2006年2月




コリンス  投稿者:ふてき  投稿日: 2月 8日(水)19時32分38秒   

現役時に御下賜を受けてる騎手だったんですね。こりゃ大変だ(笑)

↓露探に関する研究文書(PDFファイル)にコリンス事件が取り上げられてますね。
これによればコリンスは香港生まれの英国人。軍事保護法違反の咎で重懲役11年の
有罪判決を受けたものの、特赦により約1年で出獄。
その後は煙草銭にも困る日々を送っていたらしいとか。 
http://www.dcns.ne.jp/~t-oku/rotan.pdf
   
 


露探捕はる!!  投稿者:通りすがり  投稿日: 2月 8日(水)02時15分33秒   

明治20年代の根岸や上野で活躍したコリンスという騎手がいましたが
これは明治37年11月5日の横浜毎日新聞。

その肉を喰ふとも慊らざるこの露探嫌疑者は山下町百七十九番館パリスホテル
に止宿せる葡萄牙人エツチ、ビ、コリンス(三十九)と呼び通称ハーレーコリ
ンスとて外人間には悪評高き男なりしが・・・

コリンスは横浜に生れ(一説には南清に生れ後横浜に来れりと)父コリンスは
純粋の葡萄牙人種なりしも母は白皙人と南海地方人種との混血児なりき此夫婦
の間に生れたるコリンスは殆ど日本人の如き容貌にして身の丈五尺五寸体格肥
満し言語は日本語と英語とを巧みに操り又支那語をも能くすれど彼は専ら混生
児なる事を秘する為め平素は支那語を用ひざりしなり父のコリンスは三十年以
上横浜に在住し外字新聞アドヴアータイザーの植字係たりしが程なくメール新
聞に転じて器械職工の監督を勤め一昨年頃死亡したり左ればコリンスは幼少の
時より新聞社内にありて教育を受け中年メールの書記となり又傍ら探訪を勤め
しが其後ヘラルド新聞に転じ更に日本競馬会社の騎手となり一時は名声を博し
たるも彼が怠惰と背信なる行為は久しく其名声を繋ぐ事能はず遂に騎手と免除
され従って外人間の指弾を招くに至れり

火事を起こして保険金詐欺の疑いで取り調べられ、横浜を去って神戸・上海を
転々とした後、ロシア人女性を連れて横浜に戻ってきたとのことです。    
 



騎手の草分け  投稿者:ふてき  投稿日: 2月 7日(火)23時00分10秒   

山手十六番館別当の小僧、ですか。何かの丁稚奉公のことでしょうかね??
神崎利木蔵氏は函館一門だったようですが、大野市太郎氏にとっては師匠格に
あたる人っていなかったのかもしれませんね。天性の才能により日本人騎手第一号と
称される存在にまで上り詰めたのかなぁなどと妄想してます。

明治9年の時点で既に騎乗記録があると言うことは30年近くの長きにわたり
「騎手」だったという事になりますね。    
 



日本人騎手の起源  投稿者:通りすがり  投稿日: 2月 7日(火)04時09分55秒   

『日本レースクラブ小史』に明治9年頃「イチ、ディックなる者あり」と記され、
イチが大野市太郎氏、ディックが神崎利木蔵氏であることはわかっていましたが、
大野氏の来歴について明治9年11月20日の横浜毎日新聞に記事がありました。

本月十六日より十八日まで三日の間当港根岸競馬に日本人の出来が宜く尤も初日は
腹帯が切れ福羽といふ者が落馬したれど二日目にはセキモトと云馬に乗り勝て昨日
の恥辱を雪ぎ又サマノヘと云馬にて木村と云者初日に勝モスコトと云馬にて乗島と
いふ者初日二日両日勝ち取分三日目の勝ハ山手十六番館別当の子僧市太郎といふ者
(十五年十ヶ月)支那馬ヂヤーシにて乗勝しハ見もので有たとといふ

これは横浜レースクラブから分派した横浜レーシングアソシエーションの開催で、
馬も人も足りないので宮内省の協力を仰ぎ、福羽守人・木村介一の両氏はその縁で
騎乗したと思われます。「乗島」は今のところわかりません。大野氏が勝ったのは
最終の第8レース・シルクカップで、ジャパンガゼットによればシンバッド氏の所
有馬ザジャッジに乗って道中2番手につけゴール前でマンダリンを交わしました。

The race should have been Mandarin's, but his rider failed at
the finish and allowed The Judge, who was very well ridden,
to pass him and win by a neck.