2006年3月




どうもです  投稿者:ふてき  投稿日: 3月29日(水)20時02分4秒   

修正いたしました。>家系図

しかし良くも悪くもプロの技です。幅寄せブロック。
一歩間違えば大事故ですもんね。それだけ腕に自信もあったんでしょう。
相手方に対しても。

「定年ジョッキー」今度隣町の図書館に行った時にでも探して読んでみます。    
 



↓ 同じ間違いを2度書いて  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月29日(水)18時12分32秒   

しまいました。大変失礼。正しくは
保田隆芳の妹の子が池上昌弘です。    
 



内藤繁春元調教師の  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月29日(水)03時01分48秒   

『定年ジョッキー』読んでるところですがやはり昔の人の話は面白いですね。
田所稔騎手と犬猿の仲で、やはり田所嫌いの岩元金三郎と仕組んだ障害レース。
内ラチが小さな植え込みだけになっている部分があって先頭の岩元騎手が内を開ける。
田所騎手が内へ入ったところで後方から内藤騎手が声を上げ岩元騎手は馬を内へ。
行き場を失った田所騎手の馬は思わず植え込みを飛び越えてしまうという・・・

系図ちょっと見ましたが池上昌弘は保田隆芳の母の妹の息子です。    
 



明日から  投稿者:ふてき  投稿日: 3月24日(金)16時09分40秒   

4、5日留守にします。
ドバイではありません(笑)  
 



適応力  投稿者:ふてき  投稿日: 3月22日(水)20時14分57秒   

ドバイの水(砂?)が合うかどうかってのもかなり重要になりますよね。
今年もシーマクラシック目指してブラジルから4、5頭行きましたけど、
出走に辿り着けたのが国内での格から言えば3、4番手に過ぎなかった
Punch Punch だったわけで。
結局こればっかりはやってみなけりゃわからない事なんですよねぇ。。。

#終わってみれば「ネコ」が勝っているんじゃないかという気もしますが(笑)    
 



ぼくとしては  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月22日(水)01時39分17秒     編集済  

今年のUAEダービーは現在版南米ダービーの様相ですな。
個人的体力の問題で、南米を去った馬たちの追っかけは殆んどしないのですが、
これだけ面子が揃ろうと面白いですね。

僕の評価は、
Gold For Sale>Simpatico Bribon>Invasor>Jackson>Dominguin
って感じかな。Gold For Saleは短いところのほうが良いとは思うのですが、
このメンバーでは能力で抜けている観じがする。
Simpatico Bribonは実績から次点といったところ。
Invasorは“宇三冠=亜のマイナーG1”といった判断から。
休み明けはマイナスだが、これまでの圧勝を引いてこの位置。。
Jacksonはコンスタントには使われているが、如何せん勝っていない。
サンパウロダービー三着入線があるも力的に疑問あり。
南米5番手評価のDominguinですが、個人的に大いに期待も
ペルー馬の南米以外での海外実績の悪さが引っかかる。
過去にも2歳チャンピオンが北半球に渡ったが、
これまで万全の形で北半球で走った例がない。
それに競走馬の質からレベルの差が大きく、国内で圧勝といっても
もともと着差が付きやすい傾向にあるのがペルー。
でもホントに怪物だったら面白いなぁ~と。
残念なのは、これで数頭の無敗馬に黒星がついてしまうことかな(^-^)    
 



まさしく  投稿者:ふてき  投稿日: 3月21日(火)20時04分34秒   

劇画の世界ですね。
当時は常にそういう背景が付き纏っていたということを頭に入れておかないと
真実を見誤る事にもなりそうです。
それにしても当時の競馬をあらわすには「興行」と言う言葉がピッタリですね。
北海道みたいな土地だと余計にそう感じられたんじゃないかと。


せっかくなんで、UAEダービー南米馬のアトサキを予想しときます。
シンパティコブリボン>ゴールドフォーセール>ジャクソン>ドミンギン>インバソール
いたってフツーですね。思い入れのあるジャクソンには肩入れしてますが(笑)
やはり久々の上に中東初出走となる2頭は割引じゃないかと。    
 



東松事件の真相は  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月21日(火)02時29分55秒   

想像するしかありませんが、1つ言えることは昔の競馬は今の競馬とは違うと
いうことです。仕組むのは当たり前とは変な表現ですが、ファンもそれを前提
に推理したわけですし、かといってそれが合法かというと違法である。微妙な
ものだったのです。主催者もまた、クラブ時代には取り締まる側=政府当局よ
りは関係者側に位置していました。『侠骨二代の紋章』から引用してみます。

持田さんは源次郎に数多い客を紹介して「玉」を入れた。客の大部分は、山持
ち、牧場主、馬商などであった。関東から招待された人たちは大方は筋の人で
あるから「石川屋」に集った。ここでも、同じように昼は競馬、夜は「第十三
レース」が待っていて、翌日のレースの打ち合わせがはじまる。大体地付きの
夜の客としては、昼間とほぼ同じで、牧場主、山持ちなどが多かった。札幌に
は、内地の競馬でも一緒の上村大治郎さんや稗田騎手などもいた。

内地の八百長ならば、十のうち半分以上は「八百長くずれ」となるのがふつう
のことだったが、この土地では、まったくくずれるということがない。土地の
顔役にとっては一年ただ一回の競馬であり、かけがえのないチャンスであるか
ら、冬のあいだにねっていた策をこのときに実行に移し、一挙にもうけようと
意気込むのも無理はない。「ノミ屋胴元」は内地の場合だと、八百長を知って
の上、八百長くずれを予想して、わざわざ顔役や親分衆から「玉」を大量に受
けるのだが、北海道ではこれが通用しなかった。地付きの顔役の馬券「玉」が
すなわち的中馬券なのである。

大久保福松は函館競馬のボスとも書かれています。    
 



大二は知りませんが  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月21日(火)00時59分48秒   

十七二系でしょうか。虎伊の次男敏男の甥に善彦がいるとのことです。
十七二はトナジですかね。稗田一族の中では抜群の騎乗成績でしたが、
かつて武田文吾師が騎手はきっちり馬を御さなければならないと語り、
ただ勝ち鞍を稼いでいるだけの存在として批判した対象が十七二でした。
私はむしろ騎手はレースに勝つための能力を持てばよいと思ってますが。
国営から姿を消した後は地方競馬で厩務員になったようです。    
 



結論として  投稿者:ふてき  投稿日: 3月20日(月)23時35分48秒   

確実に言えるのは競走史に関する向こうの公式見解は鵜呑みにしちゃいけない
ということですか(笑)いずれLBさんの歴史発掘作業が終了したら
完全無欠な重賞史をマリオさん経由でお偉いさんに届けてもらいましょう。
その時こそが作業完遂の瞬間になろうかと。

稗田姓名の競馬人では他に稗田善彦、稗田大二といるようですね。
この二人は間違いなく虎伊師とは近縁でしょう。
あとは畑江五郎氏のガーネットを生産した稗田牧場関係ですか。

しかし東松氏の行なった不正って何だったんですかね。
賭博行為とも記されてますから、馬主間での大きな賭けでも発覚したんでしょうか。
それとも井川騎手の八百長事件と関連したものなんですかな。

「続仁三郎」をグーグルで検索すると1件だけでてきますね。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_062.htm
函館末広町で時計店を経営。どうやらこの人で間違い無さそうです。    
 



睡魔に負けて  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月20日(月)11時59分20秒   

ラティノは生で見れなかった。。。

>ふてきさま

ブラジルでの回次の数え方はやっぱりラテンって感じでいいかげんみたいです。
今回の調査で分かったこととなのですが、
リオのオークスにあたる牝馬2冠目(A)、3冠目(B)、フェスタの牝馬国際競走(C)の
3つの競走は、各々名称変更を繰り返して、名前がごっちゃになっています。
リオオークスはB→A。
牝馬3冠目は、C
牝馬国際はA→B→C
といった名称変更をしています。しかし、牡馬3冠と違って、
回次の数え方は名前を基準に統一しているようです。
ただ、これはこの競走条件の変遷を正しく理解している人がいないからとも言えそうです。
なにせブラジルですから。彼らは全く過去の競走に興味がなく、
はっきり言ってしまうと、競走の回次などはどうでもよいことなのです。
僕がブラジルで出会った唯一の競馬史マニアは、サンパウロの競馬博物館の館長マリオさん
だけだったことは、報告した通りです(^-^)

>通りすがりさま

ただでさえ当時の北海道で財力のある馬主を探すのは厳しかったでしょうし、
東松氏の問題行動はかなりのダメージになったことは推測できますね。

そういえば、稗田虎伊の甥(古い資料には誤って息子となっていたりしますが)に
稗田十七ニがいますが、彼の名前は読み方は「トナジ」でよいのかな。    
 



幻の国際レースのことを  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月20日(月)00時31分59秒   

調べようと思って昔の優駿をめくってたら稗田虎伊師死去を受けた座談会があって
出席者のひとり畑江五郎氏は私も存じあげてますが本当の紳士でした。単なる若造
に過ぎなかった私に決して偉ぶることなく接して何でも教えて下さった。つい最近
のような気がしてましたが畑江氏がお亡くなりになったのは昭和56年、遥かな昔
です。それはともかく、稗田師が昭和11年頃をピークに没落していったのはなぜ
かと畑江氏が問うのに、高松三太師は「馬主さんの問題が大きいと思う。東松さん
がおかしくなってしまって、馬は散り散りになってしまったし、東松さんがいたの
で、いい馬主がつかなくなった」と答えています。その東松氏の参謀としてピアス
アロートマスや伊藤厩舎から持ってきたクレオパトラトマスなどのアメリカ遠征を
企画したのは我らが続氏・・・

最近続氏の旅券のコピーを入手しました。
「北海道函館区舩見町七十二番地 戸主平民仁三郎次男 学生
続秀太郎 明治十九年八月四日生」とあります(続は旧字体)。
発行者は日本帝国外務大臣正三位勲一等伯爵小村壽太郎。    
 



牝馬ステークス  投稿者:ふてき  投稿日: 3月17日(金)21時42分52秒   

クラシコじゃなくて単発のオープン競走だったんすね。
1着賞金1500万は直後に行なわれたビクトリアCとも一緒ですか。
鷹揚な時代でしたね。今じゃとても考えられないっす。

南米ダービーとエリ女で強引に話題を作ります。何度かループしてますが(笑)
エリザベス女王杯の場合、JRAは競走名優先主義というか
96年に古牝馬に開放されてからも以前の回次を引き継がせていて
秋華賞の方を全くの新設重賞とする立場をとってますよね。
南米(特に近年のブラジル)なんかは、3歳クラシックの
競走名もめまぐるしく変わってますが、競走の意味の方を優先してると言うか
例えば三冠の第三戦なら第三戦で、何回名前が替わろうと同一競走と見なしてますよね。
逆に三冠から外れた競走名が別の競走に据えられた場合、三冠時代とは全く別物で、
以前の回次を引き継ぐなんてことはないでしょう。
つまりエリ女→秋華賞だったら
1995年の第20回までがエリザベス女王杯で、翌1996年は
第21回秋華賞として引き継がれるのが基本じゃないかと。向こうの感覚では。

まぁどっちが正しいとか言う話じゃないんですが、思考回路の違いなんでしょうかね。
LBさんの南米重賞一覧制作のお手伝いをしてた時にふと思った事なんですけども。    
 



早いもので  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月17日(金)04時20分42秒   

もうラティノ大賞ですね。今年はどのサイトで中継を見ようかな。
ラティノ大賞って、ベネズエラJCの会長が提唱して創設された競走なのですが、
そのベネズエラ自身がが参加しなくなったというところが、これまたラテンらしい(^-^)

国際競走ネタでは、かつてブラジルで南米ダービーが開催されたことがありましたが、
これは元々はサンパウロ大賞を改編したものだったりします。
1950年代後半にサンパウロ大賞を3歳限定の国際招待競走にして“南米ダービー”と副題を
つけたのが始まりです。1960年になり南米ダービーはサンパウロ大賞と切り離されて
開催されるようになりましたが、その後すぐに廃止されてしまったのは
ご存知の通りです。  
 



国際レースで思い出しました。  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月17日(金)01時17分7秒   

昭和45年に京都にビクトリアCが出来て今のエリ女や秋華賞に繋がる
わけですが、なぜこんなレースが作られたかというと、同時期に東京で
国際レースを企画してたんですよ。結局検疫がクリアできずにポシャる
んですが、余った予算で11月1日に牝馬ステークスが行われました。
桜花賞と同じ1500万円の1着賞金はキヨズイセンが獲得しました。    
 



修正しました  投稿者:ふてき  投稿日: 3月16日(木)08時50分7秒   

他にも勘違いしてる個所があるかもしれません。
お気付きの方、ご指摘ください。

今年のラティノはOSAF以外の多くの国で放映&馬券発売?されるみたいです。
やはりマグナが絡んだ影響なんでしょうね。
個人的にはラティノって「古き良き国際競走」な風情が残っていて好きなんですよね。
全盛期のワシントンDC国際ですとか、ジャパンカップが創設される当初に
(管理人が)抱いていた国際競走のイメージに近いと言うか。

今だとドバイ祭りがありますから、南米の有力馬にとっては
「実」を選べばドバイ、「名」を選べばラティノという図式になってるんでしょうね。    
 



書き方が悪かったようで  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月16日(木)01時33分3秒   

誤解されたようですが田中和一郎の妻は美代、
鈴木信太郎の妻はせい、鈴木勝太郎の妻は歌子です。
柴田兄弟は次男政見・三男政人・四男利秋です。
石崎修の子に譲がいます。
橋口兄弟の父は虎斗雄と先週のギャロップに出ていたような。

この前正月だったのにもう今週はラティノですね。
一度は行ってみたいレースですけどドバイと接近してますから。
訪れた時は廃墟だったマローニャスの再建ぶりも注目です。    
 



ありがとうございます  投稿者:ふてき  投稿日: 3月15日(水)22時44分52秒   

お陰様ですこぶる情報充実。管理人泣いて喜んでおります。

世間的にはあまり関心のもたれない分野なんでしょうけど、こんな感じで
今後もニッチ屋に出来る事をせいぜいやっていこうかなぁと。    
 



聞き取りは一切しておりません。  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月15日(水)20時13分19秒   

情報はすべて過去に活字として発表されたものばかりです。
とりあえずここで打ち止めとします。    
 



↓ HN変えてくれるとありがたい。  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月15日(水)20時09分59秒   

野平省三の父母は利助・ゑい、妻は富枝。清田十一の母は「はつえ」。
栗田勝の弟に実。
柴田不二男の兄松夫の長男松之丞の子が善臣。
岩本ではなく岩元市三です。
岸滋彦の父母は実・紀子、紀子の姉綾子の夫は徳広二夫、宮本保基の母は和子。

田所秀雄の妻は澄子。福島信晴・五十嵐忠男・西浦勝一・栩原一男・増井裕も田所一族。
夏村辰男も後妻は道子。
本郷と赤石は無関係。重彦の甥の子に原昌久。
アイザックス門下での重彦の弟弟子・北岡国雄の母方の伯父が赤石孔。
松田由太郎の父母は伊三郎・みつ、妻はふじ子、次女厚子の夫が幸春。
田中和一郎の妻は美代。

小林三雄三の妻はヨシ。
富田六郎の父母は金之助・タカ、妻はカツ、次男秀幸の妻の父は秋山史郎。
長浜彦三郎の妻は蘭子。
田中良平の妻は和。
鈴木信太郎の父は市太郎、妻はせい、高橋英夫に嫁いだのはきみ子。
鈴木勝太郎の父は清吉、妻は歌子。    
 



お騒がせしております  投稿者:ふてき  投稿日: 3月15日(水)20時00分22秒   

ここの住人は古の競馬人に対し敬意を持った人ばかりですが、
ご親族の方にとっては何かと不快に感じられる内容もあろうかと思います。
ご意見、ご要望など御座いましたら忌憚無くお聞かせくださいましm(_ _)m    
 



ここって  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月15日(水)19時01分46秒   

どんな掲示板なんですか?
じーちゃんの馬を調べようと検索したら出てきて、じーちゃんと義父の名前が出て、ビックリした(笑)    
 



なるほど  投稿者:ふてき  投稿日: 3月14日(火)18時56分13秒   

勉強になります。
そう言えば、鹿児島って園とか薗の字がつく苗字の人が多いですよね。

岸参吉も入れて更新しました~。    
 



たしか  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月14日(火)15時36分34秒   

岸滋彦は岸参吉の曾孫じゃなかったっけな?

矢倉玉造は正しくは矢倉玉吉です。
これは戦前の資料からゴッチャになっているので、
よく間違えられる名前です。  
 



話によれば  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月14日(火)14時56分25秒     編集済  

園田実徳は鹿児島出身で、薩摩藩士の父園田彦右衛門と母シンの長男だとのこと。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/sonoda_sane.htm
薩摩島津家の家臣園田氏の子孫なのだろうか。
ちなみに戦国期に活躍した園田実明(清左衛門)の娘は、
広瀬家に養女に入った後、島津義久に嫁いでいます。

新華族として2家の園田家が男爵となっています。
両家ともに鹿児島藩士なので、園田実徳と遠縁なのかもしれない。

園田実徳の長女のぶ子は、西郷隆盛の子寅太郎に嫁ぎ、
12子をもうけました。
園田実徳の死去すると、のぶ子の浪費癖のために、
西郷家の家計は困窮し私財を手放すはめになったとか。    
 



更新しました  投稿者:ふてき  投稿日: 3月13日(月)22時04分47秒   

ファイルが大きくなったので四分割しました。
http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree01.htm
http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree02.htm
http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree03.htm
http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree04.htm    
 



稲葉幸夫の妻は立子。  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月13日(月)19時13分5秒   

梶与三郎の長男与一郎は獣医、次男は歯医者。
梶与三男の長女は清水芳枝、次女は目野房枝。
吉田三郎の妻はかほる、娘はなおみ。
中村嘉作・かめじ夫妻の子が一雄と広。
中村広の妻重子の父は酒井幸四郎(理髪業)。

佐野清広は田所稔の娘美恵子の婿養子となり田所姓に。
夏村辰男の最初の妻さつきの三男が洋一。
布施恵は妻英子の死後新川姓に戻る。
中村覚之助の父母は岡部賢三・せん。
西塚十勝の妻信の姉大原みよの七男が安夫。
安夫は幼時より西塚家で育ち高校の頃まで十勝・信を両親と思っていた。

和田吾市・フデの子正雄は元石吉太郎の長女フミと結婚。
5年前に吉太郎は死んでおり元石姓を名乗った理由は不明だが元石厩舎復活のためか。
玉谷又四郎・八重夫妻の長男清人・四男敬治の間に勝がおり峰男は勝の子。
土門健司の妻は君枝。
松元正雄の妻は房子、娘はマサ子。

佐藤嘉七の妻はミヨ。
佐藤嘉秋の妻はカホルでその弟が大沢真。
息子の嘉憲は魚屋、娘は橋口カホリ。
秋山史郎は光野治三郎・米子夫妻の子だが高等小学校の頃から秋山家で暮らし
辰治の死後秋山家に入籍、その後辰治の姪秋山加代子と結婚。    
 



お恥ずかしや  投稿者:ふてき  投稿日: 3月12日(日)23時29分47秒   

長い間誤解してたんですね。
聞くは一時の恥と言うことでひとつ御勘如ください。

ごく簡単なものですが、競馬人プロフィール頁を作りました(まだ作成途中ですが)
今までここで教えていただいた情報も流用させてもらいましたm(_ _)m

http://homepage1.nifty.com/futeki/family01.htm
http://homepage1.nifty.com/futeki/family02.htm    
 



馬主会長だった人は  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月12日(日)23時10分38秒   

コムラサキさんですね。

青池良佐は軍隊で鈴木辰之助から馬術を習ったそうで、
この先生の旧姓が小柴(コシバ)ということのようです。
陸軍省軍馬局が所有馬を競馬に参加させた頃騎乗し、明治
16年秋から17年秋まで横浜で2勝、戸山学校で3勝、
上野不忍池で2勝した記録があります。    
 



色々勘違いしてたようで  投稿者:ふてき  投稿日: 3月11日(土)22時35分13秒   

修正しました。ご確認を。

一般の競馬ファンにとって調教師名の読み方って皆自己流だったんですよね、昔は。
テレビ(もちろん地上波)で読まれるのはホンの一握りの一流調教師だけでしたし、
新聞・雑誌の活字で触れ合う機会がほぼ全てだったわけですから。    
 



またざっと見直しましたが、  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月11日(土)20時06分52秒   

武平三の三女の夫が作田誠二です。
武田博の妻は松本虎雄の三女。
中野勝也は婿養子で吉田姓になりました。
古賀嘉蔵の妻は雪美ですね。
増本勇の長女の夫が瀬戸口勉。
菅沼輝正は婿養子で森安姓になりました。
テレビのバラエティでポニーのナリタブラリアンに乗ってた森安が彼です。

保田隆芳の母の妹の子が池上昌弘。
日迫清の弟に日迫良一。
西塚安夫は養子ですよ。婿だったかどうか今はちょっとわかりませんが。
中村武志の妻の姪の夫が秋山忠一。
橋口満朗の妻は佐藤嘉秋の長女。

松永善晴の長女の夫が昌博。
東原玉造の次女の夫が高橋直。
高橋直(なおし)と石毛善衛(ぜんえ)の読みは最近まで勘違いしてました・・・
伊藤勝吉の甥に村上照次郎。
布施文蔵の次女いち子の夫は二分久男です。    
 



更新しました  投稿者:ふてき  投稿日: 3月11日(土)09時57分26秒   

大量の情報ありがとうございます。
お陰様で素晴らしく充実してきました。
一応一通り修正したつもりですが、見落としがあるかもしれません。
お気付きの点は遠慮なくご指摘を。

系図の元ネタの大半は「日本の調教師」なんですよ。
昔、抜書きしていたものを今回HTMLにしただけなんす。
他でウラ取りしたわけじゃないので間違いは多々あろうかと。
一応ご指摘部分の該当個所を見てみると、

「俊一は野平祐二調教師の長女と結婚。
弟の柳俊は調教助手として二本柳ファミリーは関東で根強い。」

「西塚安夫(旧姓大原)は昭和20年6月20日生。47年から義父の厩舎で
調教助手として修行。61年に調教師になった。」

#上村大治郎、目野哲也、藤岡範士は自分の誤解・誤引用だったようです。
#元石家は該当頁がいくら探しても出てきません。紛失した模様。

あと、騎手の系統祖の一人として登場する小紫辰之助って
スズパレードの小紫氏とは関係あるんですかね?

LBさん。

プロフィール頁に情報を盛り込ませていただきます。
って、そっち方は全然手付かずですが。。。

#未掲載のファミリーがまだまだあると思います。情報募集中です。 
http://homepage1.nifty.com/futeki/family.htm
   
 


確か…  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月11日(土)04時12分57秒   

杉村繁盛は、昭和19年(能力検定競走)の最多勝利騎手ですね。
---------------------
1944(昭和19)
---------------------
杉村 繁盛 18
蛯名武五郎 17
阿部正太郎 15
二本柳俊夫 15
前田 長吉 15    
 



またひとつ思い出した。  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月11日(土)02時54分3秒   

杉村政春の弟に繁盛がいます。
カイソウがデビューから東上するまで乗ってました。後に川崎で調教師。  
 



ん~  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月11日(土)00時48分34秒   

奥平朔太郎って、作太郎の間違いですね。
元石家あたりはもう一度確認が必要かもしれません。    
 



福永4兄弟の三男尚武は  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月10日(金)20時45分57秒   

古い公営ファンなら洋一以上の天才と言い、八百長疑惑で引退しなければ
佐々木竹見の7千勝もあり得なかったでしょう。今は食堂の親父だとか。
洋一の妻有見子は日迫清の姪で、弟に北村卓士がいます。
西塚安夫は婿養子じゃなかったような気がします。
元石吉太郎の三男が孝昭、長女ヨシの夫が正雄、その弟が和田信雄。
坂口正二の長女の夫は坂田正行。

上村大治郎は久保田姓を名乗ったことがありますか?
久保田彦之の次男は秀次郎。
福島角一の甥に信晴。
谷栄次郎の長女かづ子の夫が八郎。
玉谷清人の子に峰男。
佐々木猛は旧姓後野、しかし父は佐々木善松。

奥平朔太郎の長女若子の夫は横山富雄(父清・母ハツ)、その子に賀一・典弘。
橋口弘次郎の弟は満朗。
高橋英夫の妻の父は鈴木信太郎。
矢野幸夫の父は春人。
田中好雄の三男は高尾武士。
山岡寿恵次の長女の夫が忞。

白井新平の長男は凡平。
湯窪幸雄の妻は田中義一郎の長女。
小島貞博の妻は田中義一郎の次女。
布施文蔵の甥に清。
新川恵の妻は布施正の長女。
岩元市三の妻は布施正の次女。
柴田光陽の妻は布施正の四女。    
 



梶与三男と藤岡・目野って  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月10日(金)20時27分38秒   

養父子ですか? 姓が変わってませんけど。
梶与三男の娘の夫には清水出美もいます。
函館孫作の甥に七尾忠助。
武輔彦の弟に富三。
二本柳俊夫の義兄に佐々木安。
ところで二本柳柳俊って人いましたっけ?

武田文吾の義弟に横山靖。
鈴木甚吉の叔父に鈴木権四郎(昭和50年代に存命でしたから世代が合わない
気もしますが)、その子に道営の英治・亮平(異母兄弟)。
内藤繁春の妻は須栄子。
飯塚好次の両親は馬太郎・きく。
大久保石松の子に哲男、娘の夫に高橋隆(父兼蔵)、その子に高橋亮。

吉田三郎の長女の夫に勝也(中野)、妻の弟に大江鈴夫。
伊藤雄二の父は木下芳雄。
古賀嘉蔵・雪美の子に正俊・俊次。
石毛善衛の父は小林定五郎。
加賀武見の父は福蔵、妻は望、次女鈴代の夫はジョセフ・リー。
柴田善臣は3兄弟の甥。利秋の子にプロ野球選手博之。

田所稔の長女の夫は佐野清広。
吉永正人の弟に良人。吉永護はみち子の子ではない。
仲住与之助の子に達弥と芳雄、達弥の次男が睦男。
斎藤義美は旧姓中川。
森安弘昭の長女の夫が輝正(菅沼)。
小西一男の妻は石崎修の長女。

稗田虎伊の次男が敏男でその次男が研二。虎伊の甥に十七二。
高松三太の長女の夫は中島啓之。
保田隆芳の父は永治。隆芳の妻和子の母ちかの姉ひでの子が松山吉三郎。
久保道雄の養女の夫が敏文。
中村覚之助は旧姓岡部。    
 



どうもです  投稿者:ふてき  投稿日: 3月 9日(木)23時21分51秒   

早速加筆修正しました。
ついでに色んなファミリーを大量追加。かなり怪しい事になってますが。
枝葉の方もごちゃごちゃになってきてますが、読み取れてますでしょうか。
上手い表現方法が見出せないもので。。。

プロフィール頁も一体どういうスタイルにしたらいいのか悩みます。
こういうのってWIKI系のサービスを利用するのが早道なんでしょうかね。
ド素人なんでよくわからず。 
http://homepage1.nifty.com/futeki/family.htm
   
 


書き忘れ  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月 9日(木)20時41分58秒   

梶与四松・妙子夫妻の子が俊雄、その子が晃啓。    
 



美馬重大は勝一の長男です。  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月 9日(木)18時51分41秒   

稲葉兄弟の末弟邦雄は獣医。
梶与三男の次女の夫が目野哲也。
目野哲也は福岡県山門郡の住職目野勇・ひさ子夫妻が設けた3兄弟の長男。
藤岡範士はそれ以前に勇が作った子で四国の高松育ち。
鈴木甚吉の三女の夫が内藤繁春。
大久保5兄弟の姉スガの子に鮫川富秋。
大久保亀治は菓子屋に奉公し金鋼工場に転じたがあまりにも
欠勤が多いためクビになって競馬の世界に進んだとか。

以前この掲示板でご指摘いただいたルリの騎手についてですが、
古い競馬ニホンに優秀馬丁賞を受けた高橋諒一(元騎手)のインタビューがあり
父の諒平は帝室御賞典に勝って馬主の地元では絵葉書にもなったとのことでした。
諒平はその後静内で馬喰になり諒一は増本牧場の子らと一緒に遊んだとも。    
 



貴重な情報  投稿者:ふてき  投稿日: 3月 8日(水)23時19分47秒   

テンコ盛りですね。ありがたく頂戴いたします。
家系図の間違いは訂正しました。お気付きの点があれば引き続きご指摘を。

函館大経の命名由来に関して「日本の調教師」では「函館道南大事典」からの
引用として「明治2年兵部省御馬掛になり、翌年根岸競馬で外人を抜いて一位を得、
兵部大丞黒田清隆から函館大経の名をもらい~」としていますね。
ただこの事典では大経を斎藤源吉の二男と書いてたりしてますし
果たして信頼性がどうなのかはわからないのですが。    
 



稲葉秀幸・さと夫妻の子が  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月 8日(水)19時15分11秒   

稲葉秀男(クラブ時代は秀雄)・幸夫の兄弟ですが、
梶与三郎の三男が与三男、四男が与四松です。
梶与四松の娘が田村雅美で、田村真来を産みました。

武邦彦は函館を石を以て追われるように京都に来たと聞いたことがあります。
武家は調教師や騎手も出ていますが、本流は馬主で、彦七の跡は芳彦が継ぎました。
芳彦は終戦後函館の進駐軍競馬を主宰しています。やむにやまれぬ所業でしょうが、
日本競馬会の進駐軍競馬に対する姿勢は苛烈だったと思われます。    
 



函館大経は弘化4年  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月 8日(水)19時02分58秒   

様似村大字幌光村の斎藤源吉・ハル夫妻の四男に生まれ、
函館の海産物商小野市右衛門の養子となって儀三郎と名乗り、
江戸で栗本鋤雲に学問を、ペルセルに西洋馬術を学びました。
『明治天皇紀』に明治5年函館大経の馬術を天覧された記事が
あるので、それ以前に改名しています。

大経には子がなく、源吉の七男を養子にして大次と名乗らせました。
大次・サダ夫妻にも子がなく、源吉の六男籐八・ミヨ夫妻の次男を
養子にして大政と名付けました。大政は函館競馬倶楽部に奉職し、
遺族が馬の博物館に大量の函館競馬番組を寄贈しました。この系統
は大貞~大典と続き、千代台で函館犬猫病院を経営しています。

函館サダの姪に千代があり、千歳孫作との縁談が持ち上がった際、
千代の実家からおそらく千歳家の家格に関してでしょうが苦情が出、
サダは周囲の反対を押し切って千代を養女に、孫作を婿養子にしました。
これらは戸籍上のことで、函館家の生活とは無関係なようです。    
 



保留  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月 8日(水)03時07分34秒   

福松と房松が同郷で同族にあたると書きましたが、
ちょっと保留をお願いします。
確かに!そのように記述された資料があったのですが、
どこに書かれていたが確認できません。
ただ、これは記憶がはっきりしています。
しかし、調べてみると、福松が函館競馬場近くの裕福な農家だったとの資料が出て来ました。
もちろん福松が八戸生まれで、函館に移り住んだ可能性は充分あります。
ちょっと調べてみます。  
 
どうもです  投稿者:ふてき  投稿日: 3月 7日(火)21時32分2秒   
   当時の事ですから、同郷で同姓となると遠縁だった確率は高いのでしょうね。
まぁしかしあのスケールの家系図で網羅できる範囲は超えてるんじゃないかと(笑)

家系図、憶測だけで強引に作ったのでかなり怪しいです。
お気付きの点がありましたら、ビシバシ突っ込んでくださいまし。    
 



ひさびさです  投稿者:Lucky Boy  投稿日: 3月 7日(火)20時03分12秒   

先月・今月と何かと忙しくして、カキコできずにすみません。
なんだか貴重な情報が満載となっていますね。
勉強させてもらっています。

函館競馬は明治40年以前はまだ手を付けていません。
明治30年代の函館で続秀太郎氏が騎乗していた可能性ありですか…、
チェックしないとダメですね。

大久保房松は、大正8年ごろまでは「大久保久松」の名で登録されています。
これは単なる登録ミスなのか、それとも改名なのか…ちょっとわかりません。

福松と房松ですが、古い史料に同郷で同族にあたるとありました。
ただ遠縁とのことなので、かなり古い時代(江戸時代?)に分かれたと考えられます。
今となっては血縁関係を把握することは難しいでしょう。    
 



詳細な解説ありがとうございます  投稿者:ふてき  投稿日: 3月 7日(火)19時26分58秒   

おかげさまで積年の疑問解消、すっきりいたしましたm(_ _)m

ハチアジカワと言う馬はクリフジの勝ったオークスで3着ですかね。。。

年丘 ハチアジカワ 1940 牝 黒鹿 / FNo. 3 / Orby 系
  父 - *ダイオライト Diolite (GB) 1927 牡 黒鹿 / FNo. 4-p / Orby 系
  母 - 月丘 エレギャラトマス 1932 牝 鹿 / FNo. 3 / Sir Gallahad 系

  牝系図
   *星若 Ima Baby ( 1924 牝 青 Peter Pan )
    | 月丘 エレギャラトマス ( 1932 牝 鹿 Sir Gallahad ) … 帝室御賞典(阪神春)-1936
    | | [ 年丘 ハチアジカワ ( 1940 牝 黒鹿 *ダイオライト ) … 3着オークス ]
    | | | セントウイナー ( 1949 牡 鹿 クモハタ )
    | | | マナスル ( 1951 牝 鹿 シマタカ ) … 3着阪神3歳S
    | | | | ベストセラー ( 1957 牝 栗 ボストニアン )
    | | | | マスワカ ( 1961 牝 鹿 *ソロナウェー ) … 阪神牝馬特別
    | | | | テイトオー ( 1963 牡 黒鹿 *ソロナウェー ) … ダービー
    | | | | マステル ( 1964 牝 黒鹿 *ユアハイネス )
    | | | | コールテイト ( 1965 牝 鹿 *ソロナウェー )
    | | | | マスオカ ( 1967 牝 栗 メイズイ )
    | | | | クロナー ( 1974 牝 栗 *クロケット )
    | | | マスナミ ( 1952 牝 黒鹿 シマタカ )
    | | ミネオカ 峯丘 ( 1942 牡 青 *ダイオライト )
    | | 丘駿 ( 1947 牝 *セフト )
    | | 丘高 クモワカ ( 1948 牝 鹿 *セフト ) … 2着桜花賞
    | | | 博祐 ( 1958 牝 黒鹿 ヒロサクラ )
    | | | ヤマサクラ 安祐 ( 1960 牡 鹿 *カバーラップ二世 )
    | | | ワカクモ 玲祐 ( 1963 牝 鹿 *カバーラップ二世 ) … 桜花賞 小倉記念
    | | | オカクモ 鳥祐 ( 1965 牝 鹿 *ライジングフレーム )
    | | | | ベゴニヤ ( 1972 牝 鹿 ヒカルタカイ )
    | | | | | トロットアウト ( 牝 *フェイヴォリットバード )
    | | | | | ダイアナソロン ( 1981 牝 鹿 *パーソロン ) … 桜花賞-G1 サファイヤS-G3 2着オークス-G1 3着エリザベス女王杯-G1
    | | | | | ウォーターポピー ( 1982 牝 鹿 *レボウ )
    | | | | | ヤマノライト ( 1983 牡 黒鹿 *コントライト )
    | | | | | ブランドコンドル ( 1987 牝 鹿 シービークロス )
    | | | | | ニッポーファラオ ( 1988 牡 鹿 *ジュニアス )
    | | | | | オプティマム ( 1992 牡 鹿 ニシノライデン )
    | | | | | モチカネチカラ ( 1993 牝 鹿 *テンパレートシル )
    | | | | | テンザンエバー ( 1994 牡 鹿 *パークリージェント )
    | | | | カミノポイント ( 1978 牝 鹿 *ネヴァービート )
    | | | タチクモオー 月若 ( 1968 牡 鹿 *カバーラップ二世 )
    | | ホシオカ 星浜 ( 1949 牡 *セフト )
    | | ウンリュウ 賢優 ( 1950 牡 鹿 *セフト )
    | | プラネット 幸丘 ( 1954 牡 *セフト )
    | サンダーランド ( 1934 牝 栗 *トウルヌソル ) … 阪神4歳牝馬 2着ダービー 3着牝馬特別(横浜春)各古馬特H(阪神秋)
    | カミワカ ( 1938 牡 黒鹿 *ダイオライト ) … 中山大障害 3着ダービー
    | 豊若 トヨワカ ( 1943 牝 栗 *ダイオライト ) … 2着菊花賞 3着平和賞(京都春)
---------------------------------------------------------------------------------------
                                                                                                                              SireLine for Windows  Ver 1.50 - Build 496


家系図をhtmlにしてみました。(環境によってはズレて表示されてるかも。。。)
今は系図のみですが、名前にリンクをはりプロフィール頁を作ってそこに飛ばす形に
しようと思います。
今まで掲示板でご教示頂いた内容をそちらに反映させちゃおうか、などと考えています。
間違い指摘、要望、苦情などありましたら皆さんよろしく。 
http://homepage1.nifty.com/futeki/family.htm

   
 

大久保福松は  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月 6日(月)20時13分44秒   

函館競馬倶楽部の会員馬主で他会員の馬を預かったり、会員外の馬主のために
名義上の馬主になったりしていたようですね。5人の男児があって長男福蔵は
福松の後継者となり、次男亀治は尾形の大亀と呼ばれる大騎手となった後鳴尾
で独立しました。三男末吉は調騎分離で東京で調教師になりますが騎手に戻り
関西で騎乗していた四男末太郎を呼んで自厩舎の名目上の調教師にしました。
末吉引退後末太郎は三井家に養子入り本当に開業。大久保太=三井です。五男
源吉は府中で洋服屋になったとか。

大久保房松は明治30年八戸に生まれ幼少時函館に移りましたが、福松系統と
血縁はありません。時任牧場の牧夫を経て函館大次に入門しています。なお、
もう1つ同姓の大久保石松も八戸生まれですが、福松・房松共に無関係です。

野平省三は明治33年千葉県印旛郡に生まれ、15歳で下総御料牧場の牧夫と
なり26歳で秋山辰治に入門して競馬界入りし、富久・祐二・幸雄の3兄弟を
設けました。野平好男は大正9年下総御料牧場に生まれ、ちょうど省三が奉職
していた頃ですが無関係で、昭和13年に田村仁三郎に入門しました。

美馬家と増本家に血縁があるのかないのかは知りません。増本勇は明治42年
生まれ、静内の増本牧場の次男坊で美馬信次に入門し昭和11年にデビューし
ましたが、2年後調騎分離の際に調教師を選びました。師匠の厩舎にいた牝馬
ハチアジカワ(年丘)が引退の際美馬武雄の斡旋で増本牧場に行き、同牧場の
基礎牝馬になって孫にテイトオーが出ました。    
 



帰国時に  投稿者:ふてき  投稿日: 3月 3日(金)23時59分52秒   

一緒だった馬の中にあのイレネーがいましたか。
生への強い執着を感じさせる逸話といいますか、後の種馬としての
大成功を予感させるに十分なエピソードではありますね。

しかし続氏、明治30年代の公認函館競馬に既に騎乗していたとなると、
生涯騎乗成績編纂作業をする上で影響が出てくるでしょうね。
この辺、LBさんは把握済みなのでしょうか。。。

ところで全然関係ない話ですが、大久保福松師と大久保房松師ってどういう
血縁関係にあったかご存知でしょうか?
野平祐二師と野平好男師、美馬家と増本家の関係なども、もしご存知でしたら。。。 
http://homepage1.nifty.com/futeki/FAMILY.txt
   
 


続少年騎手  投稿者:通りすがり  投稿日: 3月 3日(金)19時57分2秒   

『馬の世界』昭和13年2月号「下総御料牧場に於ける競走馬の三大母系に就て」は
私が知る続秀太郎氏の最後の文章ですが、例によって自慢話が書いてある中に

私も郷里函館の中学校を明治三十八年三月卒業して札幌の農学校の実習科に一ヶ年
許り遊び明治三十九年四月東京早稲田大学の予科に入校したのであるが、丁度その
時分に東京の競馬と云ふものが初まり出し、私も郷里に居った頃から(私は小学校
高等二年の十三歳の時より競馬に騎乗し中学校一年生時代より卒業迄函館の競馬に
騎乗せり)競馬に騎乗して居った関係上・・・

明治30年代の尋常小学校は4年制なので高等科2年は今の小学6年生、13歳は
数え年ですね。その時は亀田あたりの草競馬にでも乗ったのでしょうか。しかし、
中学時代を通じて函館競馬に騎乗となると、その頃函館競馬会は社団法人になって
いますから、公認競馬に騎乗していたということになります。

明治43年に馬政局の購買馬を護送して帰国した時の話も書かれていて、大種牡馬
になったたイレネーは灼熱のインド洋で水をがぶ飲みするので骨が折れたとか。