2018年12月、11月、10月




技手職として  投稿者:ふてき  投稿日:2008年12月21日(日)12時24分27秒    返信・引用  

「一等上」ってのは天井に達しちゃってるということですかね。
何れにせよ、大経は特例扱いだった事が容易に想像できますが。

「掌車」は何でしょうか。お車のメンテとかそっち方面ですかな。    
 



明治22年の『職員録』  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年12月21日(日)04時03分1秒    返信・引用  

をメモしてあったのが出てきました。今は大臣と本庁の課長級の給与に大差は
ありませんが、当時は農商務大臣の年俸6千円に対し畜産課長は月俸50円と
いう具合に上下の差は想像を絶するものがあります。それでも明治40年頃に
代用教員の月給が8円だったことを考えると、下記の人々は高給取りですね。

宮内省車馬監  奏任官五等一級 年俸900円 山口融
調馬師     奏任官五等二級 年俸800円 勲六等目賀田雅周
調馬師兼馭者  奏任官五等二級 年俸800円 従六位宮下幸知
掌車      五等 月俸35円 小柴定五郎
調馬手兼馭者  六等 月俸35円 根村当守・木村介一
馭者兼調馬手  六等 月俸35円 石原安久
調馬手     七等 月俸30円 久保又作
馭者兼調馬手  七等 月俸30円 京田懐徳
調馬手     八等 月俸25円 室岡新十郎
調馬手兼馭者  八等 月俸25円 福羽守人
馭者兼調馬手  八等 月俸25円 林豊成
馭者      八等 月俸25円 桑島忠則・片岡辰吉・岡治善
馭者八等兼調馬手九等 月俸20円 岩波力次・勲七等多賀一
調馬手九等兼馭者八等 月俸20円 目賀田万喜
掌車      九等 月俸15円 瀬能雄清
調馬手兼馭者  十等 月俸15円 根村市利
馭者      十等 月俸15円 川北長守
掌車      十等 月俸15円 高木小一郎
調馬手兼馭者  十等 月俸12円 武部重則・芦沢駿太郎
馭者兼調馬手  十等 月俸12円 大西保作
馭者      十等 月俸12円 山田元次郎・小西賢・下村人礼・千代間丑之助

北海道第二部技手 一等上 月俸80円 函館大経
技手       九等上 月俸25円 武彦七
技手       見習  月俸12円 函館大次
大半の技手は9等・10等・見習で、8等以上はほとんどいません。
4等中に町村金弥がいて、3等以上は函館大経1人です。    
 



まぁ日本は  投稿者:ふてき  投稿日:2008年12月19日(金)21時24分29秒    返信・引用  

外国人騎手と言っても制限がガチガチに厳しいですから
アルゼンチンに比べれば全然恵まれてる方なんですが。

関係ないんですが、日本で活躍する外国人騎手を見ていて思うのは
やはりラテン系の適応力、なのですね。
アングロサクソンはプライドが高い?ためか、あくまで我流を通そうとして
適応できず失敗している印象があるんですよね。
勿論、一般的傾向の話で、当然例外もあると思いますが。    
 



間違えました  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年12月19日(金)20時43分30秒    返信・引用  

18勝差です。
最近のファレーロの勢いを考えると、ちょうど大晦日あたりに追いつきそうな感じ。
若手騎手の受難はどの国も言えるのかも知れません。
フランスでもベルギー人騎手やスペイン人騎手が大活躍ですし。
日本ではかつての厩舎所属から、フリーで活躍するのが一般的になった昨今。
良い馬は良い騎手に必然と集まるわけで、
思うに、三浦皇成くんのような天才肌の騎手でもないかぎり、
若手での大活躍とはいかないのかも知れませんね。    
 



おつかれさまです  投稿者:ふてき  投稿日:2008年12月19日(金)20時05分16秒    返信・引用  

そうですか、接戦になってきましたか。
確か両者とも勝率も20パ前後あるんですよね。
外国人騎手(とりわけ大ベテラン)が多数立ちはだかっていて
アルゼンチンの若手も(わが国以上に)大変なようで。    
 



実に興味深い(「ガリレオ風  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年12月18日(木)21時48分52秒    返信・引用  

非常に興味深い話が続いていますね。
私もネタ参加したいところですが、親戚の仕事の手伝いを頼まれ
如何せん先月末から家を空けていまして、ネットもロクにできない状況でして。
今週末には自由の身になると思うのですが(笑)

先月ぐらいからアルゼンチンのリーディングジョッキー争いが過熱していますね。
ファレーロの驚異的な追い上げというかなんというか。。。
一時はヒカルドに70勝差ぐらいあったのが、気がつけば28勝差までに縮まっています。
パレルモとサンイシドロではすでにファレーロが首位に立っていて、
2大競馬場の総計では首位はファレーロで大方大勢はついた感じ。
ヒカルドは、ファレーロが参戦していないラプラタでの勝ち鞍で、
それだけ上積みがあるかです。
確か二大競馬場の首位騎手が、地方競馬を含めた全国首位騎手を獲得できなかった例は
4~5例あったはず。記憶が正しければ、レギザーモやサングネティも
その例に入っていたはずです。
何せ毎日レースがあるアルゼンチン。あと2週間の逆転もあるかも!です。    
 



ですか  投稿者:ふてき  投稿日:2008年12月11日(木)23時09分51秒    返信・引用  

もともとは蕎麦屋か何かの関係者だったんでしょうかね。

「横浜繁盛記」で職業騎手としてあげられている12、3人を具体的に記すと、
大野市太郎、吉川勝衛、神崎力造、林義保、杉浦武秋、函館大次、後藤録三郎、
堀越綾次郎、黒坂佐吉、高橋孔照、前田右京、柴田安冶、桧垣林之助、
坪内元三郎、杉浦清吉、、、このあたりでしょうかね。    
 



まあこれはソバ亀が  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年12月10日(水)20時16分32秒    返信・引用  

大野の先輩だという説の典拠として出したわけで、姓はおそらく松村でしょう。
明治15年春季戸山競馬2日目を報じた時事新報を紹介します。

午後一時二十分番外競馬を始めとして前日に優りたる競馬数番を天覧に備へ奉りしに
殊る龍顔麗はしく第一番に勝を得たる松村亀吉へ御手許より紅縮緬一疋を賞与として
賜はり六時卅分滞りなく還幸遊ばされたり    
 



ソバ亀  投稿者:ふてき  投稿日:2008年12月 9日(火)21時41分1秒    返信・引用  

松村ではなく松下なのですか?

当時の2千円は相当な額でしょうね。今だと1千万以上にはなりますかな。
ちなみに現在はノミの罰金は最高でも5百万だそうで。
そういえば、もう長いこと捕まってないその手のお店が近所にもあると
噂に聞きましたが、お目こぼしでもしてるんですかね。
賭け麻雀のようにやりすぎるとアウトだけど。。まぁ、みたいな。  
 



『横浜繁盛記』(明36)に  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年12月 9日(火)19時52分57秒    返信・引用  

今騎手として立って居るものは大野市太郎、吉川勝衛、神崎力造、林義保を始め
杉浦、函館、後藤以下都合十二三人もある。何でも大野の話によると以前北方の
諏訪町に松下亀吉通名をソバ亀と云ふのが居たが、夫れが日本人中の騎手の始め
で、大野などの先輩であつたさうな。明治十五年頃も戸山の馬場で 陛下天覧の
砌り、此の松下と大野とは共に競走に加はつたが、頗る出来の能かつたので殊の
外御感賞を辱うし、恐れ多くも更めて二人丈けで競走をせよと仰せられ、誠に身
に余る面目を施した事があつたと云ふ。

ところで美馬勝一が戦後公認競馬に戻れなかった理由がほぼわかりました。
昭和16年秋に神戸裁判所からノミ行為で罰金2千円の判決を受けてます。
昔はノミ行為で信じられないほど多くの検挙者が出ていますが、多くは罰金
50円から200円の範囲で、胴元でも100円は珍しくありません。美馬
は張子で2千円ですからよほど大金を賭けていたんでしょう。それだけ自信
があるということは当然レースを仕組んでいたのだと思います。    
 



身近なところだと  投稿者:ふてき  投稿日:2008年12月 2日(火)23時28分31秒    返信・引用  

羊ヶ丘の農業試験場一帯が150町歩くらいですかね。
あそこは良い感じで起伏があって英愛型の競馬場造るならドンピシャなんですが。。
まぁ今となっては夢のまた夢。

最近ニュースになった元西山牧場が約400町歩で最大級だったとか。
随分前にちょっと傍の道を通り過ぎたことがありますが、
思った以上に広い牧場だったんですねえ。    
 



園田牧場はもともと  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年12月 2日(火)22時19分11秒    返信・引用  

七重官園(勧業試験場)が牧羊場として開いた分場で640町歩あったはずです。
東京競馬場が73町歩、栗東トレセンでも160町歩ですから比較になりません。
かの有名なカルメット・ファームでも本場は320町歩程度しかなかったわけで。
桔梗野なのでそんなに傾斜があったとも思えずどんな競馬場でも作れたでしょう。
ランチョ・デル・パソは18,000町歩あったのですが・・・まあこれは例外。

函館競馬倶楽部時代の厩舎は函館大経が明治28年に七重にあった製煉場の建物を
払い下げてもらって建てたのだそうです。  
 



大物を出す家系は  投稿者:ふてき  投稿日:2008年11月30日(日)19時59分11秒    返信・引用  

その分、登場人物の上下触れ幅も大きいということでしょうか。

園田牧場跡地がもし競馬場になっていたら、ですか。
当時の具体的な立地具合はわかりませんが、さぞかし大きなコースが
作れたんでしょうね。海からはちょっと離れてしまいそうですけど。    
 



まあ一番新しい情報でも  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年11月30日(日)18時07分20秒    返信・引用  

30年前のものですから。最近、函館競馬についていろいろ知りました。

若い頃武邦彦騎手は石もて追われるように函館を去ったと聞いていたので
事情を知りたかったのですが、人格者の武彦七氏の跡を継いだ武芳彦氏が
悪いことばかりする人で、日本競馬会と食糧納入を契約しておいて代金を
踏み倒したり、信用がなかったようです。函館の進駐軍競馬を始めた時も
お膳立てをしたものの表に立てず、第2回開催以後は追い出されたりで。
邦彦少年はまだ園田牧場にいたのですが、これが農地解放でパーになり。

昭和18年日本競馬会は競馬場の移転先として園田牧場を内密に調査しま
したが、桔梗では交通不便ということで沙汰止みに。戦後牧場ではやって
いけないと畑にして小作を入れたのが仇となり解放の対象にされたとか。

函館大政氏は国営競馬時代の昭和24年に退職し、獣医を開業しました。    
 



いつのまにやら  投稿者:ふてき  投稿日:2008年11月29日(土)21時14分1秒    返信・引用  

すっかり私人の方が多くなってしまいました。
個人情報保護法的にはどうなんでしょうか。
http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree02.htm
競馬関係者は一人だけなんですよね。    
 



七太郎の妻は  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年11月29日(土)19時13分18秒    返信・引用  

佐藤庄三郎次女シエ。その長男は豊太郎。長女トセは叔母続ヂンの養女となる。
ヂンは米吉を婿とし、トセは春吉を婿とし、トセの長女トヨは隆吉を婿として、
造船業を継ぎましたが大東亜戦争の前に廃業しました。続一郎氏はトヨの五男。

本家の家系は養子関係等非常に煩雑ですが、家督継承はおそらくこうなります。
七太郎は豊治より前に、益蔵は賢造より前に亡くなっています。
1.五郎治
2.豊治
3.豊太郎
4.豊太郎の次男賢造(母は先妻ムメ)
5.長女タヨ(母は後妻ヨシ)と佐藤善治の次男昇(豊太郎の三男益蔵=母ヨシの養子)
6.昇と喜佐子の次男芳次    
 



更新いたしました  投稿者:ふてき  投稿日:2008年11月29日(土)09時46分42秒    返信・引用  

http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree02.htm
やはり早世だったんですね。

続氏つながりですが、道議会に席を置く平出陽子議員って
恐らく喜三郎氏の子孫じゃないですかね。
http://www.dpj.or.jp/member/?detail_1369=1
喜三郎氏御自身も第一期の道議だったようですが。    
 



一部修正&追加  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年11月28日(金)21時27分2秒    返信・引用  

続五郎治
 豊治 寛政10年3月生 明治13年3月29日没(82歳)
 |ヂン 天保元年8月16日生 明治26年7月27日没(62歳)
 |七太郎 天保3年生 慶応元年7月24日没(33歳)
 |たけ ・・・早世?
 |卯之吉 天保9年11月5日生 天保13年福士長松の養子となり福士成豊
 |    大正11年8月26日没
 |仁三郎 東津軽郡浜町中村三郎治次男 安政5年11月8日生
      明治14年9月養子 同時に分家 昭和6年12月12日没(73歳)
  妻タミ 寺田鉄武次女 安政4年12月7日生 昭和4年7月15日没(71歳)
  |長男健三 寺田姓を冒す
  |次男秀太郎 明治19年8月4日生 昭和13年4月28日没(51歳)
  |妻ノブ 内山ミチ長女 明治23年6月19日生 昭和44年1月29日没(78)
  |  |長男駒男 大正8年7月22日生
  |  |  エネ 大正10年8月24日生
  |  |   長女駿子・長男信一・次女静子・三男敏弘
  |  |長女幸子 塚田敏雄妻
  |三男将
  |六男正一    
 



見にくくなっちゃいました。  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年11月28日(金)16時46分33秒    返信・引用  

元は厖大なもので、昭和55年に続一郎氏が作成した家系図を
天野道雄氏が系統図にしたものと書かれています。

これを見ると仁三郎は23歳で豊治の養子となり同時に分家していますから
ブラキストンまで動員した捨て子伝説は無理がありますね。
最もあり得るのは七太郎が外で作った子供を続家の籍に入れたケースでしょう。
仁三郎が生まれた当時七太郎には妻と2人ないし3人の子がありました。
従って戸籍上は養子の子ですが、秀太郎は豊治の実の曾孫だろうと思います。

それにしてもスゲヌマのダービーを待たずに亡くなってたんですね。
華やかな前半生とは対照的な後半生・・・と言っても若すぎます。  
 



こんなものが出てきました。  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年11月28日(金)16時33分4秒    返信・引用  

続五郎治
 豊治 寛政10年3月生 明治13年3月29日没(82歳)
 |ヂン 天保元年8月16日生 明治26年7月27日没(62歳)
 |七太郎 天保3年生 慶応元年7月24日没(33歳)
 |たけ ・・・早世?
 |卯之吉 天保9年11月5日生 天保13年福士長松の養子となり福士成豊
 |    大正11年8月26日没
 |仁三郎 東津軽郡浜町中村三郎治次男 安政5年11月8日生
      明治14年9月養子 同時に分家 昭和6年12月12日没(73歳)
  タミ 寺田鉄武次女 安政4年12月7日生 仁三郎妻 昭和4年7月15日没(71歳)
  |長男健三 寺田姓を冒す
  |次男秀太郎 明治19年8月4日生 昭和13年4月28日没(51歳)
  |  ノブ 内山ミチ長女 明治23年6月19日生 昭和44年1月29日没(78歳)
  |  |長男駒男 大正8年7月22日生
  |  |  エネ 大正10年8月24日生
  |  |   長女駿子・長男信一・次女静子・三男敏弘
  |三男将軍
  |六男正一    
 



問題解決  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年10月 2日(木)23時20分29秒    返信・引用  

とりあえす報告を。
豪州産馬の馬齢表記が8月1日加齢から1月1日加齢に戻ったのは
大正14年秋季からでした。
ですので、大正14年春季までは8月1日加齢ということになります。
思うに、このことはあまり理解されていないのでは。
混乱がある可能性もあるので、古い時代の輸入豪州産馬の生年は
再度確認する必要があるかもしれませんね。