2007年6月、5月、4月 DATE: 2007年 6月28日(木)18時31分36秒 TITLE: 非買本って NAME: ふてき MAIL: デルマを参照しただけなんで、あちこちヌケだらけですが。 Greenback のプリンスオブウェールズSも書き漏らしてますし。 長距離は Willonyx、選手権距離は Swynford が王者だったんでしょう。 Admiral Hawke はどうなってたんですかね。 デルマへの登録産駒数の少なさと共に、生年の幅が広いのが気になりました。。 まったく謎だらけです。 ファミリーテーブルから重賞勝ち馬を抜き出して一覧に並べて、それを 索引にしたら非常に便利だと思うんですけど、ネットなんかで公開したら 思いっきり怒られちゃいますしねぇ。 DATE: 2007年 6月27日(水)23時43分52秒 TITLE: 重賞のまとめ NAME: 岸辺円六 MAIL: 有難うございます。 Willonyxの長距離での無敵っぷりは凄いですね。 晩成型ステイヤーの典型って感じで、 Charles O'Omalleyの3歳後期以降の生活圏はこの馬に奪われていったのかも。 Admiral Hawkeはドイツに売られたみたいですけど、高かったんだろうなあ…。 この馬の方が姉より血統を反映している競争成績に見えますね。 種牡馬成績はデルマでは記載が少ないですけど、大戦の影響ですかね? Admirationのファミリーは、繁殖だけでなく種牡馬も優秀ですから気になります。 こういう一覧も面白いですね。見ているだけで上記の様な想像(妄想)がふくらみます。 DATE: 2007年 6月27日(水)22時12分27秒 TITLE: こちらも誤記 NAME: ふてき MAIL: 明治5年10月21日ですね。 競い合いの場で日本人が欧米人を出し抜いた。 それがロシア王子と臨席の場だった。 これはもう「大慶じゃ」が最も相応しいシチュエーションですね。 非買本の類にそそられてしまうのはヲタの悲しいサガでしょうか。 以前、師匠に教えていただいた亜細亜諸国の重賞史本も発行元に問い合わせしよう~~~と 思っていたんですが、いつの間にやら随分月日が過ぎてしまいました。 さすがにもう在庫残ってないかも。。 DATE: 2007年 6月27日(水)21時19分44秒 TITLE: ↓ また早合点してました。 NAME: 通りすがり MAIL: 新聞記事に第三王子とあったんでウラジーミルと書きましたが、調べてみると 来日したのはアレクセイでした。長男ニコライが早世したので次男アレクサン デルが皇太子となり(後の3世)、4男アレクセイが第三王子でした。反省。 DATE: 2007年 6月27日(水)00時49分22秒 TITLE: ストレス発散になってる NAME: 通りすがり MAIL: だけなんでお気遣いなく。それにしてもどこに配ったんでしょう。 函館競馬場にもあると思うんですが。同時進行の競馬ブック「天皇 賞の世紀」と合わせるとパーフェクトになるつもりだったりして。 完璧どころかいくらでも新事実が出てきますね。 DATE: 2007年 6月26日(火)18時58分27秒 TITLE: フォーラム型掲示板の方が良いんでしょうか NAME: ふてき MAIL: 天覧競馬話。 明治5年1月21日九段招魂社。これが最初の天覧競馬ですか。 例大祭ではなかったことが盲点だったのですね。 大慶「伝説」が「史実」になる可能性が高くなったと。 『天皇賞競走100年の歴史』は一般人の目に触れる機会が無いっす。 エクウスでも行けばあるんですかね。。 DATE: 2007年 6月25日(月)22時48分40秒 TITLE: 補足 NAME: 岸辺円六 MAIL: 有難うございます。>GURU@偏屈爺様 1911年のゴールドCで、血統的にも因縁があるWillonyxの2着してたんですね。 デルマ頼みなので判りませんでした。 W.H.ウォーカー大佐の生産馬らしいって事が、 この馬に対する興味の出発点なので、 デルマで見て配合的に有りそうとは思っていましたが、ソースが判って嬉しいです。 流石に沢山の資料をお持ちなんですね。 DATE: 2007年 6月25日(月)21時56分9秒 TITLE: 若干補足の2 NAME: GURU@偏屈爺 MAIL: 相変わらずネット検索頼りですが、概要を掴むには役立つかと。 |Desmond (1896) | |Charles O'Malley (1907, Richmond St., Ascot Gold Vase, Brother to Simon's Shoes(f)) | | | → Purple Shade (by Royal Canopy) | | |Malva(f) (1919, dam of Blenheim II, His Grace, King Salmon) | | |Zinobia(f) (1915, Cambridgeshire, Berber *, Dr. Grace の母方祖先) | | |Pharmacie(f) (1918, July Cup, dam of Bacteriophage) | | |Margeritta(f) (1922, dam of Finola(f) * by Hurry On) | | |Judy Mccann(f) (1915, Right Tack の母方祖先) | | |Charlebelle(f) (1917, 1920_Epsom Oaks) | | |Swagger Cane(f) (1917, Shirocco, Subiaco, Indiana, Cavan, Noble Dancer の母方祖先) | | |Charley's Mount(f) (1921, Cesarewitch) | | |Light Dragoon(g) (1918, Cesarewitch) | | |Charleville (1917) | | |Free From Pride (1920, Brother to Torchbearer by Radium) | | |Essexford (1918) | | | |Queen of Essex(f) (1928) | | | |Tolerate(f) (1930, dam of Flaming Fire(f) * by Signal Light, Mansingh, Kris S. の母方祖先) DATE: 2007年 6月25日(月)21時52分1秒 TITLE: 若干補足 NAME: GURU@偏屈爺 MAIL: 久々に Biographical Encyclopedia of British Flat Racing その他の 経典を引っ張り出してみました。 まず、Encyclopedia では生産者 Hall-Walker の項に名前が出ていません。 馬主 A.P.Cunliffe は Charles O'Malley のほか、Aboyeur、オークス馬 Charlebelle(f) (Charles O'Malley の娘、恐らく自家生産)などを所有。 ダービーでは Lemberg, Greenback に続く3着。 翌 1911年のアスコット金杯で勝馬 Willonyx のクビ差2着。 全部で5勝とあり。これは Sir Charles Leicester, Bloodstock Breeding でも同じ。デルマではなぜか7勝と記述が一致せず(賞金額は£5005で同じ)。 Rasumussen and Napier, Treasures of the Bloodstock Breeders' Review では Hall-Walker=Lord Wavertree の評伝を9ページにわたって掲載して いますが、Charles O'Malley は彼が売却した生産馬の一頭として名前だけ 挙げられているにすぎません。 競走成績を検討すると、2歳時に Richmond Stakes, Windsor Castle Stakes を勝ち、早熟性とスピードを示していますが、2歳最強(Middle Park Plate, Dewhurst Stakes) の Lemberg とは直接対戦していないか、少なくとも勝った ことはありません。同世代には Lemberg とほぼ互角の Neil Gow, 明らかに 格上の Swynford, 変わり種の Whisk Broom などがおり、せいぜい四、五番手 争いといったところでは。戦績を見るかぎり、万能型の競走馬で一流のスタ ミナも持つが、大レースを勝ち切る底力を欠く善戦マンといえるでしょう。 後世の血統への影響はかなりのものがありますが、Simon's Shoes(f) の陰に 隠れてしまったというべきか。あと、英国における St. Simon 直系衰亡の 渦にもろに巻きこまれたのも評価が低い一因と思われます。 DATE: 2007年 6月25日(月)21時23分51秒 TITLE: 明治5年10月(1872年11月) NAME: 通りすがり MAIL: ロシア皇帝アレクサンドル2世の第3王子ウラジーミル(現在のロシア皇帝位 継承権者家の祖)が来日し、天皇は21日王子を伴い近衛兵の調練を指揮され 夜は皇后や太政大臣など内外貴顕と交歓、翌22日午後九段招魂社で内外人に よる競馬を天覧、夜9時から興行終了後清掃された守田座で「国姓爺合戦」を 楽しまれました。これは8月発行の『新聞雑誌』第58号に行事予定、11月 の第67号に予定通り実施されたことが載っていたものです。 これは例大祭の競馬ではなく、ロシア王子歓待のために特に設営された競馬で 「内外人」とあるからには横浜の外人が出たことは間違いありません。しかも 旧幕臣で馬術に堪能な人物が俳優の下男に落ちぶれていて出場がダメになった というこぼれ話が付いているので、一定の身分以上の者に限られたようです。 函館大経は兵部省~陸軍省~海軍省に出仕した官員ですし「馬は函館義三郎」 と謳われた有名人で1月には最初の天覧馬術をお目にかけていますから、この 競馬に出場する資格があるどころか、出ない方がおかしいわけですね。 DATE: 2007年 6月25日(月)21時04分18秒 TITLE: 中尾佐助はフィールドワークの NAME: 通りすがり MAIL: 天才だと思いますが、彼が言うには当事者から直接話を聞かなければならない 発展途上国では往々にして教育を受けた通訳が自分の知識で答えることがある それを避けなければならないとのことです。競馬史でも同じですね。 函館大経の名前の由来について、函館家の伝承では明治天皇の御前で行われた 九段招魂社競馬で横浜の外人と勝負して勝ち「大慶じゃ」とのお言葉を賜った とのことだったわけですが、招魂社の例大祭の余興競馬に天皇が臨席した記録 はありませんし、従来何らかの錯誤があるものとされてきました。伝聞説から 全くのホラ話説まであり、まともに取り上げられなかったのは『日本競馬史』 から『天皇賞競走100年の歴史』まで同じです。 函館大経は明治天皇の御前で少なくとも4回、おそらく5回天覧馬術をお目に かけましたが、天覧競馬に出た可能性も高いことがわかりました。しかもこれ は明治天皇にとって最初の天覧競馬です。『天皇賞競走・・・』の著者は全く 恥ずかしい本を出したもので、正史中の正史である『明治天皇紀』にも記事が ないので見逃したと言い訳するのも苦しい。 DATE: 2007年 6月25日(月)20時58分43秒 TITLE: 種牡馬成績どうもです。 NAME: 岸辺円六 MAIL: ランキングを見るとやっぱり微妙な感じですねえ。 Swynford、Lemberg、Neil Gow、Whisk Broom、Rosedrop、Winkipop等、 今もよく知られる馬達が同期だから影は薄かったんでしょうね。 あっあとNuageも同期ですね。 DATE: 2007年 6月23日(土)09時04分11秒 TITLE: 確かに NAME: ふてき MAIL: 現代競走馬の血統表に名前が現れる頻度に反して、素性がよく知られていない一頭ですね。 ダービー馬 Minoru なんかのウイリアム・ホール・ウォーカー大佐の生産馬ですか(デルマ)。 ただ、ヘリテイジでウォーカー大佐の代表的生産馬として名前が挙がってこないところを 見るとその評価は。。 http://www.tbheritage.com/Portraits/PrincePalatine.html 詳細な競走成績は調べつかず、でした。 SireLine にある種牡馬成績は (GB) rank runners winners wins earnings 1917 19th --- 4 9 2,188 1918 11th --- 9 13 4,613 1919 10th --- 20 36 11,149 1920 6th --- 15 27 17,413 1921 (データなし) 1922 9th --- 26 38 18,290 1923 17th --- 19 31 10,733 1924 10th --- 18 36 15,748 こんな感じで。 母 Goody Two-Shoes はアイルランドオークスで2着とか。 http://www.tbheritage.com/Portraits/Isinglass.html ただ、この時代のアイルランドの重賞は相当に格下感がありますもんね。 しかし後世への影響度からして、Goody Two-Shones は再評価すべき繁殖なんじゃないですか。 DATE: 2007年 6月23日(土)02時28分15秒 TITLE: Charles o'Malley は NAME: 岸辺円六 MAIL: 何だかよく解らないんですよね。競争成績も種牡馬成績も。 当時どんな評価をされていたんだろう? 競争成績はぱっと見、好素質馬っぽく見えるんですがね。 集めてる繁殖も微妙なところだし。名門牝系の傍流や後の活躍馬の母とか。 デルマ見ても1911年の成績も解らないし。 故障してたのか、勝て無かったのか、それとも勝ってるけど記載が無いだけなのか。 Blenheim兄弟やBacteriophageの様な影響の強い馬の母父で、 オークス馬なんかも出してるからフィリーサイアーなのかも知れないですけど。 DATE: 2007年 6月21日(木)21時44分27秒 TITLE: 余計な NAME: ふてき MAIL: お手数をおかけしました。 また同じような事がありましたら、真っ先に管理人の凡ミスを疑ってくださいまし(苦笑) Robert Le Diable は英→墺→独と動いてたようですね。 デルマのコメント欄が充実してるとありがたいです、こういう時。 Charles o'Malley はウインザーキャッスルを勝った翌年にゴールドヴァーズを 制してるんですね。当時だとこの使い方はそう珍しくも無かったのかも知れませんが、 だとしてもなかなかのもんですよね。 DATE: 2007年 6月21日(木)14時22分40秒 TITLE: 間違いでしたか。 NAME: 岸辺円六 MAIL: 本気で解らなくて、 「ひょっとしたら名前と年代、地域からAyrshire産駒では?」とか、 「だとしたら、まさかRobert Le Diableの別名か?」などと妄想してました(笑。 でも、「Ayrshire産駒」というのは当たってたんですね。 DATE: 2007年 6月21日(木)07時37分3秒 TITLE: これはひどい NAME: ふてき MAIL: 二重のミスをしてました。申し訳ございません。 馬名は Ayr Laddie で、オーストラリアの首位種牡馬でした。 http://www.pedigreequery.com/ayr+laddie AUSTRALIA. (August 1st, 1912, to July 31st, 1913.) winners races £ Ayr Laddie (dead), by Ayrshire 41 145 26,140 Maltster, by Bill of Portland 52 161 1/2 22,361 Positano, by St. Simon 23 53 17,416 Wallace, by Carbine 22 56 16,785 Pistol, by Carbine 44 116 14,397 Flavus, by Hampton 40 105 1/2 14,014 Prudent King, by Love Wisely 18 41 12,805 Bobadil, by Bill of Portland 26 72 9,492 Grafton, by Galopin 42 116 8,528 St. Alwyne, by St. Frusquin 17 56 8,324 Multiform (dead), by Hotchkiss 10 27 7,858 Sir Foote (dead), by Sir Hugo 2 7 1/2 7,841 ご指摘頂いて本当に助かりました。 書いたら書きっぱなしの悪いクセ、何とかしないといけませんね。 こっちがオーストリア=ハンガリーのリーディングです。 (コピーミスで後ろの数字は判別不能でした。) AUSTRIA-HUNGARY. winner races £ Gouvernant (dead), by Flying Fox 33 72 14,76* Minding, by Dunure 43 59 16,4** Falb, by Matchbox 50 69 13,0** Raeburn, by St. Simon 33 44 11,6** Pardon, by Morgan 31 42 10,1** Slieve Gallion, by Gallinule 31 39 9,9** Bon Marche, by Bona Vista 12 35 7,4** Mindegy, by Dunure 10 17 7,3** Matchbox, by St. Simon 19 20 7,0** Tokio, by Talpra Magyar 13 9 6,8** King Rob, by King Monmouth 20 29 6,5** Wombwell, by Isinglass 10 23 6,4** DATE: 2007年 6月21日(木)01時53分30秒 TITLE: 遅レスですいません NAME: 岸辺円六 MAIL: ふてき様、「1913年の賞金獲得額世界トップ10」の、 Ayr(AUT)ってどんな馬なのでしょうか?不勉強のため初耳でした。 デルマにもEETHにも見当たりません。 よろしければお教え下さい。 DATE: 2007年 6月19日(火)21時39分53秒 TITLE: どうぞどうぞ NAME: ふてき MAIL: 何の話題でも結構です。ジャンジャン書き込んでくださいまし。 道川騎手、持病持ちでいらしたんですね。存じませんでした。 真っ直ぐな人柄だったんでしょう。生きるのに不器用というか。 八百長報道の顛末は http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4796648380.html この本にも出てるようですね。機会があったら探して読んでみます。 マカオなんかは言葉が通じるためか、ブラジル人騎手が結構行ってますけど、 レースは相当に荒っぽいようですね(最近はそうでもないのかな)。 DATE: 2007年 6月19日(火)00時27分54秒 TITLE: 名前は道川満彦でしたね。 NAME: 通りすがり MAIL: 転落のきっかけは負けろという指示を無視したことです。 これは変な指示ではなく当時は2勝するとクラスが上がり苦戦するので何度 か着を拾ってから勝つのがセオリーだったのですが彼は理解できなかった。 ある馬主が日本人サム岡谷(亡くなってまだ数年なので本名は伏せます)を 使って東スポに道川が八百長というヨタ記事を書かせた。そんなの無視すれ ばいいのに訴訟を起こしたため騒ぎが大きくなって道川を乗せようという人 がいなくなったのです。世界中の腕利きが参入を狙ってる所ですからね。 DATE: 2007年 6月19日(火)00時14分44秒 TITLE: 今のところどこにも NAME: 通りすがり MAIL: 書く場所がないので、こちらの掲示板に書いておきます。 今では当たり前のように安藤騎手や岩田騎手が中央のリーディングを争い 内田騎手が地方と中央を股にかけて佐々木竹見の年間勝利記録を更新しましたが 少し前までは中央への挑戦どころか隣の県への移籍もままなりませんでした。 20年遅く生まれていればどういう人生になっていたのでしょうか。 今月の初めに道川道彦元騎手が亡くなっています。 実は若い頃から難病で頭髪もありませんでした。 冷たいものは絶対口にしないなど彼なりの健康法を実践していたのですが。 見事な計算結果に 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月16日(土)16時30分40秒 賞金の代わりに現物を支給するのは主催者にとって都合が良かったのかもしれません。 財政状況がやばくなってきたら、金の純度を落としてカップを鋳造させたりとか。 京産大の平木女史と門井氏の関係はわかりませんが、当時のマニアであれば 資料は現地での個人調達が基本だったでしょう。 かつロシア語にも堪能で、となると自然に限られて来るでしょうね。 ゴールドヴァーズ(金瓶)がクイーンズヴァーズ(女王瓶)に姿を変えたように いずれゴールドカップ(金杯)がクイーンズカップ(女王杯)になる可能性も 無きにしも非ず、ということなんですかな。 ゴールドカップの価値 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日:2007年 6月16日(土)00時30分51秒 1ポンドを金8g、50000ペソを4000ポンドと概算すると金32Kg。 金の比重を 19.32g/1立方㌢ とすると32kg=1656.3 立方㌢。 球殻を半分に割ったお椀状の金杯を作るとします。球殻の厚みを3ミリとする。 この半球殻(お椀)の体積は、半径をrとして、半径r㌢の球体積から 半径(r-0.3)㌢の球体積を引いて2で割ったものに等しい。 これが 1656.3 立方㌢ に等しいとおき、電卓使って2次方程式を解いたところ おおよそr=30㌢と出ました。厚み1㌢にすると半径16.74㌢のお椀。 あくまで概数ですが、半径30㌢厚み3㍉、あるいは半径17㌢厚み1㌢の お椀型ゴールドカップがグランプレミオナシオナルの賞杯ならば、何となく それっぽく感じられます。なお計算結果の信憑性は全く保証いたしません (^^; せめて実直な精神だけを養っておくべきだったかも知れません。 その通りです。 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月15日(金)01時37分49秒 "平林茂子"ではなく"平木茂子"でした。 なんで見間違えたのだろう、お恥ずかしい。。 年代的に"平木コーチ"の同一人物でしょうう。 ソ連の競馬雑誌は馬術部で所蔵しているのじゃないかなぁって 勘ぐったりもしたのですけどね。 京都産業大学馬術部 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日:2007年 6月15日(金)01時16分58秒 ネットで検索したらなかなか興味深いものがありました。初代学長荒木俊馬の 肝煎りで設立され、長男で五輪馬術に2回出場した荒木雄豪・現名誉教授が顧問。 Zdzislaw Baranowski(ポーランド人?)著『国際馬事辞典』の翻訳というのも 何やら意味深長な感じ。 設立当時(1965)の「平木コーチ」というのは別人でしょうか。「平木茂子」と いう人が情報科学畑で、荒木雄豪と共著もあるようですが、年代が違うかな? http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~alaki/index-j.html http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/circle/bajutubu/history.html なるほど 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月15日(金)00時08分30秒 編集済 > カップも単なる賞品という考えじゃなくて、それ > 自体が含有する金銀の価値が大きな問題だった時代ですから。 なるほど。南米の古いレースを見ると、重賞競走で賞金がゼロで、カップが賞金扱いに なっているケースがあったのですが、これで納得です。 ソ連の競馬雑誌といえば、以前は京都産業大学に所蔵されていたらしいです。 1969年8月号と9月号の『優駿』に平林茂子「ソヴィエトの競馬」という論稿が 掲載されているのですが、そこに数冊のソ連競馬の雑誌の写真が掲載されていて、 それらには"京都産業大学蔵書"という印が押されているのが分かります。 著者の平林茂子さんは京都産業大学馬術部コーチの肩書きです。 学生時代に、母校の図書館を通じて京都産業大学の図書館に この記事コピーを添えて問い合わせたのですが、ソ連競馬の雑誌の所蔵は不明との返事。 平林茂子さんも昔に退官されていて事情もわからず、さらに既にお亡くなりに なられていて全く手立てが無い、とのことでした。 興味深そうな内容だったので、残念に思った記憶があります。 さすが 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日:2007年 6月14日(木)23時36分34秒 皆さん歴史にお詳しい。国際金本位制というと、教科書的説明では、各国の 通貨価値は金の量で決まり(金平価)、通貨レートは金を共通基準に自動的に 決定されるように書いていますが、現実は第一次大戦前のそれこそ黄金期でも そんな一筋縄でいくものではなかったと。。。 門井佐登宣氏の論稿で憶えているのが、1983年のダービー馬ファゾンを中心に 各地の大レースや東欧国際競馬を紹介したソ連競馬事情です。ロシアの競馬 雑誌(年鑑?)を取り寄せていたと書いてあったような気が。ハイフライアー の末裔に注目したのも当時のソ連競馬情報からではないでしょうか。 話変わって、門井師が存続を願ったハイフライアー系があっけなくこの世から 姿を消してしまい、その代わりにマイナー父系カルトが現れたというのは、 アリーの血を引くイマームが12代目で忽然と消えてから、その「お隠れ」と 再来を信じるシーア派の教義・教団が成立したことをどことなく思わせます(w ↓単位は 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月14日(木)20時46分38秒 リラでしょうね。 共和国大統領賞 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月14日(木)20時43分7秒 元々メゾンラフィットのレースだったんですね。 大戦後にサンクルーに移された、と。 1907年のイタリア主要競走の賞金額はこんな感じですか。 GP. di Milano 50.000 P. Parioli 50.000 Derby Italiano 36.150 P. Pres. della Republica 25.000 P. Principe Amedeo 25.000 Gran Criterium 20.000 P. Regina Elena 15.000 St.Leger Italiano 10.000 為替レートの解説ありがとうございます。 一筋縄じゃいかない事が良く理解できました。 アルゼンチン競馬の黄金期はやはり1930年前後までですか。 高額種牡馬を買い集めた時期の10~20年後辺りになりますね。 もし今の日本が黄金期だとすると、今後は緩やかに下り始めますよ という暗示っすか、これは(笑) 百年前と言えば 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 6月14日(木)02時17分54秒 東洋では各国がメキシコドル退治に躍起になってた時代ですね。 19世紀に信用経済が発達してたのは幕政日本くらいのもので。 英国の賞金でもスターリング銀貨の100ポンドとソヴリン金貨 の100ポンドなら大違いなわけで、まだマネーの価値は地金の 価格で変動していたわけですすから。インドを調べてると大きな レースの賞金はルピーじゃなくてゴールドモハールなんて単位で 書かれてたり。カップも単なる賞品という考えじゃなくて、それ 自体が含有する金銀の価値が大きな問題だった時代ですから。 アスコットのゴールドヴァーズがクイーンズヴァーズに変わった 理由は王室経済的に金瓶を出せなくなったからと聞いたような。 亜ダービーの賞金 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月14日(木)01時39分16秒 編集済 Guru殿、サンクスです。 固定の金国際金本位制は、国ごとの経済の波が激しかった当時では、 直ぐに金貨と紙幣が額面通りに取引されなくなるので、正確なレートを知ることは難しい。 以前、アルゼンチンの金貨と紙幣の取引のレートの変遷表を入手したのですが、 どこにしまったやら分からなくなってしまいました(笑) 20世紀初頭のアルゼンチンダービーの賞金の変遷は以下の通りです。 1901-1904 40,000ペソ 1905-1910 50,000ペソ 1911 80,000ペソ 1912-1915 100,000ペソ 1916-1924 80,000ペソ 1925-1931 100,000ペソ 1910年から1912年の2年で2倍増額されています。 100,000ペソはかなりの高額賞金ではないでしょうか。 大戦後の80,000ペソも、戦争で北半球の経済が相対的に下がっている状況では、 高額の部類に入りそうです。 1930年代以降、国内国内経済と比例して亜ダービーの賞金も停滞してきます。 1927年の競走賞金ランクも興味深いです。 Tijuana DerbyとCoffroth H.ってメキシコでしたっけ? いわゆる西海岸の代替競馬みたいなものですね。 山野御大いわく"ニューヨーク版セントレジャー"のLawrence Realizationも 注目に値します。アメリカでは2歳戦が一番高額ですし・・・今とは全く違います。 英国ほかの大レースの賞金は 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日:2007年 6月14日(木)00時46分2秒 通りすがりさんが書いていましたね(ポンド換算)。そうすると私の推測とは 逆に、当時のアルゼンチンの賞金レベルが突出して高かったわけではないと。 為替レート雑考 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日:2007年 6月14日(木)00時37分34秒 正確さは全然保証できませんが、電波経済学流にざっと計算してみました。 Thoroughbred Heritage で 1913年の獲得賞金額を見ると、Desmond が 30973ポンドで ふてきさんの数字と一致します。Cyllene が 457293ペソ。もしこれが 40013ポンド に相当するのならば、1ポンド=11.4286 ペソ で換算している勘定です。 当時は国際金本位制なので、金を基準に計算したところ、若干違うレートになりました。 1816年貨幣法(金本位制公式採用)から第一次大戦で中断するまで、金1トロイオンス 31.1035g=3ポンド17シリング10.5ペンス=3.89375ポンド の固定価値です。 (1ポンド=20シリング=240ペンスで計算) よって1ポンド=7.988g 他方アルゼンチンペソは 1883年から1914年まで、1ペソ=2.2フランまたは 金638.7mgと定められていたそうです(Wikipedia 英語版による)。 金の方をとると1ポンド=金7.988g=12.50665ペソとなり、たとえば 50000 ペソは およそ 4000 ポンドに相当することになります。当時実際に金重量に換算してレート を決めていたかどうかは知りませんが、およその目安にはなるでしょう。すぐ下の 通りすがりさんの数字とも近いですね。 手元にデータが無く、20世紀初頭のダービー等の大レースの賞金額(ポンド建て) が分からないので賞金額の直接比較はできませんが、当時の為替レートで換算して アルゼンチンの方が高めだったのではないかと想像されます。 正直南米は調べてなかった 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 6月14日(木)00時25分39秒 んですが、百年前のアルゼンチンは非常に国勢が安定していますから 通貨価値にもブレが少ない。1907年はわかりませんが1914年 に1ドルが2.36ペソくらいだったようで1ポンド5ドルとすれば 5万ペソは4,237ポンドになって、下の書き込みの表からは共和 国大統領賞が蹴り出されて亜ダービーが入ってきますね。 で、第1次大戦を挟んで1927年になるとえらく様相が違います。 この頃もポンドとドルとペソのレートはほとんど変わっていません。 21位は5,731ポンド(実勢レート)で凱旋門賞です。 Feb 18 10,000 FG New Orleans H. 8.5fd Mar 6 5,800 Tij Tijuana Derby 9fd Mar 13 16,880 Tij Coffroth H. 10fd Apr 27 10,915 New 2,000 Guineas S. 8f Apr 29 9,660 New 1,000 Guineas S. 8f May 9 10,620 Pim Preakness S. 9.5fd May 14 10,200 CD Kentucky Derby 10fd Jun 1 12,615 Eps Derby S. 12f29y Jun 3 9,410 Eps Oaks S. 12f29y Jun 11 12,182 Bel Belmont S. 12fd Jun 26 8,434 Lon G.P. Paris 15f Jun 30 12,203 San Eclipse S. 10f Aug 30 5,985 Sar Travers Midsummer Derby 10fd Sep 3 11,150 Sar Hopeful S. 6.5fd Sep 7 13,280 Don St. Leger S. 14.6f Sep 10 5,894 Bel Lawrence Realization 13fd Sep 17 18,358 Bel Futurity S. ab.7fd Oct7? ab.6,000 Ran A.J.C. Derby 12f Nov 4 10,662 Pim Pimlico Futurity 8.5fd Nov 7 9,998 Fle Melbourne Cup 16f 処方箋などとあれこれ書くと 投稿者:有芝まはる 投稿日:2007年 6月13日(水)23時36分45秒 微妙にスパムホイホイになりそうな悪寒(笑)。 Precipitationの産駒としてはありがちなパターンか。 因みに私は「Mai P. President de Rep.」をMailandの共和国大統領賞と 読み間違えたドイツ語アタマです。大統領いねーよ。 >1907年イタリア ウィーンのダービーが入ってるのは驚きませんでしたが、往時の5大国の 一角である東ローマ帝国の大レースが入ってなかったのがむしろ意外かも。 ただ、どの時代でもたぶんそうですが、たまに10年位だけエラい高賞金を 張っててその後縮小するような向きもありそうで(比較的近い年代だと1970 年代アメリカのマールボロCとか)、この辺りはある年だけ切るデータだと なかなか掴めなかったり。 プレスクリプション 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月13日(水)22時35分49秒 お二方サンクスです。 成績の方もコピペさせていただきました。 英国と米国は記録本を買うのが手っ取り早いんですよね。 といいつつ自分で買うことはまずないんですけれど(笑) フランス流にジョッキークラブ賞だったんですね。>ダービー@ウィーン 例のジミー・ウインクフィールドの伝記の中にもその当時の描写がありました。 1907年のペソ=ポンド換算率はググってもわからなかったんですが、 1911年の Pietermaritzburg、1913年の Cyllene ともにダントツで 世界最高賞金額獲得種牡馬ですね(1912年の Jardy はデータ持ってません)。 1913年の賞金獲得額世界トップ10を抜き出すと、 Cyllene 40,013(ARG) Old Man 38,792(ARG) Jardy 37,912(ARG) Desmond 30,973(GB&IRE) Diamond Jubilee 30,575(ARG) Flying Fox 28,166(FR) Elf 27,140(FR) Ayr 26,140(AUT) Ard Patrick 24,777(GER) Sundridge 24,501(GB&IRE) 以上、あくまでも1913年のデータですので。 Gold Vase勝馬 投稿者:Gペガサス 投稿日:2007年 6月13日(水)21時50分20秒 ふてき様、亀レスで申し訳ありません。1954年のGold Vase勝馬は Prescription (1951,Precipitation--Postscript)でした。 情報源は The Breedon Book of Horse Racing Records です。 英国の全グループレースの勝馬、Jockey, Trainer、Ownerが載っています。 こんなかんじで 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月13日(水)21時02分0秒 >>Jun 2 4,166 Vie P. Jockey Club 12f はウィーンのダービーですね。 この時代のオーストリアは、大陸ではフランス・ドイツと勢力を三分する競馬大国です。 1954年のGold Vaseはアメリカ産のPRESCRIPTIONです。 父Precipitation (GB)と字が似てますね。 PRESCRIPTIONの戦歴は以下の感じです。 At 2 3rd Rowley Mile Nursery H. (ENG) At 3 Won Gold Vase Stakes (ENG), 2nd Goodwood Cup Stakes (ENG), Chester Vase (ENG), 3rd Doncaster Cup Stakes (ENG), Jockey Club Stakes (ENG) At 4 Won Chester Cup H. (ENG), 2nd Ascot H. (ENG), 3rd Yorkshire Cup (ENG) 確かブラッドストック・ブリーダースレヴューで、 1912年のオールドマンの種牡馬成績(総獲得賞金が世界1位)でしたよね。 この年の英・愛国の首位がパーシモンで世界5位。 単純にアルゼンチンの賞金は高額であったと想像できそうです。 1907年のダービーとカルロスの賞金は以下の通りです。 Gran Premio Nacional (1着50,000ペソ) Gran Premio Carlos Pellegrini (1着35,000ペソ) 当時のアルゼンチン・ペソを英ポンドに直すとどれくらいでしょうかね。 みなさんどうも 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月13日(水)19時36分55秒 LBさん。確認ありがとです。 愛、仏、伊、独は頂いた資料でかなりの部分をカバーできてるんですが、 英、米のメジャーじゃない重賞となるとネットやソフト頼みなんですよね。 ファミリーテーブルも19世紀はかなり手薄ですし。 岸辺円六さん。SireLine 残念な結果になりましたよね。。 重賞勝ち馬に関しては英国だけなんですよ、それなりに埋められているのは。 あのままデータが充実しつづけていたらと思うと。。ホント悔しいです。 通りすがりさん。ここだけがわからなかったのですが。。 >>Jun 2 4,166 Vie P. Jockey Club 12f オーストリア?違いますよね。 シープスヘッドベイが2レースも入ってます。 フュチュリティSが高額賞金だったことはどこかで読んだ気がしますが、 18ハロンのチャンピオンステークスも、でしたか。 Sysonby なんかが勝ってるんですね。 ↓ 寝る前に読み返したら 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 6月13日(水)03時40分3秒 得意の間違いが。いけませんね。 英1000ギニーの1着賞金は4,553 → 4,450 英2000ギニーの1着賞金は4,450 → 5,300 お疲れ様です。 投稿者:岸辺円六 投稿日:2007年 6月13日(水)03時17分58秒 通りすがり様、お疲れ様です。 この頃のパリ大賞とエクリプスSは格が高かったんですね。 それぞれSans SouciとLallyですか。 前評判が気になるところです。 1907年の大レース 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 6月13日(水)01時44分36秒 ポンド換算でベスト20のカレンダーはこんな感じです。 May 1 4,553 New 1,000 Guineas S. 8f May 3 4,450 New 2,000 Guineas S. 8f May 19 4,460 Lon P. Lupin 10f110y May 30 4,553 Bel Belmont S. 11fd Jun 2 7,222 Cha P. Jockey Club 12f Jun 2 4,166 Vie P. Jockey Club 12f Jun 5 6,450 Eps Derby S. 12f29y Jun 7 4,950 Eps Oaks S. 12f29y Jun 16 10,543 Lon G.P. Paris 15f Jun 23 4,225 Ham Deutsches Derby 12f Jul 4 4,840 New Princess of Wales' S. 12f Jul 19 9,285 San Eclipse S. 10f Jul 20 4,357 San National B.P.S. 5f Jul 21 4,000 Mai P. President de Rep. 12f110y Aug 31 5,328 She Futurity S. 6fd Sep 11 4,125 Don St. Leger S. 14f132y Sep 14 4,110 She Annual Champion S. 18fd Oct 3 7,435 New Jockey Club S. 14f Oct 6 4,526 Lon P. Conseil Municipal 12f Nov 5 4,909 Fle Melbourne Cup 16f お疲れ様です。 投稿者:岸辺円六 投稿日:2007年 6月13日(水)00時48分31秒 有難うございます。 ふてき様のような方がいらっしゃるから、 僕のような後発の者が楽しめるんですよねえ…。 「SireLine」やはりお持ちなんですね。羨ましいです。 僕がネットに徘徊する直後位に無くなっていて、 後からその存在や無くなる経緯を知り、残念な気持ちなったものでした。 なるほど 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月13日(水)00時26分45秒 編集済 衰亡史の著者名には驚きました。全く気が付きませんでした。 著者の正体は謎のままに終わりそうですね。 "名は残らずとも名著は残る"って感じかな。 Queen's Vase = Gold Vase でOKです。 1838年創設。1959年までGold Vaseで、それ以降がQueen's Vase。 1987年から3歳限定戦で、2005年だけヨーク開催。 1899、1915-1918、1940-1945年は開催なしです。 100年前の大レースなんて、現在と全く違うのでしょうね。 長距離戦バンザイですし、上級ハンデ戦も現在価値が高かったですから。 ジョッキークラブカップやシザーウィッチカップなども 重要競走だったのでしょう。 短距離戦もケンブリッジャーステークスやロイヤルハントカップなどの ハンデ戦の価値が高かったようですね。 ちなみに1888年のカルロスペリェグリーニ大賞の勝ち馬で、 アルゼンチンで大種牡馬となったゲイハーミットはイギリス時代にそれらの競走に出走し、 ロイヤルハントカップでは勝利を上げています。 19世紀末のウルグアイの伝説の名馬インペリオも、イギリス遠征でロイヤルハントカップに 出走しています(着外でしたが)。 とりあえず 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月13日(水)00時16分54秒 今判る範囲で入力しました。 不明箇所は以下の通りです 1939 Mendizabal 1948 Gradenia 1949 Glenalvon 1859 Schism 1864 Young Rapid 1865 Eltham 1867 Maid Train 1869 Thorwaldsen 1871 Christopher Sly 1887 Quilp 1893 Convent 1914 Gloviana 1954 Precipitation SireLine のデータですが、馬名のスペル間違いも多いもので。。 1954年はもしかしたら Precipitaion 産駒の「何か」の事かもしれません。 あと、1899、1915-1918、1940-1946 は NO RACE だと思います。 デルマは 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月12日(火)22時35分35秒 意外と英国が手薄だったりするんですよね。 アメリカ発信のサイトに対する抵抗感があるんでしょうか。 http://www.pedigreequery.com/index.php?query_type=stakes&search_bar=stakes&field=view&id=868 クイーンズヴァ―ズ一覧の方に1845年のゴールドヴァ―ズ勝ち馬 Sweetmeat が ただ一頭だけ記されてますね。 この表を穴埋めしていくだけなら自分にもできるんで、気長にお待ちくだされば、と。 うわっ2 投稿者:岸辺円六 投稿日:2007年 6月12日(火)21時55分24秒 僕も猛烈に感動しました。 Gold Vaseってデルマでも一覧無いんですよね。 僕の好きなCharles Omalleyも勝ってるらしいんですけど。 うわっ 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月12日(火)21時28分6秒 猛烈に感動しました。 てか、並べ替えまでやって、これに気付かないとはorz おそらくPNは 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 6月12日(火)21時16分41秒 モン・イ・サ・ト・センでしょうね。 門井氏 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月12日(火)20時41分9秒 PNの由来は何ぞや?と思い、ハイフライヤー系にそれっぽい名前の馬はいないか、とか アナグラムならバラバラにして並べ替えたら意味が出てくるんじゃないか、とか 色々と考えましたが、結局何もわからず。 そもそも正しい名前の読み方もわからないんですが(苦笑) アスコットの3歳三冠てな風情があったんですね。勉強になりました。 レースの格、意味合い、賞金額なんかの歴史的変遷を解説したサイト(書籍でも可)が あれば最高なんですけどね。。労多くして報われず、の典型になりそうですけど。 百年前のアスコットでは 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 6月12日(火)03時05分6秒 1マイルのセントジャームズパレスS、1マイル半のアスコットダービー、 2マイルのゴールドヴァーズという3歳馬の大レースがあったんですよね。 それにしても当時と今とで大レースが違い過ぎです。 今の基準で当時を見たら大間違いになること請け合いですよ。 衰亡史の筆者は旭川のA氏ではないかと睨んでたんですが確認する機会を 得ませんでした。手元に名刺があるのでお会いしてるはずですがさっぱり 記憶がない。 競馬ブックのM氏が知らないはずはないと思うんですが口の固い人なので 絶対明かさないでしょう。だからこそ信用できるわけで。 フォロー 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月11日(月)23時00分8秒 どうもです。おかげさまで綺麗にまとまりました。 ゴールド・ヴァーズって今で言うクイーンズ・ヴァーズのことですか。 引退後早い時期の輸入のようですし、力が入っていたのは確かでしょうね。 補正しました 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月11日(月)21時55分32秒 少し直しておきましたので確認してください。 Pilloのころは、イギリスの長距離ハンデ戦が華やかだった時代の最後のころでしょうかね。 少なくとも輸入したウルグアイ側にとてみれは、頑張った買い物だと言えそうです。 入力しました 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月11日(月)21時21分29秒 情報感謝です。 暫定的に、Liniers の Pineyrua を年明け(1920年)、Lancier の勝った古馬重賞を Cristobal Colon で、1928年の勝利にしました。違ってましたらご指摘ください。 http://www.pedigreequery.com/lancier Pillo はイボアハンデやアスコットゴールドヴァーズの勝ち馬ですか。 当時の基準だと結構な勲章だったんでしょうかね。 まちがえた~~ 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月11日(月)20時44分12秒 編集済 よくLiniers と Lancierがごっちゃになるんです。 ご指摘サンクスです。すでにご気づきでしたか。 JCBの職員に一度に聞くのは気が引けるので、 お願いを小出しにしながら、データの空白を埋めようと計画しています(笑) ついでですが、 Liniersはウルグアイでの戦歴が11戦9勝2着1回3着1回(重賞8勝)。 重賞勝ちは、3冠、Jose R. Muinos、Treinta y Tres、Pedro Pineyrua、 Primavera、Produccion Nacional です。 Lancierは、ウルグアイとアルゼンチンで62戦21勝2着8回3着9回4着以下24回(重賞9勝)。 重賞勝ちは、3冠、Lavalleja、Treinta y Tres、Criadores、Gregorio S. Sanchez、 Produccion Nacional、Cristobal Colon です。 Liniers と Lancierは両頭とも無敗の3冠馬ですが、Lancierは3冠達成後の戦歴がひどい。 1926年9戦無敗(重賞8勝)で3冠達成の後、その後は連敗街道まっしぐら。入着はするも重賞は わずか1勝。1929年~1931年は下級レースばかり走り勝ち数をふやしました。3冠馬なのに 62戦も使われているのはそのためです。それでも3冠達成直後のホセペドロでは3着に 入線しているので、3冠達成時は力があったのでしょう。典型的な早熟タイプかと。 Liniers ですね 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月11日(月)20時17分7秒 簡単に成績入れときました。 http://www.pedigreequery.com/liniers そういえば血統ソフトを使っていたときに、その旨入力したような記憶もあるのですが 今となっては完璧に忘却の彼方でした(笑) 引退後はブラジルで種牡馬入りしてサンパウロ大賞馬を輩出してますね。 当時の両国は力関係が今と真逆です。。 JCBの職員に例の三冠競走のルーツに関して問い合わせたら面白いかもですね。 彼らは重賞史を全て把握しているのか否か。もし把握しているようなら厚かましく 穴埋めを手伝って貰ったりしますか(汗) 衰亡史の著者は謎の人物でしたか。うむむ。 あの時代にあの内容。競馬界のオーパーツですね! 話は飛びますが 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月11日(月)19時15分0秒 最近気がついたことなのですが、 1920年のリオ2000ギニーことオトーニョ賞勝ち馬 Lancierって 1919年のウルグアイ三冠馬です。 ふてきさんは気が付きましたか? Lancierのウルグアイでの戦歴が1920年1月で終わっているので そのまま引退したのかと思っていましたが、 ブラジルに移籍していたようです。 リオには知り合いがいなかったのですが、 最近、ウルグアイのジャーナリストにブラジルJCの関係者を紹介してもらいました! そのつてで、1940年代のウルグアイ名馬ミロンのリオでの全成績のコピーを メールで送ってもらってます。 他にも知りたいことがあったら色々と教えてくれるとのメールを頂いたので、 近いうちにLancierのリオでの成績も聞いてきます。 衰亡史の著者 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2007年 6月11日(月)17時31分1秒 かなり以前に、日本でこんな内容の著述ができるなんて、 この人物は何者だ?ってふてきさんやGuru殿と話題になりましたよね。 去年、ブックのT氏に尋ねてみました。 関西のブックの関係者にも問い合わせて頂いたのですが、、 如何せん昔のことで、だれも詳しいことは覚えていないとのこと。 ただ、もうお亡くなりになったのでは…との話でした。 一体どういう人物だったのでしょうね。 「衰亡史」は今も時折読んでいます。単純に面白いですね。 今、このような著述物があれば、ダビスタを経由していない、 研究肌の血統オタが出てくるだろうに。 最近は、ネットでオタ心をくすぐるような マニアックな競馬ものがなくなったな~~ちょっと残念。 人違いでしたか 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月11日(月)06時59分7秒 大変失礼いたしました。 「衰亡史」を始め、20年前のブックは心ときめく連載が多かったですよね。 膨大な情報で溢れ返った今、再びあのような新鮮な感動や驚きに出会えることは 果たしてあるのでしょうか。 失礼致しました。 投稿者:岸辺円六 投稿日:2007年 6月10日(日)23時08分11秒 >ふてき様 よろしく御願い致します。 板主様にご挨拶遅れまして失礼致しました。 いつもROMさせて頂いておりましたが、書き込む勇気が…。 当方ネットデビューが遅く、fhculは存じ上げておりません。 >GURU@偏屈爺様 先程、一通り拝見させて頂きました。 「ハイフライアー系衰亡史」を取り上げられており、 筆者の特徴的な文体で綴られる、Tokio、Felsの一節など思い出され、 「20年も経つのか…。」と懐かしく思いました。 御笑覧頂ければ幸いです 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日:2007年 6月10日(日)21時20分23秒 ネット検索&御布施頼りの手抜きコンテンツですが。。。 それにしても今年の競馬界は超常現象が続いているやうに思われます。 皆様もオカルティック・シンクロニシティに注意しませう。 当方からも始めまして 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 6月10日(日)17時26分21秒 殿下ブログの方でお名前は拝見いたしておりました。 もしかしてもしかしたらfhculだったお方でしょうか(ご返答不要です)。 今後ともひとつよろしくお願い申し上げます。 有難うございます。 投稿者:岸辺円六 投稿日:2007年 6月 9日(土)16時32分0秒 GURU@偏屈爺様、初めまして。 貴重なお品有難うございます。 熟読させて頂きます。 告知どうもです 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 5月30日(水)01時41分24秒 これから解凍いたします~。 Thignon Boy 既に種牡馬になってました。昨年度は9頭の牝馬に種付け! #電波の再開、たのしみっす。 ダービーも終わったので 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日:2007年 5月29日(火)22時05分35秒 少々早いですが、今年上半期の更新分をば。 今回は信者募集の意味もあってパスワード無し、データ中心です。 http://teenoso.hp.infoseek.co.jp/update.html と言うことですか 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 5月14日(月)21時19分5秒 スコビール騎手しかりですが、賭博禁止時代のアメリカからは それなりに「名前のある」競馬人が訪れていたわけですね。 しかし、もしもあのまま馬券黙許が続いていたとしたら。 日本の競馬は今とは全く別の進歩を遂げていたかもしれません(善い悪いは別にして)。 馬の能力ひとつとっても、五流米国馬トニックにして、「黒船ショック」を巻き起こす ほどレベル差があったわけで。あれこれと妄想しちゃいますね。。 これまでは1980年頃の 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 5月14日(月)10時19分51秒 サラレコのこぼれ話を集めたようなコラムにジャック・キーンが2頭の牡馬を 日本に運んだら検疫所が満杯で根岸湾の海岸に馬を置いていてその砂浜がよい 調教場になって日本ダービーを1・2着できたと書いてあっただけなのです。 逸話の出所がわからなかったのと(おそらくどこかの新聞記者に手柄話をした のでしょうが)、トニックらは4頭で輸入されているので若干眉唾気味だった のですが、大筋のところは事実と考えてよさそうです。日本に居つかなかった 理由は来日した途端に馬券禁止になったからだと思いますけど。 慌てて 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 5月13日(日)22時48分29秒 今日買ってきて(汗)当該箇所だけ流し読みしました。>『黒人ダービー騎手~』 ジャック・キーンが入れた馬って、*トニック、*トライアムフハント辺りの事だった でしょうか?ブックの切り抜きに当たったんですが、裏がとれなかったもので。。 仮にそうだとすると、トニックが後に(極東とは言え)ロシアに渡ったのは キーンのツテによるものと考えられそうですが。 追放の真相は一体どうだったんでしょうね。理由はどうあれ、ロシアも1シーズン限りで 後にしてますし、まぁそういうタイプの人間ではあったのでしょうけど。 おかげさまで、続家の系譜はかなり明らかになりました。 系図にするとこんな感じですか。 http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree02.htm 最近出たジョー・ドレイプ著 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 5月13日(日)01時05分50秒 真野明裕訳『黒人ダービー騎手の栄光』に、競馬賭事禁止時代にはロシア にいて皇帝の馬を預かりあらゆる大レースを勝ったはずのジャック・キー ンが実際にはロシアに1903年の1シーズンしかいなかったことが書か れています。ロシアの調教法に革命を起こしたことは事実のようですが。 ジミーの過去に登場した人物の中で、幸運に恵まれていたのはジャック・ キーンだけだった。ジミーがロシアで待っているのをよそに、ジャックと 兄弟のハムはサンフランシスコへ行ってタンフォレンでレースに勝ってい た。ジャックはそこでもやがて退屈して、日本へと飛び出した。実は極東 で競馬をやるつもりはなかったのだが、日本でも競馬が盛んで、賞金は高 額なのに馬はあまり質がよくないのを知って喜んだ。兄弟に手紙を書き、 優秀なサラブレッドを何頭か掻き集めて太平洋航路の船に乗せるように頼 んだ。日本でも相当儲けたが、結局、日本の競馬団体から、ジャック本人 が主張したように妬みのせいか、あるいは団体側の主張のように禁止薬物 の濫用のせいか、いずれにせよ締め出された。 ご存じかもしれませんが 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 5月13日(日)00時51分36秒 函館市立図書館編『函館郷土史研究会講演第二集』の中に続一郎 「続豊治の子孫について」(昭33.9.27)がありました。 豊治の長男七太郎の末子仁三郎についての部分。 この仁三郎という方がおるのですが、この方ですね。卯之吉という方がブラ キストンと非常に懇意でありまして、ブラキストンさんが津軽の方に鳥類の 標本など採集に行きました時に一緒に旅行しておりまして、南部方面に行き ました時宿屋に泊ったわけなのです。そうしましたところが今日子供を捨て るのだというのをきいたわけなのです。それは大変だ、では私が貰っても良 いかということで自分の子供にしたわけなのですが、ところがそれは実際子 供を捨てるわけじゃなくて、宿屋の主人が四十二歳で、母親が三十三歳の時 には厄払いのために屋外に子供を捨てて、またあとから拾いに行くという風 習があったわけなのです。それを真に受けたわけなのです。その方は子供を もらいまして、トセの弟にしたわけなのであります。これを仁三郎と申しま して、名前は続を名乗っておりますが、全然豊治の血は受けておりません。 この方の系統は、次男の方は秀太郎と申しまして早稲田の商科二年で修業し ましてフランスに留学いたしまして、フランスから帰えって来ましてから、 馬匹の改良をやりまして、千人風呂を建てましたり等しました。函館で続を 名乗るのは、この系統とこの二軒しかございません。秀太郎の跡でございま すね、この方の長男コマオと申します。只今函館ドックに勤めております。 確か 投稿者:ふてき 投稿日:2007年 5月 2日(水)18時10分59秒 道新スポーツ(サンスポ)?も「ベイズ騎手の勝ち鞍数には諸説ありますが、 当紙はエキベースの数字を元に報道しています。」みたいな記述があったかと。 クォーターならブラジルでもやってますし、もしかしたらヒカルドも騎乗経験あるかも。 ロマーリオの通算ゴール数で諸説紛紛とするお国柄ですから、そのうちヒカルヂーニョも 埋もれていた過去の記録が発覚して勝ち鞍数一気に上乗せ!なーんて(笑) こないだ一般紙にも 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 5月 2日(水)15時19分9秒 ベイズとヒカルドの最多勝争いが報じられてましたが、 これってサラブレッド競馬の勝ち鞍ですよね。 ベイズがベースにしてる北カリフォルニアでは 6月下旬から8月までフェア(共進会)シーズンになって サラブレッド競馬を主体としつつもクォーターホース競馬や アパルーサ競馬、ラバの競馬(と言うのか?)なんかもあり それらを含めた「競馬」の勝ち鞍だとベイズの場合 とっくに1万勝に近づいてるのかもしれません。