2007年12月、11月、10月




騎手の収入  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年11月19日(月)19時31分26秒    返信・引用  

これは興味深い記事ですね。
免許状発行料10円ははちょいと高い気がします。
これで弟子を抱えずに個人で業をなしていれば、
騎手だけで資産が溜まるというのも納得です。
逆に弟子を抱えて厩舎経営とするとなると、
また状況も違うのでしょう。    
 



堀越の収入はどれくらいかと  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年11月18日(日)01時34分49秒    返信・引用  

思ったところJRA図書室に明治39年の河北新報と思われる切り抜き
があり、「横浜根岸競馬談」という記事の「騎手と馬丁」という項目に

騎手は二十歳より卅一二歳位までが馬を操縦するに尤も適当したる年齢
なるべく騎手は一競馬毎に金十円を倶楽部に支払ひて証明書即ち騎手の
免許状を得るものなるものなりと給料は各馬主即ち雇主より月々支給す
其額は一ヶ月二十円乃至五十円位にて勝利を得れば賞金の一割を受くる
例なりと又馬丁の給料は十二円位にて是亦勝利を得ば賞典の高に応じて
二十円なり三十円なり雇主より祝儀として出すといふ

夏目漱石の『坊ちゃん』は明治20年代の経験から書かれた小説ですが
物価は30年代末にスライドさせてあると考えられ街鉄(後の都電)の
技手の月給26円とありますから騎手は進上金の分だけ高収入ですね。    
 



マンボウ氏は  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年11月11日(日)01時40分58秒    返信・引用  

大正5年の時点で基弘と喜平の両方の名が見えるのですね。
う〜ん、両者が同一人物という可能性が高まったということでしょうか。
基弘と喜平のどちらかが代々の継承名というのも考えられますが、
継承名は通称のケースが多いことを考えると、両方とも諱っぽいですが、
どちらかというと喜平が継承名なのかなぁ。
しかし、基弘と喜平が兄弟で、"マンボウ氏"は兄弟の共同名義という可能性も
捨てきれない気がします。
このマンボウ氏は馬主だったくらいですから、
当時の浜松の名士名鑑などに情報が載っていそうですね。
時間を見て調べてみます。

ちなみにネットで検索したら、現在、浜松市に鈴木基弘さんという方が
ご在住のようです。まさかマンボウ氏の縁者か…まさかね。    
 



マンボウ氏は有名と  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年11月10日(土)16時53分47秒    返信・引用  

書いたのは昭和の話なので、ご指摘の時期以後のマンボウ氏が
鈴木基弘氏であることは間違いありません。東京と横浜の会員
名簿で関連する人物を調べてみますと、マンボウという抽籤馬
を持っていた鈴木品蔵氏から始まるようです。大正初期の名簿
がないのは残念ですが。

明治44 東京 鈴木品蔵 浜名郡蒲村神立二
大5〜6 東京 鈴木基弘 浜名郡蒲村神立二
     横浜 鈴木喜平 浜名郡蒲村神立
大正7年 東京 鈴木基弘 浜名郡蒲村神立二
     横浜 鈴木喜平 浜松市田町マンボー商店
大8〜9 東京 鈴木基弘 浜松市田町
     横浜 鈴木喜平 浜松市田町マンボー商店

喜平と基弘のどちらかが本名で一方は代々の名乗りではないか
と想像しているのですが。なお田町は浜松市の中心市街地で、
今の浜松市神立町はそこから東へ1マイル半ほどですね。    
 



ふむふむ  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年11月10日(土)03時45分20秒    返信・引用  

手元に大正10年の倶楽部会員名簿のコピーがあるので確認しましたが、
東京競馬倶楽部・阪神競馬倶楽部には基弘の名はあり喜平の名はないのですが、
日本レース倶楽部を見ると逆に喜平の名があり基弘の名がありません。
喜平の住所は"静岡県浜松市市田町マンボー商店”、
基弘の住所は"静岡県浜松市市田町1−140”とあるので、
おそらく同所を指しているのでしょう。

大正9年春以降のマンボウ氏=鈴木喜平というのは、
某図書館所蔵の『各倶楽部競馬会成績表』によるものです。
これの日本レース倶楽部分の馬主の項は、番組で仮称名であっても実名が
記されていて、それによればマンボウ氏=鈴木喜平であったのです。

なぜ東京・阪神は基弘で、横浜では喜平なのでしょうね。
そもそもマンボウ氏の呼称が親子で名義利用していたのか、
それとも基弘と喜平は実は同一人物だとか。
また単に、東京・阪神では基弘から喜平への名義変更が遅れていただけなのか。
疑問は残りますね。

東海はそんなに競馬が盛んでしたか。藤枝競馬のイメージがあるので、
なにか東海地方の競馬は寂しい感じを持っていました。
藤枝は競馬スタートから馬券禁止と不運なところがありましたけど。。

栗田勝師が栗田一族出身とは驚きです。
そういえば北海道出身の戦前の騎手は、屯田兵の流れを汲む関係で、
武士の家系の人が多々見受けられます。
内藤精一や木村寛、梶与四松などがそうですね。
武豊騎手の家系などは大隅の名族禰寝氏の分家筋で小松帯刀と同族ですし。    


 

大正9年末現在の  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年11月10日(土)02時16分6秒    返信・引用  

東京競馬倶楽部・阪神競馬倶楽部の会員名簿には鈴木基弘氏の名があり
鈴木喜平氏は見当たらないのですが。代替わりしていたのなら喜平氏が
基弘を襲名した可能性がありますね。三代目中村勝五郎の世界かと。

東海地方は昔から競馬のさかんな所で、武田文吾師の愛弟子栗田勝師は
岡崎競馬を根城にした栗田一族の出身でした。昭和初期の地方競馬では
山本(栗田)金吾と武田文吾が最大のスターで、武田師は西塚十勝師を
相棒に東海から近畿を乗り歩いていました。公認と地方の分離が厳密化
するまでは地方を主戦場にしてたようです。    
 



おそらく息子?  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年11月10日(土)00時24分50秒    返信・引用  編集済  

甚弘でなく基弘でした。間違えたまま思い込んでいました。

僕もマンボウ氏=鈴木基弘と理解していたのですが、
大正9年春の横浜開催以降は、マンボウ氏=鈴木喜平で確認が取れました。
鈴木喜平の住所も浜松なので、おそらくは喜平は基弘の息子で、
どこかでマンボウ氏の名義を継いだと思われます。
残念ながら大正8年の倶楽部会員名簿を馬事文化財団でコピーしてこなかったので、
手元の資料で確認が取れないのですが、
大正8年秋季横浜の速歩競走でマンボウ氏のヲオシユに鈴木喜平が騎乗しているので、
アサヒで帝室御賞典を制した時は、すでにマンボウ氏は鈴木喜平に継がれているのでは?
と思った次第です。一度、確認する必要はありそうです。    
 



浜松のマンボウさんこと  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年11月 9日(金)23時49分23秒    返信・引用  

鈴木基弘氏(甚弘ではないですね)と言えば競馬史では
有名人ですから別人説は成り立たないと思うのですが。    
 



諸々  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年11月 9日(金)19時44分1秒    返信・引用  

美馬勝一は大阪で機上していましたか。調べるほど優秀な騎手だったことが知ることができます。なのに、なんで八百長におぼれてしまったのか…それが当時の騎手と
言えばそれまでですが。
大阪といえば、川田将雅騎手の曽祖父は春木競馬あたりで一日全レース勝利という
記録を作ったとか。記録としては確認は取れていませんが、
川田家では伝説のように言い伝えられているそうです。

中村一雄は、競馬を離れてから色々と転々としたのですね。
ちょうど『調教師の本』の「二本柳俊夫」を読んでいたのですが、
戦後、先行きの分からない競馬界に戻ることは家族の長としてできず、
進駐軍関連の仕事をしていた、とありました。
そのような不安を抱えて、戦後競馬に戻れなかった関係者も多いのでしょう。
ちなみに、以前より疑問であった二本柳勇の死因が書かれていました。
酒で体調を壊しての死亡だったそうです。戦後のことなので、
怪しい酒も横行していたのでは?とも思った次第です。

大正8年秋の横浜で、アサヒで帝室御賞典を受拝したマンボウ氏ですが、
『天皇賞の世紀』では"鈴木甚弘"とあるのですが、
マンボウ氏は"鈴木喜平"のことを指すと思うのですが、如何でしょうか。    
 



早速の記事アップ  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年11月 9日(金)00時50分28秒    返信・引用  

ありがとうございます。堀越は真面目にやってれば第1次競馬全盛時代に
相当な活躍ができたでしょうに惜しいことです。でもまあそれが騎手なの
かも。そういえば美馬勝一は戦後新潟県営競馬に逼塞しましたが、終戦後
しばらくは大阪あたりで結構乗っていたようです。中村一雄は果樹園経営
で成功したようですが、熱海で旅館を経営したという記事を読んだ記憶も
あります。当時の感覚では果樹園の方が競馬なんぞよりよかったのかも。

『馬匹世界』の廃刊は南波検挙が原因なんでしょうね。入れ替わるように
『日本之産馬』が出ましたから助かりますけど、競馬界情報という点では
比較になりませんから残念なことです。余談ですが戦前の女子学習院では
卒業は恥だったそうで、在学中に縁談がまとまるのが良家の証なんだと。    
 



事件2つ  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年11月 8日(木)23時58分42秒    返信・引用  

通りすがりさん、ご返答ありがとうございます。
ミラの主戦騎手ということで、誰からしか堀越騎手のネタに触れていたかなと
思った次第です。

堀越逮捕と南波検挙の記事をアップしました。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ken.ooka/0101.htm

こう見ると、横浜競馬の騎手は羽振りがよかったのですね。
ただ公認競馬になって堀越の名前が見えなかったのは、
競馬界を追放になっていたのですね。
御賞典を受拝したほどの騎手の転落振りが、これまた定番のような落ちぶれかたで
可笑しくもあります。

南波の検挙、通りすがりさんのご指摘のように記事掲載をネタのユスリですね。
調子に乗りすぎて安田伊左衛門まで脅して、結局逮捕。
それにしても財力に反して娘が学習院に通っていたことから
警察に目を付けられたとは。。。    
 



ありがとうございます  投稿者:ふてき  投稿日:2007年11月 8日(木)23時04分31秒    返信・引用  

お元気ですか、民営化さん。超お久しぶりです(よね?)

こちらはあいかわらずの現状にて(苦笑)    
 



突然ですが  投稿者:民営化  投稿日:2007年11月 8日(木)22時12分50秒    返信・引用  

ふてきさん、誕生日おめでとうございます。    
 



ひょっとして  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年11月 8日(木)20時16分52秒    返信・引用  

私への質問ですかな。堀越の件は知りません。何かで読んだ気もしますけど
忘れました。詳細を知りたいところです。

『馬匹世界』は途中から園田実徳氏の御用雑誌になりましたね。池上派攻撃
は凄まじい。園田氏の右腕だった関直彦氏が離反すると今度は関攻撃の嵐。
まあ明治時代の記者ってのは別名羽織ゴロとも呼ばれて、ネタをつかんだら
まずユスリに行って、金を出さなかったら新聞や雑誌に誇張して書くという
のが常道でしたから。    
 



ちょっと質問  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年11月 7日(水)01時50分1秒    返信・引用  

なのですが、明治期の横浜の名牝ミラの主戦騎手であった堀越綾次郎の放火事件は
そこそこ知れた話なのでしょうか?
その顛末の新聞記事を見つけて、これって発見?と
ちょっとニヤリとしてしまったのですが(笑)

後、あわせて雑誌『馬匹世界』の主幹が逮捕、という記事も見つけました。
こちらのほうが有名な事件っぽいかな。  



 
Gペガサスさん  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月31日(水)23時00分1秒    返信・引用  

フォローありがとうございます。
http://www.forgotten-ny.com/NEIGHBORHOODS/morrispark/morrispark.html
自動車レースでも知られていたのかな?

旧盛岡競馬場のモリスパーク縮小コピー説はありえる話かもしれませんね。
アメリカ競馬信奉者?だった一條氏なら、「エプソムに倣って」よりは
遥かに説得力がありそうな気が。

海外の競馬主催者公式サイトをみていると、コンテンツとして「競馬場や
ジョッキークラブの歴史」に力を注いでいるところが多いような気がします。
極小さな競馬場なんかでも、それはそれは誇らしげに書かれていたりして。
翻って。。。以下略    
 



いやいや  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月31日(水)20時19分12秒    返信・引用  

2000ギニーとしてのウイザースとおっしゃってますので・・

今ふと気がついたんですが、ホームストレッチがきつい下り坂に
なっていた旧盛岡競馬場は一條友吉氏の設計と言われています。
バックストレッチの上り坂と合わせてエプソムを手本にしたんだ
と思ってましたが、年代的に同氏はモリスパークを知ってたかも
しれません。モリスパーク時代のベルモントSは over the hill
の外回りコース11ハロンを1周するレースでした。盛岡はその
ミニチュア版だった可能性がありますね。    
 



たぶん  投稿者:Gペガサス  投稿日:2007年10月31日(水)11時59分46秒    返信・引用  

某著名人の方はウイザーズSとドゥワイアS(旧ブルックリンダービー)を混同
なさったのでは?
あと、ウエストチェスター・レーシング・アソシエイション主催のベルモントS
がモーリス・パーク(場所は実はブロンクスでNY市内)で行われたということですよね。    
 



ベルモントSは  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月31日(水)00時28分17秒    返信・引用  

モリスパークですか。

書かれていることを疑う、なんてことは及びもつかなかったですからねぇ、当時は。
「普通のファン」にとっては絶望的に情報が少ない時代でしたから。


#函館大経、かなり輪郭が明らかになってきましたね。    
 



NY公共図書館に  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月30日(火)22時28分30秒    返信・引用  

1895年以来の米国成績書が現存することが判明しました。

近頃アメリカ「旧三冠」なる言葉を某著名人が使っていてネットでもそれを
信用してウイザース〜ベルモント〜ローレンスリアリゼーションを旧三冠と
書いたりする人がいるので、1901年のNYの主な3歳戦を調べてみると

5/23 ウエストチェスター ベルモントS        11f  $5,000
6/13 グレーヴセンド   ブルックリンダービー      12f $10,000
7/ 4 シープスヘッドベイ ローレンスリアリゼーション 13f  $5,500
8/ 1 ブラントンビーチ  ブライトンダービー     12f $10,000
8/10 サラトガ      トラヴァーズS        9f $10,000

ウイザースはたった700ドルで完全なプレップレースでした。今の知識で
昔を推し量ることの恐ろしさというか自己の仮説を真理とみなして垂れ流す
ことの恐ろしさを戒められた気がします。    
 



例の  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月21日(日)23時23分0秒    返信・引用  

ネタ本に出ていましたが、1979年当時のチェコには19もの競馬場で
スティープルチェイスが行われていたとか。
うち最重要なのがブラチスラバ、パルドゥヴィツェ、リサー・ナッド・ラベム、
カルロヴィ・ヴァリの4箇所だそうな。

このレースにはロシアを始めとする東欧諸国からの大挙参加があったりして、
「コンチネンタル・グランド・ナショナル」の異名に違わぬ歴史があったのですね。
ブルガリアの障害馬(ハーフブレッドが多かったよう)も毎年参加してたようですから
かの国にもいい感じのクロカンコースがあった(現存?)のかも知れません。    
 



1度は生で見てみたいレース  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月21日(日)14時20分37秒    返信・引用  

ですけど、毎年凱旋門賞の翌週なんですよね。森の中みたいに見えますが
実は街の真ん中でやってる。都市の規模はどれくらいかな。水戸の偕楽園
とか金沢の兼六園とか、そういう立地が競馬場になってるのは羨ましい。

で、思ったのがメンタリティの違い。ああ跳んでこう跳んで、あっち行き
こっち行きというレースは欧州大陸ではポピュラーですけど、最近出来た
チェルトナムのクロカンコースを唯一の例外として、英愛米豪新といった
アングロサクソン文化圏の障害レースは全部ぐるぐる回りまたは一本道で
襷コースはひとつもない。面白い現象だと思います。    
 



すみません  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月21日(日)07時55分42秒    返信・引用  

ニコニコ動画は見れないんで、一応こっちも貼っときます。

中盤でクロカン風味になる部分が良い味出してますよね。
ちょっとだけポイントトゥポイント?な感じもあったりして。 
http://youtube.com/watch?v=a8ObCD9UvfI
   
 


(無題)  投稿者:無記名者  投稿日:2007年10月20日(土)23時36分26秒    返信・引用  

こういう季節なんですねぇ 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1304917
   
 


情報どうも  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月12日(金)07時37分25秒    返信・引用  

さっそく加筆修正しました。
表示が崩れて見えるようでしたらお知らせください。
使ってるモニタのサイズも以前とは変わってしまったので。。

ハツガロンの話は実に興味深いですね。
制約が多かった時代だと、能力を最大限披露出来ない
不幸な存在もさぞ多かったものと。
しかし戦前の地方、台湾、朝鮮ともなると完全な戦績再現は不可能なんでしょうね。。    
 



なるほどそのとおりですね。  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月12日(金)01時33分11秒    返信・引用  

ノラもアサヒも何をトチ狂ってるんだか。

札幌の件はなにしろ日本一ルーズなクラブですから。
札幌に厳格さを求めるのは八百屋でマグロを求めるが如しで。

ところで戦前は体高制限をやってたので、公認競馬に出られなかった
馬の方が実は強かったということもあったようで、フリツパンシーは
タイホウ、セントライト、クリヒカリ(アルバイト)、トサミドリと
名馬を量産した名牝ですが、実はタイホウとセントライトの間にいる
ハツガロンが一番強かったらしい。セントライトも本当は164cm
を超えてたんじゃないかと言われますが、ハツガロンは5尺7寸とか
でごまかしようもなくアウト。東海地方からアイチハツガロンの名で
羽田に現れたこの馬の強さたるや引っ張りきりで大外を回って楽勝の
連続で、70kgでも無敵だったとか。国内だけでなく台湾や朝鮮も
荒し回ったそうです。    
 



あと  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年10月11日(木)23時37分56秒    返信・引用  

正四郎の父は倉五郎(繁太郎の弟)ですね。
あと、玉谷清人は長男ではなく次男。
長男は玉谷得郎(徳郎)のほうです。
あと、大正7年秋の札幌で稗田利吉という騎手が騎乗免許を所得しています。
利吉は寅伊の弟しょうかね。十七二の父かな?


話は飛びますが、愚痴らせてください。
札幌競馬の資料で困ったものがあります。
札幌の古い番組表には、巻末に出走騎手の通算勝利数一覧が掲載されているのですが、
これが実に信用できない!!
一覧は大正4年秋〜昭和2年秋まで記載されず、昭和3年春からまた掲載されています。
まだ大正4年春以前の一覧は誤差が僅かで許せる範囲なのですが、
昭和3年春より掲載された通算勝利数一覧は、ヒドイの一言です。

明治末・大正期の札幌競馬の成績の整理がある程度済んだので、
昭和3年春の番組表に掲載された一覧(明治41年春〜昭和3年春)をもとに、
過去の札幌勝利騎手を確認しようと作業をしたのですが、
まぁ、リスト漏れの騎手がいるのは許せる範囲。
一番多いのは、集計ミス。
次に困るのは同姓で異なる騎手の勝利数を
一人の成績として纏めてしまうケース。これはヒドイ。
この資料を札幌勝利騎手の確認に使おうとの試みはあえなくクラッシュしました。
最初は、新聞記事や番組表に手書きで残されている成績記録のほうが誤りなのでは?と
思っていたのですが、いやいやそのようなレベルの問題ではありませんでした。
例えば、大久保亀治は大正3年春までに7勝とあります。
確かに“大久保”という騎手は7勝しているのですが、
大正8年に秋に勝利を上げた大久保が、大正10年にデヴューした亀治のわけがありません。
これは房松が正しい。
また上述した稗田利吉の勝利数は、寅伊の勝利数に組み込まれてしまっています。
これはほんのほんの一例です。
公式の競馬成績書(レーシングカレンダー)が残る大正12年以降で確認しても同じ。
杉浦照は一覧では2勝とありますが、大正2年秋の成績書で“杉浦照“の名で札幌で
6勝していることが確認できます。全く勝ち数が一致しないのです。
この一致しない分は、同姓の騎手杉浦精の勝利数に組み込まれています。
一致しない分がどこに組み込まれたかが判明したケースはまだ良いほう。
浅野武志は、一覧には11勝とありますが実際は9勝。
彼の場合は、生涯成績が判明しているので二重の確認をとっています。
差分の3勝はどの騎手に組み込まれてしまったか、確認すらできません。
再度言いますがこのような例はほんの一部なのです!
ここに明言します!札幌競馬番組表巻末の騎手勝利度数表は全く信用できません。


最後に、気が付いた点を。
『天皇賞の世紀』で、大正8年秋横浜のアサヒ、東京のノラの生年は
大正5年とありますが、この2頭は阪神の勝ち馬イダテンと同じ年齢なので、
正しくは大正4年ではないでしょうか?    
 



家系図のことですが  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月11日(木)20時40分24秒    返信・引用  

函館大典氏は大貞氏の弟だそうです。もうお亡くなりになっているとか。
美馬4兄弟のすぐ上の姉は静内の馬産家伊藤繁太郎の妻、繁太郎の甥に正四郎。    
 



なるほどです  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月 9日(火)07時59分13秒    返信・引用  

少なくとも明治期には同父異母を兄弟扱いする慣習が残っていたことになります。
このことは常に頭の片隅に置いていた方がいいでしょうね。

家系図チェック&こぼれ話どうもです。
リアルタイムで洋一騎手の騎乗を見た記憶はさほど無いのですが、
あの落馬事故翌日のスポーツ新聞だけはっきり記憶に残っています。
一面に使われた最大級の活字が衝撃の大きさを物語っていました。
それが今や、祐一騎手が偉大な父の勝ち鞍数に迫っているというのですから
時の流れを感じずにはおれません。    
 



今思い出しました。  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月 9日(火)01時13分20秒    返信・引用  

明治44年のことですが、『日本之産馬』に一條友吉氏が、日本で
父が同じ馬を兄弟と言っているのは間違いだと書いているのです。
するとトラベラーと早風も父が同じというだけかもしれません。    
 



兄妹と書くべきでした。  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月 8日(月)22時25分21秒    返信・引用  

整理が悪くて証拠が出てこないのですが、『牧畜雑誌』という当時の雑誌に
「トラベラ、早風の姉妹」という記述が確かにあったのです。姉妹じゃ両方
牝になっちゃいますけど。
で、この両馬は父母の名が伝えられていませんし豪州産でもありませんから
半血と書かざるを得ないんですが、おそらく下総御料牧場産のサラブレッド
じゃないか、少なくとも父はサラブレッドだろうと推理してます。

ところで何気なく下まで行って本体トップから競馬人の系図を見てました。
福永4兄弟の洋一が次男となってましたが四男ですね。彼は次男の二三雄と
仲がよく毎週日曜夜に新幹線で大井へ行って中央が全休の月曜に調教と競馬
を見てから栗東へ戻っていたようです。肯定はしないでしょうが、調教には
乗ってたんじゃないですかね。他人が週に6日乗るところを7日乗ってたら
上手くなるはずだ・・・と言ってもならない人の方が多いでしょうけど。    
 



大ネタだけに  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月 8日(月)18時14分3秒    返信・引用  

またどこかで進展があることを期待したいものです。

ハヤカゼ(早風)とトラベラーは姉弟(兄妹?)なのですか?
「歩み」連載時はともに血統不詳の半血だったと思うのですが。

トラベラー(1888 牡 栗)宮内省賞典(上野春)-1892、プリーデハラー(横浜春)-1895
ハヤカゼ(1889 牝 栗)プリーデハラー(横浜秋)-1894、プリーデハラー(横浜春)-1896    
 



ブレサーンのデビュー戦は  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月 7日(日)21時17分40秒    返信・引用  

評判の高馬ヒヨシを抜いて大穴を出したわけですが新聞や雑誌でも
血統については何の言及もありません。同じ母から産まれていれば
それこそ評判になっていると思うのですが。それより10年前には
早風とトラベラーの姉弟が有名だったわけですし。
この件は今のところペンディングじゃないかという気がします。    
 



やはり  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年10月 7日(日)12時55分14秒    返信・引用  

そうですか。
父親が同じという意味での半姉妹と理解したようがよいのでしょうかね。
ただ、馬を知っている関係者ならばそういう言い方はしないような気もします。
単に誇大広告なのか、それとも日本で知られる両馬の生年情報も怪しいのか。。。    
 



やはり同い年でした。  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月 5日(金)18時51分47秒    返信・引用  

明治41年春はどちらも6歳、秋は長齢です。    
 



ありがとうございます。  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月 5日(金)00時29分52秒    返信・引用  

これで謎が解けました。その昔タイムズがあったと記憶していて、
さて史料を整理しようと開港資料館で大量コピー作戦をやった時に
見当たらず、明治時代なら開港資料館にない新聞はないはずという
思い込みからおかしいな、勘違いだったかなと諦めていたのです。
さっそく両馬の生年の再確認からやり直してみます。

日露戦争絡みの1万頭はNSW、Q両州で一山いくらで買ったもの
ですが、競走用の抽籤馬は支那馬でも上海競馬で能力を確認済みの
ものですし、豪州産馬の輸入時の年齢も4〜7歳くらいですから、
当然あちらでレースをしていたはずなので、血統はわかっていたん
でしょうね。ただ、明治44年以降の輸入馬には血統の表示があり
ますが、父馬はわかるけれども母馬不明というケースが多いので、
問題の2頭も今日言う意味での半姉妹でなく、父馬が同じだという
意味でハーフシスターと呼んでいた可能性はありそうですね。    
 



その広告記事は  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年10月 4日(木)22時22分23秒    返信・引用  編集済  

1907年11月30日の"The Japan Times"の6ページ目です。
国立図書館にあります。
デジカメの調子が悪いので、携帯電話のカメラで撮影したものをアップします。
どうにか読めると思います。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ken.ooka/LOVELOG_IMG/001.jpg

馬主"スフィンクス”名義の馬がオークションに賭けられるということのようです。
その中にブレサーンも含まれていて、メルボルン二世の半姉妹とあります。
まさか嘘の宣伝を大々的にするとは思えませんし、
ブレサーンとメルボルン二世の姉妹関係は周知の事実だったということでしょうか。    
 



すごい発見ですね。  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月 4日(木)21時03分14秒    返信・引用  

ただ私の調べではメルボーン二世もブレサーンも1901年生まれで
この両馬が半姉妹とはにわかには信じがたいのですが。また、この頃
のタイムズが残っているのでしょうか。大正時代に入るとガゼットが
残存していますが、当時の英字新聞はウイークリー・メイルしか見た
ことがないのです。よろしければご教示願います。    
 



メルボルン二世の血統  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2007年10月 4日(木)18時48分19秒    返信・引用  編集済  

なかなか興味深い史料です。
函館の姓の由来にも頭を悩ませそうです。

最近、少々気になる発見をしたので報告を。
明治末期の血統不詳の豪州産の名馬メルボルン二世ですが、
当時の"The Japan Times”に掲載された競走馬の広告に、
横浜で活躍していたブレサーン(Bressane)とメルボルン二世が半姉妹であるとの
記述を見つけました。
もしこれが事実ならば、メルボルン二世は、血統不詳のまま輸入されたのではなく、
日本に輸入されて以降に血統不詳になったことになります・・・さて、どうでしょうか。    
 



明治3年の記述なら  投稿者:ふてき  投稿日:2007年10月 4日(木)07時03分30秒    返信・引用  

やはり史料価値も高いんでしょうね。

本当に「大慶じゃ」だったなら、そのまんま「函館大慶」で良かったんじゃないか
という気もするんですよね。その辺もちょいと引っかかります。    
 



昔はよく相撲を真似て  投稿者:通りすがり  投稿日:2007年10月 3日(水)22時18分14秒    返信・引用  

番付を作ったもので落語家の番付なんてのも残ってますが、明治3年秋と
書かれた「東京諸先生高名方独案内」なるものがありました。
1段に56人が5段で全280人の有名人が載っています。
先頭から「英仏 小川町 箕作貞一郎」「英学 芝新銭座 福沢諭吉」
「英仏 下谷 福地源一郎」ときて7人目が「西洋馬 丸ノ内 箱舘儀三郎」
・・・エエエッですよ。これって超有名人じゃないですか。

明治天皇の「何者じゃ」との問いに対し名前がわからず「函館の者です」と
側近が奉答して「函館か、大慶じゃ」と仰せになったという伝説、ちょっと
違いますね。「あれがかの有名な函館でございます」に近かったのかなと。