ち馬なのに、
初代の Spey Bridge(ローデシア産だけど) はファミリーテーブルで
南ア産になっているし、AUS Stud Book のサイトでも・・・。
一昔前なら、Ipi Tombe のような国際的な活躍馬が登場した際には、
ジンバブエまで取材に行って現地の競馬の紹介記事を書こうというような
意欲的な書き手がいたのだけど・・・。ある意味、以前のほうがマニアックな
海外競馬記者もどきがいたような気がします。

ぼ~っとした頭で書いているので支離滅裂ですが、
内容はご察っしくださいませ。
編集済




蓄積データ 投稿者:ふてき  投稿日: 2月17日(木)22時23分15秒 

危機一髪でしたか。
やはり資産のとり扱いは「念には念を」の姿勢が宜しいかと。
個人的に昨年それを痛感いたしましたので(-_-;)

例のレーティングは下位の方が同数値で数十頭並びまくりの状況ですが、
当時ほとんど能力比較する手段がなかった国々まで網羅しちゃうとなると
そう対処するしか術がなかった、ってことなんでしょうね。

ろぜさんへ。
この板が一番書きやすいんで、お返事ヒッソリ記しときます。
まずもって、勿体無いお言葉に恐縮の行ったり来たりなのであります。
で、誤解して欲しくないんですけど、知識なんてホントにないんですよ。謙遜皆無で。
南米があーだこーだと偉そうに書いてますけど、実際に行った事すら一度もないですし。
(ここのお客様には現地経験者が多くいらっしゃるのですけど)
ある意味、究極の知ったかぶりをさらに極めんとしてる、と言えるのかもしれませんね。
まぁ「書斎の競馬派」ならぬ「四畳半みかん箱の上の競馬派」が現実の姿なもんで(笑)
あとそれとですね、ろぜさんブログのように競馬の本質に対して真正面から真摯に
向き合おうとなされてらっしゃるサイトの方が「本当の価値がある」んだと思いますよ。




遅れました 投稿者:Lucky Boy  投稿日: 2月17日(木)17時42分4秒 

ここ数週間、忙しくて書き込む気力ゼロでした。
ついでにPCにお茶をこぼすという失態をしまして、
データは無事だったのですが、PCが怪しい音を発するようになったので、
念のため別のPCにデータを移しました。
これでデータが飛んでたら自殺ものでしたよ。

確かザテトラークは2歳馬レーティングでは最高値を持っていたはず。
少なくともこの時代にはもうレーティング(誰が付けたのか分からないけど)は
あったということですね。
やっぱりBBR誌によるレーティングなのかもしれませんね。
ちょっと調べてみましょう。