2006年10月




ばんえい  投稿者:ふてき  投稿日:10月31日(火)20時02分34秒   

時代の趨勢とは言え、残念ですね。
自分は10年以上前に何度か岩見沢に行っただけのニワカファンなんで、
多くを語るべきではないかもしれませんが。。。

他の地方競馬もそうですけど、日本の場合は「廃止か存続の二者択一」なのがツライっすね。
南米のように、何年かは中断するけど、そのうち誰かが助けてくれるのをひたすら待つ
みたいな選択肢が無いですもんね。
まぁ、仕組みが違うんだから単純比較すべきじゃないんでしょうけど。    
 



関係はわかりませんが  投稿者:通りすがり  投稿日:10月31日(火)00時44分41秒   

政治家の坂東氏は武田惣角の英名録にも名前が出てくるようですね。
合気道の達人だったとか。晩年は旭川市長を務めたみたいですが、
旭川市長から代議士になって村山内閣で官房長官だった五十嵐広三
氏の父上が道央の運送業のボスで、ばんえい競馬の父なんですよね。
来年から旭川と北見のばんえいがなくなるのは確定、ひょっとして
全廃の恐れもあるというのは淋しいことです。    
 



坂東幸太郎氏とは  投稿者:ふてき  投稿日:10月30日(月)23時37分15秒   

政治家の坂東氏のことですかね。
角太氏とは血縁があったのですかな。

坂東事件の収拾にあたり、裏で競馬会は関係者に対し「何をどう」したんでしょうね。
少なくとも善意の第三者である小島氏に対しては何がしかの補償を
行ったのだろうとは推測できますが、被告側の厩務員や馬主には一体
どんな対応をしたものか、と。    
 



日本版カライ  投稿者:通りすがり  投稿日:10月30日(月)22時03分19秒   

というほどでもありませんが坂東角太という人物がいました。
明治9年生まれで馬券黙許時代に札幌を中心に騎乗し、競馬法
施行後は馬主になって大正13年函館の帝室御賞典をタケゾノ
で拝受しましたが、文盲のため騙されて御賞典のカップを詐取
され、昭和16年に坂東事件と呼ばれる訴訟を起こしました。

この人が昭和9年春の札幌で乗っているのです。坂東幸太郎氏
所有の7歳牡馬エバートツプで騎乗速歩に出場し3戦しました
が全部着外。この馬はこの季しか出ていないので北海道の地方
競馬を走ってたものと思われ、坂東騎手も地方では更に後まで
乗っていたかもしれません。繋駕ならもっと年長の騎手がいた
でしょうし、福山には昭和50年代に還暦を過ぎた津曲騎手が
いましたが、公認~国営~中央競馬の騎乗騎手としてはこの人
が歴代最年長だろうと思います。  
 



Gambia  投稿者:ふてき  投稿日:10月26日(木)00時15分33秒   

素性は全くわからないのですが、雰囲気からしてタゴール系でしょうか(笑)

BBR誌に出ている中東欧競馬大会の記事からブルガリア関係をピックアップしてみます。

1962年にブルガリアは初参加した。ブルガリアのサラブレッド生産はその数年前に
始まったばかりで、ソビエト、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ルーマニアから
輸入された繁殖牝馬が約100頭存在する。
1973年にはソフィアからワルシャワへ向かう列車内に11日間缶詰となり
全馬が感冒に。出走かなわず。
1976年の社会主義国ダービー馬 Scibor(POL) は種牡馬としてブルガリアに向かった。
大体こんなとこでしょうか。
参加はしているという事実だけで、出走馬の名前すら一切触れられてませんね。
まぁ毎年毎年、五輪精神を地で行く成績だったようですから。

#1972年大会にモンゴルが参加って書かれてますが、これは一体!?

#老人ホームの広告は初めて見ました。折角なんで残しておきますか。一回限りで。 
http://www.pedigreequery.com/scibor
   
 


ブルガリアですが  投稿者:wilde katze  投稿日:10月25日(水)21時57分1秒   

旧東独時代の競馬新聞はRennkurierなんですが、その新聞で
旧社会主義圏持ち回り大会のときに、ブルガリアからの
参加馬は馬柱に過去の競走成績が記されてないんですよね。

1979年ベルリン開催に出場したGambia(牝。Giazint-Mafija)は
別記事でその年のダービーとコメントがあるんですけどね

なんでだろ?    
 



老人ホーム情報サイト「らるろーご」がリニューアルしました!  投稿者:らるろーご  投稿日:10月25日(水)17時05分38秒   

管理人様、掲示板をお借りします。
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赤石騎手  投稿者:ふてき  投稿日:10月25日(水)08時27分58秒   

なるほど。
残念ですが、ありがちな話ではありますね。
時代も時代ですし、ある程度は致し方なかったのですかな。

ベイヤーレジェンドステークス、詳細感謝です。のちほど修正を。
ブラジルでもQH生産があるんで、そっちの活躍馬はどうなのか、
と思ったんですが、ちと調べがつきませんでした。
ブラジルで面白いのは正式な競馬場での実戦デビュー前に各地の牧場で
4頭立てのタイムトライアルみたいなことをやるんですね。
16頭くらい集めて予選、そして決勝、みたいな形式で。
400~800位の直線をセパレートしてやるんですが、この結果が案外
重視されてるようなんですね。もちろん成績書やスタッドブックの競走成績には
記載されないんですが、繁殖カタログやスタリオンブックではGレース並みの
扱いだったりする感じで。デビュー後はさっぱりの馬でも、能検みたいなこの
レースを勝っていればそれだけで十分種牡馬の資格があるよ、みたいな。    
 



帰国子女については  投稿者:通りすがり  投稿日:10月25日(水)02時36分43秒   

 重大な疑惑が発生しております。帰国時のインタビュー記事によれば彼は
1914年春独ハンブルクと仏シャンティーで乗り7月帰墺、1926年
春独デュッセルドルフで乗り4月帰墺のはずなんですが、仏成績書はない
のですが独成績書を調べると名前が出てきません。トール・アカイシと名
乗ったそうですがトールでもツトムでもアカイシでもアカシでもいない。
本拠地の方もJRAには1924年の墺成績書と1926年の洪成績書が
あるのですが、どちらにも彼の名前は出てこないのです。

すべてがホラ話とは思いたくありませんが、キャリアの大半は調教助手の
ようなものだったのではと考えざるを得ない気がします。アイザックス氏
に所持する契約書や免状を見せて日本の騎手免許を得たそうなので、欧州
でも騎手の免許を持っていたことは間違いないでしょうけど。    
 



Bayer Legend Stakes は  投稿者:通りすがり  投稿日:10月25日(水)02時15分20秒   

1997年11月1日ロスアラミトスで行われた3歳の400ヤード戦ですが
1着賞金は6,875ドル。このあたりが代表産駒の1頭ということになると
レベルは推して知るべしですね。タイムは19秒920、QHの場合はゲート
開扉から計測するので、ローリングスタートなら19秒そこそこでしょうか。

とはいえこの手の種牡馬に需要があり、ブラジルでも結構な産駒を出している
というのは羨ましい。日本ではアラ系の生産が似たようなポジションを与えて
くれてたわけなんですが。サイト主のブログのマジカルマイルの話でした。    
 



ブルガリアの牧場だ!  投稿者:ふてき  投稿日:10月21日(土)23時00分37秒   

ヨルダン産アラブに混じってブルガリア産アラブが一頭いますね。
専門家じゃないんで体形診断は出来んのですが、まぁ理屈抜きに
可愛いっすね、エリプサ。

サラブレッドは皆ポーランドからの輸入馬ですね。
上2頭は前にkatzeさんが仰ってた仔馬と母馬のセット輸入のパターンですかな。

イースタンブルガリアンという品種は初耳でした。
二代父 Grafolog って、この露サラじゃないかと思うんですけどね。。。 
http://www.pedigreequery.com/grafolog
   
 


(無題)  投稿者:wilde katze  投稿日:10月21日(土)22時07分48秒   

最近、Karen Hausteinという新調教師について
調べたら、馬主がリンク先のおそらく情報系の会社だと
思うのですが、上記調教師に10頭足らず預けてた。

このサイトに載ってる馬はドイツでは登録されてないものですが 
http://horses.litexjsc.com/
   
 


帰国子女  投稿者:ふてき  投稿日:10月20日(金)23時39分40秒   

とも言えない歳でしょうし。
向うにいた時はキンツェムの孫、ひ孫あたりにも乗ったことがあったんでしょうかねぇ。

#孔は「つとむ」と読むようですね。

ロシアなんかは近年になって随分と著名な種馬(米国や西欧の)が導入されてる
ようですが、ブルガリアなんて完全に取り残されてるんでしょうね。
今では開催規模、レベルともに草競馬級なのかしらん。。。

#そういやタイムリーな事に今週末はオーストリアで中欧BCがあるのでした。    
 


Istanbul Kosusu は  投稿者:通りすがり  投稿日:10月20日(金)21時33分51秒   

1990年と1991年だけ Istanbul Enternasyonal Kosusu として
行われました。91年の勝馬は Devir です。 Kosusu (競走)の最初
の s は下にヒゲのあるトルコ文字なんで発音はコシュースですかね。

トプカプの方はもともとアラブのレースで1991年にサラブレッド化
されると同時に国際レースになってます。ブルガリアから馬を呼んだの
はトルコ国内の病気で西欧から呼べなかったからですね。

ハンガリーと言えば赤石孔騎手ですが、少年の頃渡欧して中年になって
帰国した心境ってちょっと想像がつきません。    
 



カライ近影?  投稿者:ふてき  投稿日:10月20日(金)20時51分57秒   

サムネイルクリックで大きな写真が見れますが、さすがに若いですね。
腕なんか見るとまさしく現役騎手のそれ(当然だ!)じゃないですか。 
http://www.jakosporthirado.hu/index.php?inc=hireink&id=1066
   
 


トルコの競馬  投稿者:ふてき  投稿日:10月20日(金)20時49分37秒   

スクラップ引っ張り出してきました。全部記載がありましたね。
何度か読み返してたんですが、すっかり記憶が飛んでおりました。

イスタンブール国際とは現トプカプ競走のことですか。
国際レース史の中では99年に唯一ブルガリアが参加してるのが興味をそそられます。
ユーゴの参加は最初の3年だけなんですね。
BBR誌(LBさんのコピー)を見るとカライは79、80、81年と
ユーゴのリーディングを獲ってますね。それもダントツの成績で。
いくら騎乗数が少ないっつっても勝率5割超はなかなかできませんて(笑)
資料が無いので推測ですが、恐らくは82年以降もカライの天下だったのかと。

薬物違反どうなんすかね。南米競馬フォロワーは毎週のように開業停止処分の
ニュースを見せられてますから、「こんなの一般紙の一面使って報じることかよ」
なんて思ってしまうわけですが(感覚麻痺)    
 



その馬ですね。  投稿者:通りすがり  投稿日:10月20日(金)00時03分51秒   

1990年9月30日に56.5kで1600m1分36秒52。
2着に1馬身差で Gizmo、更に1馬身差で4歳60kの Devir が3着。
3歳と古馬の斤量差は凱旋門賞と同じですね。あっちは今スゴイことに。    
 



米国追放の経緯  投稿者:ふてき  投稿日:10月19日(木)21時45分30秒   

サラブレッドタイムズの記事で触れられてますね。
http://www.thoroughbredtimes.com/todaysnews/newsview.asp?recno=67265&subsec=1

国を飛び出したのはハンガリー動乱の後、ということですかな。
ソビエトへの反発、アメリカへの傾倒ですね。わかりやすいです。
しかし17歳と67歳でダービー制覇ってのは古今東西空前絶後では。

Magrana はこの馬ですか?
http://www.pedigreequery.com/magrana

ついでにカライが1966年のケンタッキーダービーで騎乗した馬の血統
http://www.pedigreequery.com/quinta2
結果は*カウアイキングの12着だったようで。    
 



追悼ポール・カライ  投稿者:通りすがり  投稿日:10月19日(木)21時21分27秒   

「私が居るべき場所はアメリカだ」と言い続けてたんですよね。本人は無実を
主張してましたが1980年代にミッドアトランティック地区を襲った大規模
八百長事件に連座してアメリカでの免許を失ったと記憶してます。

トルコで行われた最初の国際レースは1990年のイスタンブール国際ですが
それを勝ったユーゴスラヴィア代表 Magrana の鞍上がカライでした。    
 



なるほど  投稿者:ふてき  投稿日:10月16日(月)07時47分30秒   

辻褄が合いますね。コッフェーの足跡。

しかし仮に、ここでプリンスチャーリーが大敗続きだったりしたら
遠征計画自体に「待った」がかかっていたのかもしれません。
そう言う意味では大いに意義のある遠征だったのでしょう。

#もしかして本邦調教馬による初の海外遠征ですか、これは?    
 



↓  投稿者:通りすがり  投稿日:10月16日(月)00時36分13秒   

第一流じゃなくて「第二流」です。    
 



今気がつきました。  投稿者:通りすがり  投稿日:10月16日(月)00時34分29秒   

浦塩にて本月開催したる春季競馬に於て連日連勝を以て一等賞を得たる名馬は
日本選出のプリンスチヤーレ号にして同馬は神戸在留英人ダウン氏の持馬にて
我邦では第一流に位せり(馬匹世界第18号、明治42年5月20日)

明治41年秋に来日したコッフェーが翌年春の競馬に姿を見せなかった原因は
これですね。プリンスチヤーリーと共にウラジオストクへ渡ったに違いありま
せん。9月の日露大競馬会に向けて敵情視察の意味もあったでしょう。    
 



登録しました  投稿者:ふてき  投稿日:10月 8日(日)23時04分59秒   

http://www.pedigreequery.com/the+count7
おまけにコロニアル一家なんですね、牝系が。
とは言えこの Contessa の系統は近年でも Shogun Lodge(AUS) 始め
多数の活躍馬が出ているようです。
http://www.pedigreequery.com/shogun+lodge

すっかりロートルと化した最下級サラブレッドを船に缶詰にして運んできて、
それでも到着するや直ぐに「怪物」と呼ばれた国内最強馬を倒しちゃうんですから
まぁ何をか言わんや、ですね。
血統的には父 Chesham が名馬 Chester の弟で、姪にシドニーカップを制した
Noreen がいるなど決して最下級のソレでは無いと思いますが。
http://www.pedigreequery.com/chester
http://www.pedigreequery.com/noreen3    
 



下の血統で面白いのは  投稿者:通りすがり  投稿日:10月 8日(日)22時19分30秒   

デルマには書いてありませんが、コンテッサの祖母の父サテライトが
アラブだという点です。昔の豪州にアングロアラブなどという概念は
ありませんし、サラブレッド血統書に登載されているのでサテライト
の子孫はサラブレッドなんですが、今の日本式に考えるとコンテッサ
には12.5%のアラブ血量があることになります。    
 



The Count は  投稿者:通りすがり  投稿日:10月 8日(日)22時14分2秒   

日本で走った最初のサラブレッドじゃないかと思うんですが、私の推理が
正しければ来日時10歳なので、力が衰えるのは仕方がないかと。呼馬の
場合、豪州での競走名と違えば The Crown (late Truth) のように番組に
書かれますので、The Count が豪州でも同名で走っていたとすると、該当
するのはタスマニアで障害を走っていた馬でして、サラブレッドとしては
最低辺に位置したと考えて差し支えないかと思います。
The Count, b.g.1890
父 Chesham, ch.h.1883 (grand+flaneur - lady+chester)
母 contessa4    
 



The Count が  投稿者:ふてき  投稿日:10月 8日(日)10時20分54秒   

Mira に土をつけたのは明治33年秋のことですか。
ただし翌年は(少なくとも)二度後塵を拝してるのですね。

主な対戦成績
               (1着)     (2着)      (3着)
明33春横浜ダービー     :ミラー     タツタ       パイバー
明33秋ジャパンセントレジャー:ミラー     ピーコック
明34春プリーデハラー    :トーブ     ゼ・カウント    フヲーリー
明34春横浜ダービー     :ホウフィンチ  ゼ・クラウン
明34秋プリーデハラー    :ゼ・クラウン  ミラー       ゼ・カウント
明34秋三鞭挑戦賞盃     :フヲーリー   オジョウサマ    ゼ・オーブ
明34秋ジャパンセントレジャー:ホウフィンチ  ミラー       ゼ・カウント
明35春三鞭挑戦賞盃     :フヲーリー
明35春横浜ダービー     :ゼ・クラウン  サイケウ      ホウフィンチ

#日本産はピーコック、サイケウ、タツタ。他は全て濠州産。

ミラー以降次々とレベルの高い外国産馬が導入されたと言う事ですか。
ただまぁ幸か不幸か牡馬に関しては去勢済みがほとんどで馬産に影響を
及ぼす馬は少なかったですね。

マレーシアでも細々と軽種馬生産が続いているようですが、さすがに
馬産馬が当時の日本に入ってたりはしないんでしょうね。    
 



所で  投稿者:通りすがり  投稿日:10月 8日(日)04時57分30秒   

斯界の熱心家なる彼の有名なグブリウーチル氏が、並の抽籤馬では
到底ミラーを破ることが出来ないと観て取り、特に人を豪州に遣は
して、購ひ得たのが有名な駿足カウントで、流石のミラーも之には
一等を輸するの止むなきに至った。後チル氏は三千円でミラーの持
主にカウントを譲り、更にカウンを破るべき逸物を求める為に、人
を新嘉坡に遣はしたが、未だ捜索中に不幸病を得て帰国してしまつ
た。(競馬世界第5号)

日本レース倶楽部の豪州産抽籤馬輸入は明治32年秋、33年春、
34年春以降毎季行われましたが、33年秋も馬は注文していて、
それがシンガポールで足止めされて輸入できなかったと英字新聞の
記事にありました。上記のW・ティル氏がシンガポールで優駿を捜
させたという記述と合わせて考えると、昔の日本にはシンガポール
で走っていた馬も輸入されてたような気がします。    
 



どうもどうもどうも  投稿者:ふてき  投稿日:10月 5日(木)07時10分54秒   

流れとしてはこんな感じでしょうか。

1832年 ハンガリー血統書(1812~32年分)刊行 by Count Thomas Nadasdy 7冊現存。
1847年 ドイツ血統書に合一(南ドイツの部)
1865年 ハンガリー血統書刊行 by Charles de Berczy
1867年 オーストリア血統書に合一 by Major Otto Mayer
1878年 二重帝国血統書刊行 by Austrian Jockey Club
    二重帝国血統書第六巻~第十六巻刊行 by A.J.C. & H.J.C. 独語洪語併記。
1921年 ハンガリー血統書刊行
    至現在

JRAが外国語馬名の英語表記を変更したのは昭和57年8月でしたか。
リードホーユーが命名されたのはその前年のことだったのですかな。    
 



明らかに  投稿者:wilde katze  投稿日:10月 5日(木)00時39分48秒   

僕の読解力不足でした。スンマセン

あとノーマンスタイルもBenazet-R三着と種牡馬ランクの
とこには、父マラケートと書かれてますね

二重(王国)にスマンでした    
 



各位に  投稿者:Lucky Boy  投稿日:10月 4日(水)20時55分29秒     編集済  

すみません説明不足でした。Count Thomas Nadasdy の血統書は1832年刊行本のみで、
この版が7冊現存しているということです。


墺&洪の統一血統書は6巻以降は、ドイツ語版とハンガリー語版が刊行されたわけではなく、
一冊に二ヶ国語をカバーしているということですか。
フォローありがとうどざいます。    
 



おっ、先生だ  投稿者:wilde katze  投稿日:10月 4日(水)19時12分37秒   

>ハンガリーが二重王国という同君連合の形で一応の独立とした際、
>ボヘミアでは三重王国として独立するべきとの運動が起きたそうですが

>オーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、
>チェコ人をロシア主導の汎スラブ主義に接近させることになった(Wikipedia)

こういう気運が高まったことを考えると、国民は
ドイツ派も合わせ、てんやわんや(死語)だったんでしょうね。

初期のハンガリー血統書が七冊あったことで、驚くのは
ドイツ血統書に記されてる馬の数って本当に少ないので
南ドイツ項目で1812から1847年までの馬頭数を単純に
七で割ると、かなり薄っぺらい本になるんですよね。
Count Thomas Nadasdy はマメだ。    
 



二重帝国血統書第1巻は  投稿者:通りすがり  投稿日:10月 4日(水)18時49分24秒   

内容を見ると輸入馬についてGSBの当該巻を指定しているのは当然として
内国産馬についてはドイツ血統書の第何巻第何頁と書いていますから、現行
ハンガリー血統書の淵源は1847年のドイツ血統書発行に遡ると思います。
初期には別の系統の血統書もあって当然ですけどね。
戦前にはカナダ血統書なんてのもありました。カナダ産馬はすべてアメリカ
血統書がカバーしてるんですけど。

二重帝国血統書は第6巻以後1つのページを左右に割って同じ事柄を
左はドイツ語、右はハンガリー語で記していますね。    
 



(無題)  投稿者:wilde katze  投稿日:10月 4日(水)17時37分55秒   

Album des...は毎年シーズン終わって出版される写真付豪華本で
確か1920年代位から出版されてると思う。勿論、その一年に
起こったこととかも書かれております。なんせ写真が多く
見てるだけでもいい暇つぶしになる。いつか全巻揃えようと
思ってるんだけど、なかなかお金がね・・・・
子供に服とか買わなきゃなんないしwwwww

なお年四回位出版される『Vollblut』誌ってのもあって、
まぁ、こっちも写真多いので、どっちか購入すれば
その年の活躍馬は押さえられます。
アルバムのほうは70年代終わり位から、その年のリステン以上の
成績なんかも記載されて、そこには父Manadoと記されておりました。

公式の記録本としては公式の全成績を知りたければRennkalenderがあり、
スタットブックはAllgemeines deutsches Gestuetbuch fuer Vollblutですね    
 



(無題)  投稿者:Lucky Boy  投稿日:10月 4日(水)17時21分13秒     編集済  

wilde katze さん、たいへんご無沙汰しております。

過去における生産国の確定は難しい問題ですね。
オーストラリア帝国内の生産地はハンガリーとチェコについては区分する必要がありますが、
スロバキアはハンガリーに含むのが妥当といったところでしょうか。
スロバキアは20世紀まで独自の国を持ったことがないですから。
オーストラリア帝国内に、ボヘミア(チェコ)王位やハンガリー王位が存在していたわけで、
もちろん独自の王国議会も存在していますた。
まぁドイツ連邦結成時にボヘミアは含まれて、ハンガリーは含まれないという、
なかなか複雑な歴史もあります(^-^)
ハンガリーが二重王国という同君連合の形で一応の独立とした際、
ボヘミアでは三重王国として独立するべきとの運動が起きたそうですが、
この時に三重王国が成立していれば、
今になって生産国について悩むことも無かっただろうに(^-^)

ハンガリーで初めて血統書が刊行されたのは、二重王国が成立する前の1832年のこと。
Count Thomas Nadasdy によって出版され、1812年からの生産馬と輸入馬が記録されているそうです。この血統書は7冊ほどしか現存していなく貴重本とのこと。
この血統書は続巻されず、ハンガリー産馬はドイツ血統書に記載されました。
1865年に第6代ハンガリーJC会長のCharles de Berczy は独自にハンガリー血統書を
刊行しましたが、1867年には Major Otto Mayer によってハンガリーの血統書は
オーストラリア血統書と合一されてしまいました。
1878年にオーストリアJCが公式のオーストリア・ハンガリー血統書を刊行。
第6巻からはハンガリーJCと共同で刊行されることになり、ドイツ語版とハンガリー語版が
刊行され、それは第16巻まで続きました。
で、1921年にハンガリー血統書が刊行されて現在に至ります。  
 



Ostermann Pokal を勝った  投稿者:通りすがり  投稿日:10月 4日(水)11時36分31秒   

ノーマンスタイルなら父マラケートで間違いありません。

JRAの表記だとリードホーユーは Lead Hoyu です。    
 



では  投稿者:ふてき  投稿日:10月 4日(水)08時34分12秒   

こっちはどうですか。巨大PDFです。真ん中辺にあります。
Album des deutschen rennsports は記録本ですか?
諸説入りみだれてきました。真相はいかに。
しかし*マラケートと*マナードをごっちゃにするなんてのは
一昔前の日本の血統ヲタの所業のようで。 
http://www.tattersalls.ie/sales/dec2005/dec2005.pdf
   
 


(無題)  投稿者:wilde katze  投稿日:10月 4日(水)08時15分14秒   

なぜかキーンランドのファイルが開かない。
Norman Style父はどうもManadoのようですね、
Album des deutschen rennsportsによると    
 



ついでに  投稿者:ふてき  投稿日:10月 4日(水)07時15分5秒   

日曜パナマで行われた6FのG3戦を制した Tangodancer(PAN) が
12月にプエルトリコで行われるカリブ国際のアンダーカード(ベロシダー賞)に
出走するようです。 
http://www.pedigreequery.com/tangodancer
   
 


マジャール土着牝系  投稿者:ふてき  投稿日:10月 4日(水)06時51分46秒   

途中でダービー馬を1頭出しているようですが、他にもコンスタントに活躍馬を
出してたんですかね。情報不足でアレですが、まぁよく続いてたという印象ですね。
今では旧ユーゴとかそっち方面にも拡散してるようで。

Norman Style は英国からドイツへ渡ってリステッドを勝ったという感じですか。
http://www.keeneland.com/sales/sep06/pdfs/4704.pdf
流れ流れてハンガリー。

ラッキーデボネア系はもう駄目ですかね。
Pepenador のアルゼンチン仔は米国へ戻ったのやチリに行ったのもいたようですが。。
ペリェグリニ馬 Regidor(ARG) の失敗が致命的でしたかな。
まぁそもそもが不人気系統で、産駒もずぶいステイヤーしか出ないんじゃ
系統自体が傾くのもあっという間で。。。

#リードホーユーって Lead Hoyu(JPN) なんすか!
http://www.pedigreequery.com/lead+hoyu    
 



惜乎子不遇時  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:10月 3日(火)18時43分1秒   

デルマを信じるなら、以前ここでも出た南アフリカの英雄 Pamphlet の半姉 Csalfanna(f)
から80年続いたハンガリー牝系で、父は *ホワイトマズルの叔父ですか。
オタク的には言うことなしなんですが、ちょっと時代が悪すぎたような気がします。。。

Blandford を経ない Swynford 系そのものが、Pepenador の後継が絶えれば終わり、
21世紀まで存続しているかどうかかなり怪しいですね。

神よ哀れマジャールに 加護を与え賜え 敵と闘う時あらば 悪運多きこの民に
救いの御手を延べ賜え、 苛み既に長くして 三世の罪を償えば
(無断転載 (^^;) 
http://www.hu.emb-japan.go.jp/jpn/nikokukan/gaikyo-siryo.htm
   
 


ペンドラゴン  投稿者:ふてき  投稿日:10月 2日(月)20時37分6秒   

メールラインどうなんですかね。
グルのところでも続きの情報は無いですし、ネットで調べた限りでは
手掛かりらしきものは得られず、で。
ブログで種牡馬一覧作った時はその直系は出てこなかったんですが、
あれは絶対的なリストじゃないでしょうから。
特にハンガリーのような馬文化の裾野が広そうな国だと、平地用種馬の
ラインナップから一旦外れても、健在でいたならひょんな事から復活する目も
無くは無いのかもしれませぬし。

「世界の競馬と生産」は古い本なんです。注釈入れず、すいませんでした。
オイロパ賞で旧共産圏の馬が活躍できなくなったのも80年代からですか。
逆に英・愛・仏の遠征馬が目立ち出すという。

ホルティの肩書きは傑作ですね。
引っかけ問題
「長野県に漁師はいる?いない?」
「諏訪湖畔に多数いる。」
を思い出しました。

競馬wikiの血統関連、歴史関連項目は殿下の労作ですよね。
一般歴史の方にも手を染めていらっしゃるのですか。 
http://futeki.moe-nifty.com/blog/2006/07/post_5078.html
   
 


(無題)  投稿者:wilde katze  投稿日:10月 2日(月)05時21分5秒   

キシュベル牧場開設は1853年ですね。訂正

>ここ↓には「1832年に最初のスタッドブックが~」と書かれていて、
>流石に伝統国は歴史があるな、とか思ったのですが

これはどの牧場のどの種の馬のスタッドブックなんだろうね。
その当時の南ドイツのサラブレットの数は大して多くないだろうし

>チェコスロバキアには、馬の長い歴史がある。数多くの貴族がそれに影響を与えた。

グラフ・フーゴ・ヘンケルも貴族の超大物馬主ですよね

世界の競馬と生産 は1978年出版ですか。その頃ならまだ旧共産国の馬もクオリティー
高いと思われてたのかな。80年代からなんか差がついた印象ありますね

そういやハンガリーの1990年のダービー馬の
メールラインってのは、未だ健在なんですか? 
http://www.pedigreequery.com/pendragon2
   
 


トリアノンの屈辱  投稿者:有芝まはる(ry  投稿日:10月 1日(日)11時02分10秒   

ハンガリーってのは、結局第一次大戦後に領土が4分の1くらいになって
いるのですよね。勿論その中にはクロアチアやスロヴァキアのように、明
らかに異民族(要はマジャール人じゃなくてスラヴ人)がマジョリティを
占める版図も含まれてた訳ですが、一方でトランシルヴァニア辺りは結構
マジャールも多くて微妙なところ。
ただ、同様な失地をトルコも経験している一方で、あっちはケマルという
(明治天皇かぶれの)偉大な革命家がギリシャ辺りを駆逐して、かなりの
失地を回復して現在に至ってることを思うと、例えばこの時期の独裁者で
あったハンガリーのホルティ・ミクローシュ辺りがもうちょっと気合入っ
た人物で、終戦後間もないうちに自力でクロアチア辺りを回復してたら、
今の歴史はどれくらい変わったんだろうか、想像もつかない部分はあった
りします。
因みにホルティはもともと海軍提督で二重帝国のハンガリー摂政を僭称し
たのですが、海のない国で存在しない皇帝の摂政と言うのは、ある意味面
白すぎる所はあります。

って、全然競馬の話にならなかった(笑)。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A
   
 


世界の競馬と生産  投稿者:ふてき  投稿日:10月 1日(日)09時24分49秒   

より無断引用。
「チェコスロバキアには、馬の長い歴史がある。数多くの貴族がそれに影響を与えた。
その中には、すでにあげたキシュベールの生産者であり、馬主でもあるアリスティーデ・
バルタッツィがいる。バルタッツィは、モラビアに、現在、国営牧場となっている
ナパジェドラ牧場を創設した。そこには英国、アイルランド、フランス、ドイツ及び
ハンガリーの各国産の繁殖用馬の輸入の結果、すぐれた馬を生産した。ナパジェドラ牧場は、
オーストリアやハンガリーのダービーに優勝した上に、チェコスロバキアの最重要選択
レースであるチェコスロバキア・ダービーに30回以上優勝した。第2次大戦は、そのほかの
国におこったような影響をチェコスロバキアの生産界に与えなかった。そのため、
社会主義体制下にも拘わらず、サラブレッド生産は発展し続け、好結果をあげていた。
現在、数多くの牧場がスロバキアやモラビアにあり、良血統の繁殖牝馬がいるため、
これらの牧場はすぐれた馬を生産し続けている。」  
 



現在の  投稿者:ふてき  投稿日:10月 1日(日)07時15分34秒   

ウクライナやらルーマニア、クロアチアの一部まで含まれるってことですか。

第一次大戦前までのハンガリー産サラブレッドは英国産を超えて当時世界一だったのだろう
と山野師が書いてましたね。
騎馬民族として培った長い歴史が名馬量産の背景として考えられる、とか。

ここ↓には「1832年に最初のスタッドブックが~」と書かれていて、
流石に伝統国は歴史があるな、とか思ったのですが 
http://www.angolteliver.hu/FEZ2001_Pictures.htm