2005年7月





訂正版  投稿者: GURU@偏屈爺  投稿日: 7月31日(日)17時48分5秒 

そういえば登録も御礼も忘れておりました > Grey Terror
Prized の件とあわせて訂正版アップしておきましたので、お手数ですが
入手希望の方はもう一度DLしてください m(_ _)m 





武文  投稿者: ふてき  投稿日: 7月31日(日)10時28分20秒 

投票拒否事件の引き鉄となった昭和14年阪神優駿牝馬で失格処分とされた
ヒサヨシに騎乗していたのが武田文吾だったんですね。
なるほど、それがきっかけで廃業した一雄との間の親密ぶりが思い計れます。

佐藤勇と武田文吾の間だと
「4年間のシベリア抑留中に洗脳された勇が復員後、共産党委員会へ直行しようと
したのを京都駅で待ち構えていた武田文吾が力ずくにて厩舎に連れ戻し、
『お前が帰ってきたから、俺は騎手を辞める』と言い放ち引退した。」
と言うエピソードが秀逸ですね。(「日本の調教師」より) 




極上級の情報!  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 7月31日(日)02時09分59秒 

中村一雄の情報はすごいですね! まさか1980年の優駿に記事があったとは。
いやいや~さすがに気が付きませんでした。
この情報は僕にとって非常に嬉しいものです!早速確認したいと思います。
でも競馬界を去ったあとも、馬に係わっていたのは嬉しいですねぇ。

そうそう古い雑誌記事に中村一雄の特集がありました。それによると一雄は幼い頃から
海に憧れていて、16歳の時に東京商船学校(現、東京海洋大学海洋工学部)の入試のために上京。
その時、馬主であった兄に案内され美馬勝一厩舎を訪れた際、小柄でガッチリとした体型の
一雄を見た美馬師に「騎手として必ず大成する。必ず私が請け合う」と言われ、
一晩悩んだ末に美馬厩舎に弟子入りすることを決めたとありました。
彼の入門に美馬勝一は大いに喜んだそうです。
ちなみに弟の広も兄を追って美馬厩舎に入門しましたが、広によれば実質の師匠は兄であり、
肉親の情を断ち切って厳しく鍛えられたと回顧しています。ゲンコツやムチでよく叩かれそうです。
それでも独立して厩舎を構えていた一雄は、広がデビュー(昭和8年)すると、
いきなり所属馬オオミヤチダケで新人の弟を帝室御賞典に挑戦させています。
兄の気概を感じます。広にとって僅かデビュー58日後での帝室御賞典への挑戦でしたが、
期待に応え見事勝利を挙げたのだからさらにオドロキです。

それにしても武田文吾は人間関係は多岐ですね。いろいろなところで師の話が出てきます。
フリー時代の佐藤勇を助けたのも彼でしたし。先にブログで話題にした高橋政次郎とも
繋がりが深いです。
政次郎厩舎は殆んど個人で騎手・調教をやりくりしていたので、落馬で騎手を
引退(昭和7年)に追い込まれると、他厩舎から騎手を代乗してもらいどうにか
厩舎を運営するというありさまでした。しかし昭和8年に武田文吾を客員に
迎えるに及び状況は一変。預託馬が増え関西を代表する厩舎へと成長、
政次郎と武田文吾の関係は昭和15年まで続きましたが、武田文吾の分離後は
預託馬も分散され、さらに再び騎手不足のため厩舎運営が厳しくなります。
恐らく政次郎は自分で全てに目を通さないと納得できない性分だったのでしょうね。
当初から子弟の育成に積極的ではなく、武田とのコンビの中ごろからやっと子
弟の育成に取り組み始めた感じです。それも厩舎が大きくなり必要に
迫られたからかもしれません。それでも子弟育成への取り組みが遅かったため、
武田とのコンビ解散後は、厩舎は再びは騎手不足に悩まされます。弟子もまだ若かったので、
他厩舎の騎手の代乗が多かったそうです。フリーの佐藤勇も多く騎乗しています
(もしかしたら武田文吾との縁からかもしれません、)。
政次郎には騎手時代以来から熱心に後援してくれる馬主が多くいたのですが、
政次郎厩舎の人手不足が深刻で全てを管理できないので、
馬主たちは止む無く他厩舎へ馬の一部を預けたという話です。
他厩舎が騎手の代乗に協力的であったり、熱烈な馬主が数多くいたのは、
ひとえに政次郎の人柄にあったと言われてます。どこか魅力的な人物だったのでしょうね。
ただ当時の『優駿』でも「子弟を育成して厩舎興隆を計るべき」と
警鐘されているところがちょっと笑えます。 
http://blogs.dion.ne.jp/luckyboy/archives/1563100.html

編集済 




いつだったっけな  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 7月31日(日)02時08分53秒 

>GURU@偏屈爺さま

そう言えば、以前、露ダービー馬レッドテラーの父系について書き込みましたが、
ご覧になりましたか。たしかこの父系不明だったと思うのですが。。。 




大事じゃなくて  投稿者: ふてき  投稿日: 7月31日(日)00時07分34秒 

一安心であります。今後ともお労わり下さいまし。

Prized ももしあと10歳若かったら輸入されていたでしょうね。昨年辺りに。
種牡馬シンボリクリスエスUSAもまずは Prized 超えを目標に置くべきでしょう(笑)

今年のロシアダービー出走馬の顔触れは失望するに十分でしたね。
伝統ある大馬産国だけにその思いも一塩で。
なんたってモスクワのダービーを星条旗背負った馬が目指す日が来ちゃったんですから。
もう彼らにはプライドもへったくれも残ってないんでしょう。
競馬に関しては(スポーツ全般がそうかも)間違いなく冷戦時代の方が魅力的でした。
なぁんて「黄色い猿ども偉そうな事言えた義理かよ」と返されたらソレまでなんですけど(笑) 




アルコール禁止は  投稿者: GURU@偏屈爺  投稿日: 7月30日(土)22時05分27秒 

全般的な検査数値の問題でして、措置入院とかではありませぬ (^^;

それより何をトチ狂ったか、Prized を本邦輸入などと書いてしまいました。
これこそマイクロ波で大脳に入れられた模造記憶に間違いありません。

しかしまあ、現在のロシアの血統には正直言ってガッカリです。
かつての日本のように閉鎖競馬の中でも賞金が高く、輸入種牡馬で一山当てようと
狙って熾烈な輸入競争をしているわけではないだろう。どうせ世界的には二流以下
ならば、欧米の二流三流亜流馬より、ロシア以外にはどこにもいない世界遺産的な
血統の馬で低レベルの競走を繰り広げている方がまだしも興味が湧くのですが。。。 




ご指摘感謝  投稿者: ふてき  投稿日: 7月30日(土)10時16分18秒 

うちがスゴイんじゃなくて、情報横取り先のネタ元がスゴイんです。あとは翻訳サイト。
他にも何かお気付きの箇所がありましたら、ここにでもコメント欄にでも結構ですので
御遠慮なくビシビシ突っ込んでください。

一雄氏は晴れて名誉回復ですかな。
御弟子の不幸というのが調教師廃業の動機のひとつだったわけですね。。。
徒弟関係で考えると、
中村一雄-富田六郎-富田一幸
のラインが現在唯一のものですかね。

。。。もしかして例の御賞典のクラックバレリー事件にも何か正当な理由があった可能性が。

#その栄光の明和牧場も今や岡田氏@ラフィアンの傘下に入ってるのですかね?? 




最近はブログというものが  投稿者: 通りすがり  投稿日: 7月29日(金)23時08分5秒 

さかんで、私のような旧式人間には手が出ませんが、ふてき氏のはスゴイですね。
モスクワ中央競馬場はサンドコースですけど。

ところでこの頃昔の記録を調べ直していて、ハイセイコーで有名な明和牧場の
場長が中村一雄氏だったことに気がつきました。優駿1980年7月号に氏の
履歴が詳しく載っています。
「あの投票拒否事件や、戦争でいい弟子を二、三人死なせてしまったことが、
戦後、競馬の社会に戻る気をなくさせました」
投票拒否事件とは昭和15年11月東京競馬で日本競馬会の興奮剤検査に不信
を募らせていた調教師会が出走投票をボイコットした事件です。

国営競馬時代の報道に武田文吾師は廃業した中村師の親友というのがあって、
弟の中村広師の馬が関西へ行くと武田厩舎に入っていた謎が解けたことがあり
ました。一雄氏も関係者との連絡は常にとっていたようで、明和牧場にも最初
から関わっていたそうですが、牧場の不振で請われて場長となり、繁殖牝馬を
半減して立て直したとのこと。ハワイアンイメージ、メイワキミコ、シーバー
ドパーク、米国で種牡馬になったホオカノなどが中村氏の手掛けた馬です。

明和立て直しのもう一つの柱は預託育成で、特に悪癖馬をちゃんと乗れるよう
にしてしまうことで評判が評判を呼び、日高の生産者間では密かに「手に負え
ない馬は明和へ持っていけ」と囁かれていると優駿に書いてありました。 




早速頂きましたm(_ _)m  投稿者: ふてき  投稿日: 7月29日(金)00時18分48秒 

御身体、大丈夫でしょうか。何卒御自愛を。

ロシアダービーはタゴール系に仄かな期待を抱いていたんですが(笑)
まさかあんなに外国産馬が増えていたとは。。。
ここ↓なんかを見るとキリル文字が訳わからないなりにも
タゴール系やらアニリン末裔やら残ってる気配なんですがね。
まぁ昨今の流れから言って淘汰されちゃうのも時間の問題でしょうけども。 
http://www.cmh.ru/submenu2_ippo_skachky.htm




夏枯れの季節  投稿者: GURU@偏屈爺  投稿日: 7月28日(木)22時51分32秒 

目下ドクターストップで酒も飲めないので、暇つぶしに父系表アップデート版を
例によって時限付き公開いたしまする。パスワードは前回と同じです。

ttp://teenoso.hp.infoseek.co.jp/update.html 




フォローどうも  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 8日(金)09時28分8秒 

Brown King の馬主名が Mrs. Joe W.Brown となってますので
わかりやすい冠名だったんでしょうかね。

Palais Royal(Brown King)の北半球に残した血の影響力は
かなりのものがあったんじゃないでしょうか。
配合牝馬の父名をみても一流どころが並んでますしね。

日本との関わりですとこの馬あたりになりますか。 
http://www.pedigreequery.com/index.php?query_type=horse&search_bar=horse&h=FANCIMINE&g=5&l=




ブラウン軍団その後  投稿者: 通りすがり  投稿日: 7月 8日(金)01時06分52秒 

北米で出走した馬もあったようで2頭はステークスウイナーになってます。
Brown King, at 8 won Gran Premio Ciudad de la Habana H. (キューバですが)
Brown Prince III, at 6 won Cagliostro Steeplechase H. (障害ですが)

Brown Bomb、Brown Boy II、Brown King、Brown Man II は種牡馬になって
Brown King は成功しました。主な産駒は
Monmouth Oaks の Dorothy Brown
Louisiana Derby の Matagorda
Firenze H., New Orleans H. の Red Camelia (記念レースがあります)
Las Flores H., Santa Margarita H., Santa Maria H. の Spanish Cream
Beldame H. の Theima Berger 




どうもです  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 7日(木)22時53分38秒 

万事了解いたしました。
Lux、Dux どちらも正解と言うことですね。
ちょっと違いますが、日本でも昔は一文字変更とかよくありましたもんね。
四季報でよく見かけたような。

デルマに Adam Lux を登録しました。
非常に不本意ですが変名後の Brown Bomb で入れました。
他の移籍チリ馬も米国人が登録したらしく、Brown~名の方で揃ってますので。。。 
http://www.pedigreequery.com/index.php?query_type=horse&search_bar=horse&h=BROWN+BOMB2&g=5&p=0&f=1&l=




じつは…  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 7月 7日(木)21時20分8秒 

ファイルのAdams Dux(CHI)は"s"が余分なので削除してくださいませ。
一部の不明部分が判明しましたら完全版のファイルを送ります。

で、Adam Luxの名前ですが"Adam Dux"の名前を2つ持っていると理解してください。
これは改名したとかではなく、成績書・血統書に混在して記載されています。
Luis E. Soto著『チリ競馬』第2巻(1901-1950) にも、
前名を表す"ex" ではなく並立の"o"をもって、"Adam Lux o Adam Dux"と記載した上で、
"2つの名前をもっていた”と説明されています。
一応、ビーニャデルマール市賞を勝った時はAdam Duxで、
最後の出走の時はAdam Luxで記載されています。

Adam Lux o Adam Duxは1932年生まれで、Palais Royalと同世代です。
Palais Royalの勝ったダービーでは4着に入線しています。 
編集済 




なるほど納得です  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 7日(木)19時24分29秒 

のどのつかえが取れました。感謝です。

それにしてもまた安易な名前をつけてますね。。。
Adam Lux は以前頂いた勝ち馬一覧(ワードファイル)の中では
暫定扱いの青字で Adams Dux(CHI) となってましたが
Adam Lux で正解なのですね。
生年は1934年でしょうか、それとも1935年なのでしょうか?
ファミリーテーブル未記載の馬なもので。。。お願いいたします。 




真相は…  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 7月 7日(木)03時06分29秒 

チリ産馬の海外輸出履歴を見てみると、1939年にアメリカへ10頭が輸出されています。
そのうちの6頭が以下の通りです。
・Brown Bomb (ex Adam Lux)
・Brown Boy (ex Triangulo)
・Brown King (ex Palais Royal)
・Brown Man (ex Jayun, ex Jaranero)
・Brown Prince (ex Ix, ex Sideral)
・Brown Queen (ex Soledad, ex Medea)
以前に話題にした2冠馬Palais Royalや今年G2に格下げされたビーニャデルマール市賞を
2度制したAdam Lux名も見られます。
これらは全て輸出後に"Brown ~"に改名されているところから分かる通り、
一緒に購買、輸出されたものです。Palais RoyalとAdam Luxの輸出が本来の目的であり、
Brown Boy は言い方は悪いかもしれませんがおまけみたいなものではないかと(^-^) 
編集済 




払い下げじゃなく  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 6日(水)22時38分8秒 

貸下げだったんですね。その当時は。
ということは書類上の所有者は国(陸軍?)のままだったんでしょうかね。
まぁだとしても単なる名目上の措置に過ぎなかったのかもしれませんが。

上帯の名の由来は何なんですかね。
ググってみると、鐘の文様に上帯・下帯と言うのがあるようです。
最初は地名かなぁと思ってましたが、こっちのシブイ系?由来かもしれません。

Brown Boy II に米国の生産者がラブコールを送った理由はなんとも謎だらけですね。
オラスコアーガ系が欲しかったと言うなら、競走成績が優れた馬が
当時のチリには一杯いたような気もいたしますし(この馬の成績は存じませんけど)。
更には Ming の全姉の Brown Wave というのが1946年生まれのようですから
Olhaverry の活躍を目の当たりにして、と言うのも考え辛くなってきたわけで。 
http://www.pedigreequery.com/index.php?query_type=horse&search_bar=horse&h=BROWN+WAVE&g=5&l=




上帯は明治末の札幌の  投稿者: 通りすがり  投稿日: 7月 6日(水)19時32分55秒 

出走馬の母として「貸下上帯」の名で出てきますね。
日露戦争のために豪州から1万頭輸入したうちの1頭。
三石で供用されたようなので大塚助吉か米田弥平でしょう。

Brown Boy II は北米で走った形跡はありません。供用地も今のところ私には不明。
Ming は2戦0勝、収得賞金0ドル。ネブラスカ州で供用されてました。 



でしたか  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 5日(火)19時43分6秒 

牝系に代々かけられた種牡馬も聞いた事無いような馬ばかりですので
相当ローカルな牧場で繋用されていたと思われます。
この時代にわざわざチリから輸入したんですから
それなりの期待はあったんだろうとは思いますが。
(競走馬として入っていた可能性もありますけど。。。)

話は変わりますが、*上帯の牝系ってもしかしたら現存してるのかもです。
おそらくカントリー牧場辺りで?
http://k-ba.data-hotel.net/cgi-bin/ped/female.pl?data=54258
調べてみるとタニノサイアスってのがテスコガビーの桜花賞で4着した馬のようですね。
息子のタニノファストとかも京阪杯3着の成績があるようで。
僅か15年ほど前の事ですが、この血統の馬が重賞で入着していたわけで
何とも言えぬ隔世の感に襲われております。 
http://www.pedigreequery.com/index.php?query_type=horse&search_bar=horse&h=TANINO+FAST&g=5&l=




米国では  投稿者: 通りすがり  投稿日: 7月 5日(火)00時54分41秒 

Brown Boy II (Chi) になってます。
ステークス勝ち馬は出せませんでした。
Ming の子にもステークス勝ち馬はいませんね。 




オラスコアーガ系  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 4日(月)23時29分1秒 

こんな↓馬までいたようですね。18戦0勝、獲得賞金230ドル。
生産国名が入ってませんが、他の産駒達の血統から大胆に推理すると、
父 Ming ともども米国産になるでしょうか。
とすると、父父の Brown Boy(CHI) が米国へ輸出された可能性がありますね。
Olhaverry(CHI) がサンタアニタハンデを勝ったのが1946年のようですから
その直後の出来事と考えると納得かも。 
http://www.pedigreequery.com/index.php?query_type=horse&search_bar=horse&h=ACK+SAR+MING&g=5&l=




レース体系は  投稿者: GURU@偏屈爺  投稿日: 7月 4日(月)00時39分53秒 

全く不案内ゆえ豚に真珠状態ですが、Filibustero なら納得行きました。
馬名もレース名も Confusion will be my epitaph... 




解説どうも  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 3日(日)07時41分49秒 

自分も混同してたようです。
というか、ただ漫然と書き写してたと言うか。

参考までにファミリーテーブルで網羅されてる「インテルナシオナル」競走は

Gran Premio Internacional   (Santiago,Chile) 2600 (1920-1963)
Gran Premio Internacional(Gr.1)(Chile,Chile) 2000 (1987,1989-1990)

となってます。
前者が馬事クラブで行なわれていたPremio Internacional(1900-1976)のことで
後者が持ち回りのGP.Internacional de Chile(1961-1968,1987,1989-1990?)の
ことなのでしょう。

おかげさまで頭の整理がつきました。
記憶が消えた時も大丈夫なよう、本書に注釈を書き込んでおきます(笑) 




一言  投稿者: Lucky Boy  投稿日: 7月 3日(日)01時25分23秒 

Filibustero はチリ産馬としては最高の種牡馬だったとの評価を受けている馬ですね。
ただファミリーテーブルの記載する勝ち鞍GP.Internacionalは誤りです。
正しくはPremio Internacionalで"Gran"は付きません。
この誤りはよく見られるのですが、
恐らくは1961年に創設されたGP.Internacional de Chileと混同しているのだと思われます。
GP.Internacional de Chile はご存知の通り、南米国際競馬シリーズの一環として
3大クラブの持ち回り競走として創設さた競走で、1968年に中断され、
1980年代に一時復活するも、1990年のイポードロモチレで開催されたのを
最後に再び中断、という経緯を辿っています。個人的には大いに復活を期待している競走です。
ちなみに、このチリの国際競走イベントは他の国と同様
スプリントやマイルの国際競走も行われていたのですが、
すぐに廃止されたので、その存在を知っている人は少ないのでは?と思われます。
一方、Premio Internacional は1900年に創設され、
サンチャゴ馬事クラブ賞と双璧をなす競走として役割を担ってきましたが、
1976年をもって廃止されています。 




歓迎っす  投稿者: ふてき  投稿日: 7月 2日(土)11時10分9秒 

ご遠慮なくどうぞー。

どうもこの記事に出て来る「リカルドーリオン」というのは馬名と競走名を
取り違えてるっぽいですね。
ファミリーテーブルの該当部分を一部表記変更しつつ抜粋すると

Marbella(GB)(f 1888 Berserker)
|Tavira(GB)(f 1892 Crowberry)
| |Musetta(GB)(f 1898 Bunbury)
| | |Heraldica(GB)(f 1908 Volodyovski)
| | | |Filibus(CHI)(f 1915 Eclair)
| | | | |Freire(CHI)(c 1927 El Tango).......El Derby, El Ensayo, Polla de Potrillos,
| | | | |                                   St.Leger, Premio Nacional Ricardo Lyon
| | | | |Fille de Chambre(CHI)(f 1928 El Tango)
| | | | | |Fragata(CHI)(f 1937 Henry Lee)...Polla de Potrancas
| | | | |Filibustero(CHI)(c 1937 Isabelino).El Ensayo, St.Leger, Premio Nacional Ricardo Lyon,
| | | | |                                   La Prueba, Polla de Potrillos, GP.Internacional,
| | | | |                                   Premio Club Hipico de Santiago, La Copa(Twice)
| | | |Harold(CHI)(c 1917 Eclair)...........Polla de Potrillos


こんな感じになってます。
戦績から判断すると Filibustero の事を指しているんじゃないかと。 




今度はチリーの牝系  投稿者: GURU@偏屈爺  投稿日: 7月 2日(土)00時09分3秒 

すみません。またいつもの血統調査依頼です。

大昔の競馬ブックの記事の中に、
「このグリーンマントルの妹マックレンマ(1836)の4代子孫であるマーベラ(1888)の
子孫たちは南米チリで栄えたが、なかでも著名なのはサンチアゴの2000ギニー、
グランプレミオ・インターナショナル、ヴァルパライソのダービーおよびセントレジャー等
をはじめ数多く大レースに勝ちまくったリカルドーリオンである。」
という記述があります。マーベラとは MARBELLA (GB) 1888 by Berserker のこと
と思われますが[6 b]、「リカルドーリオン」なる馬が見つかりません。この記述がもし
正しければファミリーテーブルに載っていると思うのですが、確認していただければ幸いです。 
http://www.pedigreequery.com/marbella2