2008年3月、2月、1月





昔々の  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 3月12日(水)21時57分31秒    返信・引用  

4頭立て馬車なんかも、何かのはずみで馬が暴走してしまったことを思うと
優雅というよりも命がけの乗り物という側面が大きいような。

キース・エマーソンかっちょ良過ぎ。 
http://youtube.com/watch?v=N0FuFfcCZiE
   
 


仰天2連弾  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 3月12日(水)00時15分22秒    返信・引用  

こりゃメチャクチャ速そうですね>クォーターホースのチャリオット
2頭と1人の息がぴったり合わないとメッサラになりそう。

ELPまでが初音ミク化していたのにも仰天しますた。  
 



チャリオットと聞くと  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 3月11日(火)20時15分18秒    返信・引用  

ELPの「聖地エルサレム」を思い出します。競馬とは何ら関係ありませんが。

古代五輪の記述とか見てると、近代五輪よりも楽しそうな種目が多いっす(笑) 
http://youtube.com/watch?v=o4bzRI0BUv0
   
 


こういうのならありますけど  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 3月11日(火)02時22分9秒    返信・引用  

速歩じゃなくてクォーターホースによる駈歩ですね。
http://www.aqha.com/magazines/aqhrj/content/2006content/06may/allinvane.pdf

ロシアには3頭立馬車の駈歩によるトロイカ競走があるとも言われてます。    
 



過去は私のものだつ!  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 3月11日(火)00時16分27秒    返信・引用  

これだけ主流への集中が進むと、父系ヲタはサラブレッドから撤退して
歴史と他品種に移らざるを得なくなるのかも・・・と思ったり。

繋駕系サイトは凄いですね。ただ Standardbred 主流は血統図を見てる
だけでお腹いっぱい、ad Nauseam という感じなので、これまたマッチェム
の流れを汲むマイナー父系だけ追っかけることにします (^^;

どこかの酔狂なホースマンがローマ式4頭立て繋駕競走(ベン・ハー!)
を復活させてくれないものか、などと夢想することも。あちらには軍団兵
のコスプレや古代兵器の復元に金と暇を注ぎ込む能動的歴史ヲタが結構
多いんですが。。    
 



戴きました。  投稿者:岸辺円六  投稿日:2008年 3月 9日(日)17時31分21秒    返信・引用  

GURU@偏屈爺師、更新有難うございます。
これからゆっくり拝見させて頂きます。    
 


アメリカ賞など繋駕系  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 3月 9日(日)16時24分51秒    返信・引用  

勝ち馬の血統やら生年やら産駒の情報など、ここ↓が滅茶苦茶詳しいようです。
ちなみに Amozone B (USA) は1924年生まれになってました。
まぁそっちの競馬はほとんど知らないんですが。。

ご自愛ください。
こちらは花粉症の被害が少ないんで助かってます。 
http://www.blodbanken.nu/servlet/GetBBData?type=race&rID=104
   
 


久々に  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 3月 9日(日)10時00分45秒    返信・引用  

新しいコンテンツを加えました。外は花粉混じりの春風ですが
どうやら風邪にやられたらしく家でゴロゴロ、暇潰しの更新(w
ttp://teenoso.hp.infoseek.co.jp/present2.lzh    
 



情報付記しました  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 3月 4日(火)22時44分9秒    返信・引用  

検索すると「バラムカップ」というレース名が出てきますが、
これの由来が Balam なのでしょうね。
どうも大層なレースじゃなさそうですけど。 
http://www.pedigreequery.com/balam
   
 


どうやらインドで  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 3月 4日(火)19時55分43秒    返信・引用  

聞いた話を鵜呑みにしてたようで、改めて調べたらバラムは当該レースに
出走してません。1951年5月30日ダービー当日のエプソムで(当時
ダービーは5月でした) Carew Stakes という10ハロン戦に T. Burn
騎乗で出て着外、それで諦めたようです。

インド競馬は開闢以来1950年代まで英国産馬や豪州産馬が頂点を占め
ていたわけで、BBRはバラムをワンダーホースと呼んでいます。戦法は
逃げ、調教師は Douglas Balfour 主戦騎手は Kheem Singh でした。

昔のインドの一流馬は冬しか走らなかったものですが、1949~50年
はボンベイで6連勝不敗、1950~51年はカルカッタでトライアルS
(今のカルカッタGC)など3連勝の後長距離で3着、ボンベイに戻って
2度目の印エクリプスSを勝っての渡英でした。  
 



インドの英雄  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月29日(金)21時12分56秒    返信・引用  

キングジョージでは何着だったんでしょうね。
やはり着外馬 also run でひとくくりなのでしょうか。

複雑な歴史的経緯を孕んだ地域の「生産国表記」の件に関しては、
然るべき国際機関(ISBC?)で話し合われたことはあるんですかね。
各国の思惑が絡むので統一ルールなんてのは望めそうにない気もしますが。
デルマはあいかわらずパキスタン産が選択肢にないんすよね。 
http://www.pedigreequery.com/balam
   
 


父は無名種牡馬ですが  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月29日(金)20時04分47秒    返信・引用  

2代父は当時かなり重用された種牡馬でしてその娘 waterweed は
英領インドへ輸出され、pond+lily3 → h2o → hooishe → balam
と代を継いで、この馬はイギリスに遠征しフェスティバルオブブリ
テンS即ち第1回キングジョージと見なされるレースに出ました。
アジア産馬が欧米に撃って出たパイオニアです。

ところで上記の4頭はデルマではインド産となっていますが、実は
現在パキスタン領となっているパンジャブ平原西部の生まれです。
こういう場合正しい生産国はどうなるんですかね。戦前の日本では
朝鮮半島産馬も内国産扱いでしたけど、今はそうじゃないし。  
 



登録しました  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月29日(金)17時33分28秒    返信・引用  

父は無名種牡馬で、近親にも活躍馬はいない感じですかね。 
http://www.pedigreequery.com/complex7
   
 


それで正解でしょう。  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月29日(金)01時10分59秒    返信・引用  

コムプレツクスの方は『馬匹世界』『牧畜雑誌』『日本之産馬』と
渉猟しましたが見つからず。本当にどこで読んだものやら。カネネ
より1年早い1908年に同じヨーロー・スタッドで産まれた栗毛
牝馬で米国名 Complex 血統は父 sir+hampton 母 duplex7 です。    
 



154斤で正しいと思うのですが・・・  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 2月28日(木)01時45分2秒    返信・引用  

大正5年春季東京競馬、第2日第9競走のコイワヰの斤量について.
やはりこれは160斤ではなく154斤でよさそうです。

この競走に出走したのは4頭。番組台帳には、
ミツイワヰ(118)、アヅマ(160)、コイワヰ(160)、マナオ(154)
と斤量が掲載されています。この中でマナオの154斤は、
シーズン初めの阪神での1勝分が含まれていないので、
実際は156斤が正しいです(前日の競走で156斤で出走していることが
新聞等で確認できます)。

で、この競走の斤量規定ですが、以下が番組台帳に掲載時の適応範囲です。、
 ①馬齢重量
 ②出走登録締め切りの時に9勝以下の馬は7斤減
 ③当季本会(大正5年春季東京競馬)開会前の勝利は通算増量し、
 最高限度(160斤)で止む。
 ④新馬は10斤減。
 ⑤大正4年秋季東京競馬に出走して勝利を出来なかった馬は7斤減。
 ⑥未勝利馬は減。
③の通算増量について注意ですが、この開催の東京競馬では最高限度超過分の
斤量を他馬へ逓減することは規定されていません。

これを踏まえた上で、最後に1つ規定があります。
それは、「前日の勝ち馬は10斤増量で、この結果最高限度(160斤)を超過した場合は
超過分のみを順次他を逓減する」というものです。
初日にマナオが勝利を上げているので、マナオの斤量は166斤となり6斤オーバーに
なります。この6斤をアヅマとコイワヰに振り分けると、
両馬は160斤→154斤となるわけです。

ただここで問題が2つあります。
1つはミツイワヰの斤量で、上の理屈で考えるとミツイワヰは
118斤→112斤とならなければいけないのですが、新聞等では118斤のまま。
ミツイワヰは上記の規定に当てはめると、
①130斤→②123斤→③125斤(1勝:2斤)→⑤118斤
となり118斤を番組台帳に記載され、これに6斤オーバー分を引いて
112斤となれば問題なかったのですが・・・

もう1つの問題は、マナオの通算増量。マナオの斤量を正確に調べてみると、
①132斤→③158斤(13勝:26斤)
で、開幕前に13勝しているので合計158斤が正確で、156斤ではないのです。
これは開催側の斤量の数え間違えた可能性もあるのですが、
マナオの13の勝利の中に1回の"同着"と1回の"失格繰上げ1位"があります。
僕は"失格繰上げ1位"の勝利が斤量に含まれていないのではと推測しています。
なぜならば、"失格繰上げ"の例を見てみると、賞金受賞馬が失格になっても、
着外馬が繰り上がって入着扱いにはなっていません。
それは当時、着外馬には詳細な着順はなく、一括して着外馬扱いと
なっていたからです。
まぁ、諸々もう一度確認してみます。    
 



厩舎の会社化  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月23日(土)09時59分56秒    返信・引用  

昭和30年代は厩務員らによる労働攻勢全盛期だったようですから、
対応策という面もあったんでしょうかね。
冨良師は調教師会の代表だった間に一度もストを行わせなかったことが
自慢だったようですし。
他の業績は定年制導入、厩務員の一人2頭持ち制、厩舎別ユニフォーム考案などですか。    
 



『優駿』はJRAの機関誌ですが  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月22日(金)21時40分52秒    返信・引用  

昭和44年のダービーをダイシンボルガードが勝った時「2人で
持てば走ります」という馬主インタビューをやってます。翌々年
のダービーではヒカルイマイの本当の馬主に取材したような。

名義貸しを厳密に規制するようになったのは調教師の馬房制限や
騎手の予想禁止(これで専門誌の騎手座談会ができなくなった)
なんかと同じ流れでしょうね。いわゆる公正確保というやつで。    
 



マンボウさん  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 2月22日(金)00時59分30秒    返信・引用  

の屋号が「満豊」ですか。有益な情報です。
喜平・基弘、それに定広ですか…。
国立図書館に「浜松商工人名録. 大正3,13,15年」なる資料が所蔵されているので、
近いうちにちょっと行ってみます。

イロハの名義貸しになるように、当時は名義貸しは普通ですよね。
世界を見てもも名義貸しが禁止されているのはJRAぐらいではないのかな
(地方競馬は名義貸しが横行しているというし…)。    
 



コメントを付け忘れましたが  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月22日(金)00時17分31秒    返信・引用  

定広は藤本師の思い違いでしょうね。私としてはマンボーの
語源の方が新事実で。

藤本師は昭和40年代に「藤本厩舎」を会社組織にした人で
そんなことがきでるのかと驚きでした。あの頃は馬房制限が
なくてそれこそ4馬房の厩舎もあれば60馬房の厩舎もあり
尾形厩舎から保田師が独立した時は1棟まるごと譲渡されて
そこにメジロアサマも含まれていたんですよね。

藤本師の本当の師匠は東海地方時代の松山(相羽)仙一師と
言えるでしょう。相羽師が関西公認競馬に移ってからの弟子
が浅見国一師で、両師は兄弟弟子ですから、ヤマニンモアー
を浅見騎手が見つけてきた時関西の調教師連中をはばかって
藤本師に預かって貰ったという話になるんですね。

勝彦騎手は父の厩舎によい馬が沢山いたので勝ち鞍は多い方
でしたが上手くはなかった。セオリーに従おうとするあまり
流れに逆らって馬の脚を止めるような騎乗がありましたね。
事件の時は調整ルームから外に電話してたって話の方が驚き
で、競馬会うかつすぎるだろって感じでした。    
 



日本の調教師にも  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月21日(木)20時36分48秒    返信・引用  

ほぼ同じような記述がありました。
マンボーさんの本名は鈴木基弘になってましたが。

藤本冨良師はどの世界へ進んでいたとしても成功しただろう、
と言われたほどの人だったらしいですが、それに引き換え息子の勝彦騎手は。。
逆にそういう父を持ってしまったがための転落劇ともいえそうですけど。    
 



マンボーさん  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月20日(水)19時04分30秒    返信・引用  

競馬ブック昭和62年9月7日発行号「藤本冨良調教師にきく」

──お父さんは大変な競馬好きだったそうですね。というより、
静岡の競馬では大変に顔のきいた人だ、ということを、ある先輩
からききました。
藤本 明けても、暮れても、競馬、競馬だった。馬もたくさん持
った。マンボーさんといえば公認競馬でも知らない人がいないほ
どの馬主がいた。本名は鈴木定広というのだが、屋号が「満豊」
なので、マンボーさんと呼ばれていたんだ。たくさん馬を持って
いたが、イロハというのは実はぼくのおやじの馬、おやじは公認
競馬の馬主じゃないので、マンボーさんの名儀を借りたわけ。イ
ロハは地方競馬で勝ちまくり、距離ハンデをつけられるようにな
ったので、公認で走らせたのだ。    
 



これまた  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月17日(日)07時46分33秒    返信・引用  

なんとも時計の針が進むのが遅い空間ですね。
シアンモアやトウルヌソルのチョイ下の世代になりますか。>最後のダンディ
BMSシアンモアなんて馬が最近まで存命だったら、そりゃ普通に驚きますもん。。  
 
最後のダンデイ  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 2月16日(土)21時42分16秒    返信・引用  
   http://www.mischiefblue.co.uk/index.html という好事家サイトに
1984年のグランドナショナル障害勝馬 Hallo Dandy(g) (1974) が載ってますが、
血統検索したところ昨年(2007.1)死亡したそうです。この馬あたりがタルヤー
直系世界最後の活躍馬じゃないかと思いますが、それより目が点になったのが
母の父 Last of the Dandies (1927) なる無名の種牡馬。何が凄いかといえば、
「1920年代生まれの種牡馬の娘の産駒が去年まで生きていた」つうことで。ちなみに
1927年生といえばダイオライトやブレニムがいます。トゥールビヨン、プリンスローズ、
プリメロよりも昔の馬。R.I.P. http://www.pedigreequery.com/hallo+dandy    
 



たぶん  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 2月13日(水)01時29分20秒    返信・引用  編集済  

コムプレツクスの話は記憶にないですね。
明治末期ならば『馬匹世界』あたりに掲載されているでしょうか。
『馬匹世界』は国立図書館で全号全ページをコピーしようと思っているのですが、
未だ競走成績ぐらいしかコピーしておりません。
国立図書館はコピー代が高いのと紙数制限があるので面倒なんですよね。
読み物としても最高なので、全コピーして家でゆっくり読みたい!!

明治40年以前の騎手減量について『日本競馬史』に記載がありました。
・横浜では、紳士騎手がプロ騎手と同レースに出走する場合は、紳士騎手が通算1勝まで
 なら5ポンドのアローワンスが与えられる(ハンデ戦&優勝戦は除く)。
・東京競馬会では、新人騎手が東京&横浜で通算3勝するまでは
 5ポンドのアローワンスが与えられる。
といった具合です。川崎や目黒でも騎手減量が確認できるのですが、
これは東京競馬会と同じ規則と理解してよさそうです。
明治40年の成績を整理していて頭を悩ましていた問題が1つ解決しました!    
 



よくわかりました。  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月12日(火)00時36分58秒    返信・引用  

日本に例えればキンシャサノキセキが東京優駿を勝って渡豪し、
ヴィクトリアダービーに出るようなものでしょうか。

そういえば明治末期の盛岡で米国産2歳牝馬のコムプレツクスが
2マイルの優勝戦で第4コーナーまで先頭を走ったという記事を
読んだ記憶があるのですが、何で読んだのか思い出せない・・・    
 



一足先に  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 2月11日(月)23時38分27秒    返信・引用  

ふてきさんの説明が早かったですね(笑)    
 



問題なしです。  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 2月11日(月)23時36分20秒    返信・引用  編集済  

南半球の馬齢更新は7月1日ですから、昨年のペルーダービーは2004年7月1日以降に
生まれた馬に出走資格があることになります。ペルーでは3歳上半期にダービーが
行われるので、北半球産馬を南米の馬齢に当てはめると北半球産馬は実質2歳下半期で
出走することになります(もちろん南米では3歳扱いですが2kgのアローワンスが
あります)。2005年2月13日生まれのTomcitoは北半球の馬齢で2歳でペルーダービーを
制したことになります。現在Tomcitoは北半球馬齢で3歳なので、
フロリダダービーorUAEダービー出走は問題なしです。

ペルーでは1974~2001年まで北半球馬齢を採用していましたが、
2002年に南半球馬齢に戻したので、上記のようなずれが生じるようになっています。    
 



トムシート  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月11日(月)23時17分58秒    返信・引用  

05生まれですから、北半球流で言うところの2歳秋に3歳クラシックを
走ったわけですよね。
あさ◎の1972さんもこの時期に2400mをこなした事を驚かれてました。
生まれ月日はわからないのですが、南半球への輸出を目論んで生産した「遅生まれ」で
ないことは確かですよね。もし05年の7月以降に生まれていたのなら、ペルーで
出走可能となるクラシックは08年(本年)になっちゃうわけですから。

似たケースで思いつくのは Canonero ですけど、ベネスエラは北半球基準の
競走体系ですもんね。普通にベネスエラで2歳レースを使ってから、北上して
薔薇路線を目指したと。    
 



Tomcito が  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月11日(月)22時37分3秒    返信・引用  

3月29日にフロリダダービーまたはUAEダービーに出走
というニュースを読んだんですが、この馬去年秘ダービーを
勝ってるんですよね。それで北米産。
フロリダダービーに出られるのなら2歳で秘クラシック戦線
を走った? どこかに間違いがありそうですけど・・・    
 



薬物違反  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 2月10日(日)18時02分28秒    返信・引用  編集済  

です。詳しくはこちらをどうぞ。

http://www.clasicocaribe.org/malnegocio.pdf
http://www.clasicocaribe.org/Clasico_00/Noticias_clasico/DIC28PHoa.htm
http://www.clasicocaribe.org/Clasico_00/Noticias_clasico/EN11EUMOB.htm    
 



CLASICO DEL CARIBE  投稿者:むー  投稿日:2008年 2月10日(日)15時05分32秒    返信・引用  編集済  

の2000年優勝馬はMy Own Businessだと思っていたのですが、
どうやら資格剥奪になっていたよう。
なぜそうなったのでしょうか?    
 



発見ですか!  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 2月 8日(金)02時07分5秒    返信・引用  

藤枝の番組表が見つかりましたか。どこかに紛れているとは思いましたが、
見つかって何よりです。

例のコイワヰの斤量、このレースの斤量自体が不可解ということですか。
なかなか忙しくて、該当レースの斤量条件を確認に行けていないのですが、
通りすがりさんの説明を聞く限り、謎が一層深まった感じですね。
そもそもコイワヰが160より下回っていること自体、さっぱりわかりません。

競馬法制定以前の公認競馬時代の斤量ですが、競走成績を調べていると、
かたっぱしから不可解な斤量が出てきます。
同開催の馬齢重賞の新馬戦なのに、斤量が設定されている馬齢斤量と
一致しないという例は多々ありです。
番組表をみると初日の馬齢新馬戦は設定斤量と一致しているのに、
2日目の馬齢新馬戦は設定斤量と全く一致しないとか。

また明治末期の外国馬の馬齢斤量は、年齢に関係なく
抽籤馬(牡馬137、牝馬132)、抽籤馬以外(牡馬147、牝馬142)
ですが、明治40年初季の川崎競馬の3日目第5競走をみると
4歳馬が131ポンドとなっていて全く理解できません。
他の外国産馬の競走は設定斤量通りなのに。。。

競馬規則を見ますと、全国の公認競馬の成績が一括に管理されていなかったのか、
勝ち鞍の通産増量、つまり負担斤量の正否は馬主の全責任とされています。
言い換えれば、通産増量をごまかすことも可能であったともいえます。
実際に、本当の通産増量よりも全く少ない斤量が番組表に掲載され、
そのまま出走している例を確認しています。

また、まだキチンと確認はとれていないのですが、
明治40年は騎手減量が認めてられていたようで(馬齢戦で新人騎手は-5か?、
明治41年以降は"騎手減量は認めない"と番組表に掲載されている)、
馬齢戦で設定斤量よりも少ない斤量で出走している例が見受けられます。

この時期の負担斤量に正確さを求めることが、無理な話なのかもしれませんね。  

 


大正元年秋季藤枝の番組  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月 7日(木)01時02分0秒    返信・引用  

発見しました。昭和期の番組中に紛れていました。

例のレースは番組自体がおかしいですね。各馬の定量を計算してみると
コイワヰは計算上176、番組上は160となり他馬を16ポンド逓減
アヅマはきっちり160なのでコイワヰが出てくれば144になる
ミツイワヰは134なのでコイワヰが出てくれば118になる

ですから番組にはコイワヰ160、アヅマ160、ミツイワヰ134とあるべきで
実際にコイワヰが出走した場合それぞれ160、144、118になるのが本当。
ところが番組にはコイワヰ160、アヅマ160、ミツイワヰ118と書いてあり
成績では154、154、118となっているわけです。謎すぎます。  
 



アスフオード輸入は  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月 6日(水)09時06分14秒    返信・引用  編集済  

1932年のようですから、Trigo の活躍あってのものなんでしょうね。
しかし、アスフオード、Trigo、Harinero の残した成果と比べると、
プリメロの爆発ぶりは異様なほどですね。 
http://www.pedigreequery.com/athford
   
 


今の今まで  投稿者:岸辺円六  投稿日:2008年 2月 6日(水)00時00分37秒    返信・引用  

プリメロの成功を受けてのアスフォード輸入と思ってました。
20年以上そう思っていた事になります(T_T) 恥ずかしい。
考えてみれば当たり前ですよね。プリメロ産駒がデビューした頃には、もう輸入は難しいでしょうし。
どこで思いこんだんだろう…。    
 



寺山節  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月 4日(月)07時38分3秒    返信・引用  

今の時代だとネットが果たしているような部分も含んでいたのかもしれません。
やはりあの時代にあっての寺山なのでしょうね。

アスフオードが先に輸入されていて、産駒がデビューする直前くらいの
プリメロ輸入なんですね。どういう繋がりがあったものか。
アサフジ×アスフオード牝馬いたんですね。

マンラン 牝 1951 鹿 / *プリメロ 系
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
   *プリメロ         Blandford         Swynford          - Blanche            3-o
アサフジ             Athasi            Farasi            - Athgreany          22-a
  1943 鹿            *シアンモア       Buchan            - Orlass             21-a
   第四ウェッディングウェッディングサー*ダイヤモンドウェ - 第四ヘレンサーフ   16-c
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
   *アスフォード     Blandford         Swynford          - Blanche            3-o
フォードガット       Athasi            Farasi            - Athgreany          22-a
  1941 鹿            *サイクリスト     Cylgad            - Cyme               4-k
   フラハー          クロンファート    *インタグリオー   - *クロンファート    14
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
  *プリメロ = *アスフォード 1931  :  2 x 2  :  50.000%
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
                                         SireLine for Windows Ver1.50 - Build 496


ハートフジ 牝 1953 鹿 / *プリメロ 系
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
   *プリメロ         Blandford         Swynford          - Blanche            3-o
アサフジ             Athasi            Farasi            - Athgreany          22-a
  1943 鹿            *シアンモア       Buchan            - Orlass             21-a
   第四ウェッディングウェッディングサー*ダイヤモンドウェ - 第四ヘレンサーフ   16-c
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
   *アスフォード     Blandford         Swynford          - Blanche            3-o
フォードガット       Athasi            Farasi            - Athgreany          22-a
  1941 鹿            *サイクリスト     Cylgad            - Cyme               4-k
   フラハー          クロンファート    *インタグリオー   - *クロンファート    14
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
  *プリメロ = *アスフォード 1931  :  2 x 2  :  50.000%
-------------------- ----------------- --------------------------------------------
                                         SireLine for Windows Ver1.50 - Build 496    
 




プリメロ系で  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 2月 4日(月)03時02分23秒    返信・引用  

最も成功した種牡馬はトサミドリでしょうか。その産駒にヒシヤクシンという
馬がいて、阿部氏の馬なので「菱+躍進」だと思われます。しかし寺山修司は
予想で「ヒシヤ・・・苦心するようではいけない」と切って捨てました。また
ガーサント産駒のタイシユウを「歴史上大衆が勝利したことなどない」と否定
してみたり。近頃の馬名解説とは一味違いましたね。

プリメロの全兄のアスフオードも輸入されてるんですね。なぜか九州に配置。
戦後プリメロ産駒のアサフジが九州で成功しましたが、アスフオード牝馬との
配合がぴったりだったと思います。    
 




研究者たる前提として  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月 3日(日)20時11分36秒    返信・引用  

そもそもが競馬ファンであること、てのは是非お願いしたいところですね。

プリメロ父系長らくお疲れさま、です。
約70年、内国産6代ですか。
最後の姿は消え逝かんとするアングロアラブ、そして荒尾競馬場。
最高の美です。これは。    
 



勝手に消滅させないで・・・  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 2月 3日(日)09時22分32秒    返信・引用  

「競馬に対する陸軍の要求は常に、「体幅骨量に富み、持久力を備え、かつ体高極度に
高からざる産馬」であったが、これと馬券を買うファンのための競走の興味とを両立
させる事は非常に難しかった。遊びに徹したイギリス競馬の結晶がサラブレッドである
ように、興味を求めて競走を行うならばサラブレッド偏重になるのも道理である。事実、
競馬法制定後の日本競馬もその様を呈していたし、戦後の競馬でも同様に繋駕競走や
アラブ系競走は消滅している。」(146ページ)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/2983/3/Honbun-3864_09.pdf

こういう断定的記述を見ると、素人の私でもいささか首を傾げざるを得ませぬ(^^;
実用性とは関係なく繋駕競走の方が盛んな国も多いですし、アラブ系競走の廃止について
これだけで済ませられては泣き出す人もいるでしょう。

父系馬鹿さんのブログで知ったのですが、アラブに残っていたプリメロ直系最後の競走馬
(ハイメーカー)が昨年一杯で引退し、サイアーライン完全消滅したそうですね。おまけ
に行方不明だそうで、(-人-)ナムナム・・・    
 



歴史家のとるべきスタンス  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 2月 2日(土)21時33分1秒    返信・引用  

対象が競馬史となると研究者も限られた数しかいないでしょうから
より一層の慎重さが求められるということでしょうか。

ヒロノタイフウは全く。。昭和55年前後は距離があったんですよね、競馬と。
桜花賞がハギノトップレディの5着、オークスがケイキロクの7着ですか。
翌年は京都大賞典3着の前に、近年出世レースとして知られる阿寒湖特別を
勝ってるんですね。ダート時代でしょうけど。
マルタカタイソンとは叔母、甥の関係で同父ですから、かなり近い血統構成になりますね。    
 



マクロ・ヒストリーの  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 2月 1日(金)23時01分59秒    返信・引用  

歴史ヲタである私は、モンゴル人が馬に乗ってユーラシア大陸の東西交通路を開き、
次は同じ道を疫病がネズミに乗って世界を席巻したという「馬史観」+「疫病史観」
の信者でもあるわけですが、同好の士にはオススメの聖典が最近復刊されました!
ウィリアム・H・マクニールの『疫病と世界史』(2巻)中公文庫です。

「疫病の歴史は好事家的考証家の縄張りだった。これは、本質的に無意味な
 データを、ただそれがそこにあるからという理由で、孜々として書き留め
 ることに喜びを見出す人たちである。だがあの「黒死病」は厳然たる事実
 であり、また、軍隊内の悪疫の突発が軍事情勢を急変させ、時には勝敗の
 帰趨を決定してしまったような例が多数存在する。これらのエピソードを
 全然無視してしまうというわけにはいかない。だが、そこに見られる予測
 不能性が大抵の歴史家を落ち着かなくさせるのだ。ひとは誰でも、人類の
 過去の経験が意味を持つものであることを願う。そして歴史家は、過去の
 諸事件のうち、予見でき、定義でき、そしてコントロールできるような要
 素をことさら取り上げることによって、この万人共通の欲求にこたえよう
 とする。ところが、戦時平時を問わず疫病の流行は、それがなにか決定的
 な役割を果たしたような場合には、過去を筋道立ったものにしようとする
 この努力にまっこうから対立する。そこで歴史家は、こうしたエピソード
 をつい過小評価してしまうというわけなのだ。」(序論より)

ヤグラステラはなぜか父系表から落ちてましたね(^^; 中央競馬のシーホーク
牝馬で印象に残っているのはあまりいないな。とっさに名前が出てきたのは
ヒロノタイフウくらいでしょうか。。。  
 



懐かしいですね  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 1月31日(木)20時28分48秒    返信・引用  

ヤグラステラ。
メジロマーシャスの函館記念で3着だったんですよね。
あの年の北海道シリーズでの印象が強いです。まともに馬券買ってた頃ですし(笑)

地方競馬に関しては(特に道営以外)ネット時代になるまで無知蒙昧だったもので、
タカフジミノルもよく知らなかったです。第二ミラの系統と第三ミラの系統では
累代間でそれなりに年齢差も出てきていると言うことになりますか。

あの頃は何の意識もなかったのですが、個人的にリアルタイムで活躍を目の当たりに
できた「ミラの子孫」はいよいよヤグラステラだけ、と言うことになっちゃうの
かもしれません。    
 



シーホーク  投稿者:岸辺円六  投稿日:2008年 1月30日(水)22時39分11秒    返信・引用  

好きのせいもありましたが、ヤグラステラはいつも気になる牝馬でした。    
 



ミラ  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 1月30日(水)21時27分33秒    返信・引用  編集済  

ミラの血統が証明される…そんな妄想は常にしています(笑)

下記の博士論文、ざっと目と通してみました。
「競馬」は歴史・政治・経済・文化など様々な学術的テーマになりえるはずなのですが、
これまで無視されすぎていた感があります。
どんどん学術面で研究が進んでいくのはよい傾向ですね。

ただこの論文は競馬史の面で事実誤認も見受けられます。
まぁ、競馬史は学術的研究が進んでいないので専著も限られてきますから、
そこと突くのは酷でしょうかね。
また、僕とは分野が違うので何とも言えないのですが(僕は史学を専攻していたので)、
政経ではこのような内容で博士論文の審査が通ってしまうのだぁ~と少し思った次第です。
史学論文の構成から言えば、これではキツイかな。。。
ちょっと凝った概論、と感じがしてしまいました(内容は興味深いですが)。

近現代史や政治史は利用できる資料が多いという利点がある一歩で、
自分の都合のよい資料を揃えて論を立てがちになります。、
それに資料を利用するにあたってのいわゆる資料批判が必要だと思うのですが、
そのあたりが物足りなかったかな。
それは富山大学の立川氏の競馬史論文もそうなのですよねぇ~。
内容は面白いし、注目すべき論なども見受けられますが、
史学論文としては他の近代史論文と同様に史料批判がないので、
物足りなく感じてしまう。まぁ、近現代史の人に言わせれば、
中世以前とは史料の信用度が違う、ってことなのですが(笑)
史学は近代以前と以後で論述が異なるというか、
史料が少ない分野を研究していた僕には、
近代史の人らが羨ましかった…そんな思い出があります。
最後は私事でした!    
 



これもサラブレッドですね。  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 1月30日(水)02時08分47秒    返信・引用  

http://www.pedigreequery.com/takafuji+minoru    
 



これまた全く関係ありませんが  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 1月29日(火)21時22分11秒    返信・引用  

いつのまにやらタイトル替えられていたんですね>スキッツォイド・マン

ミラの末裔がサラブレッド認定受けていたのも知らなかったですし。。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E7%B3%BB%E7%A8%AE
   
 


直接には関係ありませんが  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 1月29日(火)07時42分50秒    返信・引用  

競馬「事業」史はいまや歴としたアカデミズムのテーマなのですね。
著者(早稲田の博士論文)は東北福祉大学の先生です。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/2983

万々が一、ミラの血統書が発見されて非純血の汚名が1世紀ぶりに雪がれる・・・
などというのは21世紀のスキッツォイド・マンの血統妄想でしょうか(^^;;    
 



ネタもないので  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 1月28日(月)03時06分27秒    返信・引用  

最近思ったことを1つ。

サラ系の祖ミラの馬主であるラシア(ロシア)氏。
この人物の正体がはっきりしていませんが、
ロシア公使でなかいかと推測されています。
当時の駐日ロシア公使は、日露戦争の前後に渡って
両国の関係収拾に尽力したローマン・ローゼン(R.R.Rosen)です。
ローゼンほどの大物ならば、必ず日記か起居注のような記録が残っているはず。
どこか国内の大学図書館にマイクロで所蔵されていないかなぁ~。
そんなことを思った次第です。    
 



今年も  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 1月23日(水)07時54分19秒    返信・引用  編集済  

よろしくお願いします。

家族が難病になると、どこで聞きつけるのか、健康食品(←良く言えば)の
業者がすぐ売り込みにくるらしいですね。値段が半端なく高いものらしく。

「北米で活躍したアルゼンチン産馬」不明だった最後の一頭「イブトット」の素性を
教えて頂きました。Gペガサスさんありがとうございました。大感謝です。
ついでに抜けていた Toda Una Dama と Lovellon も追加して更新しましたので
ご確認ください。

#父系表はスペル違いになってるようです。
http://www.pedigreequery.com/yvetot 
http://homepage1.nifty.com/futeki/arg_usa.htm
   
 


皆様  投稿者:岸辺円六  投稿日:2008年 1月21日(月)21時15分33秒    返信・引用  

明けましておめでとうございます。

偏屈爺 様、父系表有り難く戴きました。

月本氏のブログを拝見しますと微妙な健康法に触れられていて、
やはりそれは無効だったのか、と妙な関心を抱いたり…。    
 



父系表  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 1月17日(木)07時40分59秒    返信・引用  

ありがとうございます。今年のドバイは Latency 以外にもUAEダービー出走を目指す
Cafe Silver、Mach Glory、Morador Llers と揃い、そっち世界の住人には楽しみな
顔ぶれです。まぁそんな年に限って不発だったりするんですけど。

>>中には本人が亡くなっているのに、しばらくの間ブログペットが故人の言葉を
>>中途半端にコピーして書き込んでいるという不気味な都市伝説風の状況もあり。

不謹慎ですが、これは面白いですね。
ブログペットの知能レベルがさらに進化したら。。    
 



最近は  投稿者:GURU@偏屈爺  投稿日:2008年 1月17日(木)01時11分8秒    返信・引用  

闘病記(それもガンとか不治の病気)のブログやHPを探訪する方に競馬よりずっと多くの
時間を割いてる始末。。。現代版「往生要集」とでもいうか、一種の「死の文化」がネット
上で形成されているような気がします。具合の悪さを訴えながら更新を続けていて、ある日
書き込みが途絶えたかと思うと、しばらく経って遺族の方が死亡を告知して経過を説明する。
緩和ケアの技術が進んだためか、ある程度のQOLを維持しながら最後の一週間で急変という
パターンが多いようですね。もともと皆さん残すつもりで作られているようだし、中には本人
が亡くなっているのに、しばらくの間ブログペットが故人の言葉を中途半端にコピーして書き
込んでいるという不気味な都市伝説風の状況もあり。

ネタ切れで存在意義をほとんど喪失した父系表ですが、例の ROMMY FAVERSHAM 師の資料
を加えて本体のみ細々と更新しました。ドゾー ( ´д`)⊃
ttp://teenoso.hp.infoseek.co.jp/present2.lzh    
 



贅沢を言うなら  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 1月15日(火)07時43分34秒    返信・引用  

いざ死ぬ段になった時に「一言」でも遺せる余裕がある状況だったらなぁ、
と思うことはあります。

逆に充分時間がある場合は。。何か迷いが出てきそうな。。
ネット上の痕跡なんかは全部消しちゃうかもしれませんね。
ネット人間としては失格かもしれませんけれど。    
 



当方も  投稿者:有芝まはる(ry  投稿日:2008年 1月13日(日)18時58分9秒    返信・引用  編集済  

たま~に書いてたので、ちょっと月本さんの件はショックでしたねぇ。
やはりネット社会でこういう急死の場合、どうしてもネットに直前まで
書かれてることが多いので生々しい、みたいなのもありますし……。

通りすがりさま>
は、「う」で始まって「)」で終わるHNの方ですか?(^^;;    
 



ちょい下の世代ですが  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 1月11日(金)17時19分0秒    返信・引用  

みなさんも健康には十分ご注意くださいませ。
是非とも成し遂げていただきたい(こちらが勝手に願っているだけですが)仕事を
抱えてらっしゃる方がここには多くおられますので。。    
 



月本板って  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 1月11日(金)01時22分24秒    返信・引用  

私がネットを始める以前に賑わっていた板で、
噂はよく聞きました。
主催者は月本裕さんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%9C%AC%E8%A3%95
ブログには7日の書き込みがありますので、
急逝だったようで。。    
 



この板へ来る前に  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 1月11日(金)00時39分14秒    返信・引用  

月本板というのに何回か書いたことがあるのですが、
そこのサイト主が逝去されました。40歳代後半かと。
海外の競馬に詳しい方でしたが・・・    
 



たぶん  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 1月 9日(水)00時13分28秒    返信・引用  

藤枝の番組帳はどこかに紛れていると期待したいるのですが。。。

『東京競馬倶楽部史』第三巻に、明治43年以降は成績記録の原本である競馬台帳が
一季も欠けずに残されていて、記録はそれを写し取ったとあります。
その競馬台帳の写真が巻頭写真として掲載されています。
『東京競馬倶楽部史』刊行の当時は、競馬台帳が現存していたのは間違いなく、
倶楽部史の編者はガゼットを写した可能性は薄そうです。
160超過の他馬の斤量を逓減だとは思うのですが、
なぜ基準となるコイワヰまで減量?という疑問が。とりあえず保留が無難かと。。

江湾競馬場に日本人騎手、これは興味深い。メグロ氏は本名なのか、
それとも名義名で過去に東京競馬場に関わった人物なのか。
この時期の中国競馬の成績が纏まった形で残っていれば、
もっと日本の競馬との関わりが分かるのかもしれませんね。
香港の競馬博物館などのは残っていないかな。
青島などは小倉競馬と交流があったと聞きますし。
中国競馬もそうですが、朝鮮や台湾・樺太の外地競馬の成績も
一度整理してみたいもです。多くの発見がありそうです。    
 



藤枝の件了解しました。  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 1月 8日(火)19時28分35秒    返信・引用  

惜し過ぎる話だと思います。どうしてそんなことになるんでしょう。

コイワヰの件はペンディングですね。何よりアヅマも154ポンドなのが怪しい。
番組では両馬160ポンドですが、計算では両馬とも160ポンドを超えるはず。
当時は160ポンドで打ち止め他馬の斤量を逓減したわけですが、コイワヰが出る
レースでは他馬はことごとく逓減されていて、アヅマも例外ではあり得ないはず。
実際にアヅマは154ポンドになったのだと思います。ガゼット新聞はコイワヰも
ついでに154と誤記してしまった。倶楽部史の編者はガゼットを写した・・・と
いうのが今の私の推理です。

しかし成績を報じた資料に154とある以上それを表に出して、160説は注記に
留めるのが正しい態度かもしれません。

ところで上海競馬の成績は1922年と25年しかわからないのですが、日本人と
思われる騎手もいて、有名な上海競馬場ではなく江湾競馬場の方ですが1922年
には Mr. Y. MORIMOTO が Takeo で2勝、 Mr. H. TOMONO が Ikoma と Mikasa で
1勝ずつしています。3頭とも馬主は MEGURO です。

1925年にはメグロ氏はいません。ひょっとすると馬券禁止時代に上海で活動し
日本の競馬が復興したので立ち去った人物がいたのかもと想像しています。    
 



新年賀正  投稿者:Lucky Boy  投稿日:2008年 1月 7日(月)23時31分10秒    返信・引用  

皆様おめでとうございます。

私のメモによれば、大正元年秋季藤枝競馬の番組は、
JRAに所蔵、根岸には無し、になっております。
JRA所蔵のものは確か製本されておらず、単独1冊のまま所蔵されていたと記憶しています。
このままだといつか紛失してしまのではと危惧していたのですが…。
僕もある時から所蔵されていないことに気が付いていました。
コピーも取っていなかったのでショックでして。
別の番組台帳の間に紛れてしまったか、本棚の裏に落ちていないか
探してみたのですが全く見つからずです。
誰かが借り出したのでは?とも思ったのですが、
まったく戻る気配がなかったので、いったいどうしたものかと思っていた次第です。

斤量の話題ついでに1つ。「天皇賞の世紀-第一部」第11回で、
大正5年4月30日のコイワヰの斤量について、『東京競馬倶楽部史』の154ポンドは誤りで、
正しくは160とありますが、ジャパンガゼットの記述もコイワヰの斤量は
154ポンドとなっています。『東京競馬倶楽部史』の明治43年以降の記録は
信用度が高いですし、ジャパンガゼットも信用度の高い資料です。
となると、番組表を確認していないので何とも言えないのですが、
やはり何らかの減量措置があったのかも、と思うのですが如何でしょうか?    
 



昨年中は大変お世話になりました  投稿者:ふてき  投稿日:2008年 1月 7日(月)19時20分48秒    返信・引用  

今年もよろしくお願いいたします。

回答持ち合わせませぬ故、新年の挨拶のみで失礼いたします。
忝く。。    
 



明けましておめでとう  投稿者:通りすがり  投稿日:2008年 1月 7日(月)18時24分31秒    返信・引用  

ございます。

さて、目下最大の関心はスイテンが大正元年10月26日藤枝で何ポンドを
背負ったのかなのです。当然それは番組を見れば一目瞭然と思ってました。
私のメモによれば同年秋競馬の番組がJRAと根岸にあるはずでしたから。
ところが正月明けに行ってみるとどちらにもない。番組が存在しない。全く
狐につままれたような話で、真相をご存じの方がおられればお教え下さい。