2011年12月、11月




あくまで 投稿者:ふてき  投稿日:2010年11月 9日(火)20時21分27秒  返信・引用  

暫定的に、ですが登録しました。
http://www.pedigreequery.com/waikiki19
後々訂正情報等ありましたらお知らせくださいまし。

Demure の半弟がシドニーカップ勝ち馬みたいですね。
http://www.pedigreequery.com/tricolor10
血統はそれなりのモノだったのかな。当然安い買い物ではなかったでしょうね。    
 



その可能性の方が 投稿者:通りすがり  投稿日:2010年11月 8日(月)18時28分11秒  返信・引用  

高そうですね。血統書では demure3 は1908年に父 st+alwyne の
無名鹿毛牝馬を産んでいるのです。栗毛だったとすれば一致します。
毛色が違うので同じ名前の牝馬を探してきたのですが。    
 



確認ですが 投稿者:ふてき  投稿日:2010年11月 4日(木)19時33分22秒  返信・引用  

Whilda の母 Demure はデルマに登録されている Amberite×Modesty(1879) の Demure3
http://www.pedigreequery.com/demure3
ではないということですね?
この馬の産駒として父 St.Alwyne の全兄弟が2頭登録されていますから、
http://www.pedigreequery.com/progeny/demure3
普通に考えたらこの demure3 が St.Alwyne との間に Whilda を産んだ、と
考えられそうですが。ただしデルマに登録された demure3 の牝系情報が
間違っている可能性はあるので、豪スタッドブックで確かめてみると、
どうやら同じ血統で登録されているようなのですよね。
http://www.studbook.org.au/Horse.aspx?hid=557661

もし仮に、件の Demure が demure3 と別馬とすると、
同一年(1900年)生まれの繁殖牝馬の中に、父を同じ Amberite とする
2頭の Demure がいて、
一頭(demure3)は St.Alwyne との間に2頭の全兄弟を産み、
もう一頭は St.Alwyne との間に Whilda を産んだ、ということになりますよね。
勿論その可能性はゼロではないでしょうけど…。
そうではなく、父が Amberite で1900年生まれの Demure は1頭だけ存在しており、
スタッドブック(及びデルマ)の登録情報が間違っている、
ということになるのでしょうか。
なんか、くどくなっちゃってすいません。    
 



ワイキキーは豪州駐在武官が 投稿者:通りすがり  投稿日:2010年11月 4日(木)02時04分44秒  返信・引用  

帰朝の際に御料馬の購入を命じられて見つからず最後の寄港地であるブリスベーンで
英国皇太子に縁のある名馬という触れ込みで買った馬です。皇太子杯競走の勝ち馬と
いうのは武官の思い込みかもしれません。栗毛、1914年生、父ウイルカ、母ドレ
ツサヂイのサラブレッドとして、大正11年5月から14年8月まで新冠御料牧場で
供用されましたが、その後サラ系に落とされています。事実の血統は

Waikiki, ch.c.1915, Tressady - Whilda
父はデルマにいる tressady で、母は Whilda, ch.f.1908 です。
母父は st+alwyne で、母母は Demure, b.f.1900 なのですが、demure3 ではありません。
母母父は amberite2 で、母母母は Bashful, br.f.1895 かと思われます。その場合、
母母母父は trident2 で、母母母母は第1候補 Modesty, f.1886
母母母母父は Winchester, br.c.1882 (現役一流競走馬、Winchelsea, br.c.1868 では?)
第1候補系5代母は無名、その父は Sir Henry, ch.c.1863, Sir Hercules - Blanche

母母母母の第2候補 Modesty, ch.f.188- は登録されていませんがサラブレッドです。
父は grandmaster2 または grandmaster4
母は hecla9 または Hecla, br.f.1879 maribyrnong - Hebe (同名馬多数)

ただし、母母母が Bashful, bl.f.1895, kingsborough - modesty2 ならあっさり解決です。
血統書に現れないサラブレッドが多数いて(金を払って登録するんですからね)
成績書に出てくる子供の側からの血統捜査ですから骨が折れます。    
 



スゴイ写真ですね 投稿者:ふてき  投稿日:2010年11月 1日(月)21時02分9秒  返信・引用  

皇太子の騎乗フォームがヤバイっす。
当時にしては鐙も短めなんじゃないでしょうか。

ワイキキーは知りませんでしたが、時代が時代ですから
情報不足をいいことに詐欺師紛いの馬喰が跳躍跋扈してたんでしょうね。    
 



名馬ワイキキーなるものが 投稿者:通りすがり  投稿日:2010年11月 1日(月)00時26分3秒  返信・引用  

新冠御料牧場で供用されひどい産駒しか出さなかったわけですが、調べてみると
当然ながら英国皇太子杯競走の優勝馬ではなく、最終レースで3着の下級馬でした。
では英国皇太子との関わりはどこにあるのかというと
Edward, Prince of Wales on a race horse at Ascot, Brisbane during his visit 1920
これをコピペしてグーグルで検索すると出てくる写真の馬がワイキキーのようなのです。

皇太子は7月27日朝ブリスベーンご到着、午後3時半アスコットパーク(現在のイーグ
ルファーム)に御台臨、皇太子杯競走を観戦されました。成績書には28日と書いてあり
ますが、1日繰り上がったようです。翌28日の予定は11時半から博覧会場でしたが、
9時に競馬場に現れ、数頭の馬の調教に騎乗しました。29日は12時半にタウンホール
定礎式から7時半の晩餐会まで空いていましたが、お付きの者をゴルフに行かせておいて
またも競馬場に現れ、1頭調教をつけ、プライベートレースを2鞍行って1勝しました。

30日の予定は午後からでしたのでクイーンズランド・ターフクラブは午前中に5鞍のプ
ライベートレースを用意し、当然皇太子にはよい馬をあてがったのでしょうが、レッドロ
ックでは半マイル48秒5分の1のコースレコードを樹立しました。この日はどこで聞き
つけたのか数百人の観衆が競馬場に押しかけ、写真師も来てきたそうです。皇太子はたち
まち4連勝したのですが、最後に乗ったワイキキーだけはマッギル氏騎乗のトニオに及ばず、2着となりました。皇太子は翌朝ブリスベーンをご出立されました。