2010年6月、5月 実は 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2010年 6月28日(月)00時08分14秒 返信・引用 私の調査上限が今のところ明治29年でして、 明治28年以前は手つかずなので明治24年春の御賞典については手元に資料が まったくありません…。気になるところですね。 大正10年秋季の札幌で、吉田一太郎が父吉田権太郎名義の真驍に騎乗しています。 明治24年春の御賞典 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 6月25日(金)19時31分56秒 返信・引用 「天皇賞の世紀」連載時点では日時と下賜品目しか判明してなかったようですが、 その後に随分と調べが進んでいたのですね。 あまり参考にはならないと思いますが、「日本の調教師」から… 『「日本競馬史」巻2(中央競馬会刊)から林義和の騎乗成績を拾うと、 第3回内国勧業博覧会競馬(明治23年5月・上野不忍池)で北海、 アーデルカテール、金華山で3勝、ほかに2着2回。共同競馬(同25年) ではシャリマール、アニバル=2勝、タマサンの計4勝。』 となってますね。 「競週地方競馬」の発行時期がわからないのでアレですが、あるいは 24年と25年の騎乗者名が混同されてしまった、ですとか。 小川佐助師は昭和9年、土門健司師は昭和6年に公認競馬の免許を取得してますか。 その一方で吉田牧場一族や御下賜馬主も登録されていたり。 申請すればよほどの問題がない限りライセンス発行、という感じでしょうか。 免許というより騎乗許可という感じで。 こっちの方が重要でした。 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 6月24日(木)22時51分9秒 返信・引用 明治24年春の帝室御賞典拝受馬はアンニバル、騎手林義保。 という記事を『競週地方競馬』で見つけたんですけど、確かに 4月29日に明治天皇が行幸されてまして、毎日新聞にも時事 新報にもアンニバルが1マイル半の雑種馬景物を勝ったとある んですが、騎手は目賀田萬喜なんです。どこを探しても林義保 (当時は林駒吉)が勝ったレ-スは見当たらないのです・・・ ペンディングですかね。 昭和9年の地方競馬騎手名簿発見 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 6月24日(木)21時50分25秒 返信・引用 後に公認競馬で活躍する名前もあります。 青森県三戸郡北川村 梅内慶蔵 北海道浦河郡浦河町 小川佐助 長野県松本市大字高宮 小川深恵 富山県婦負郡宮川村 庄野穂積 北海道沙流郡門別村 土門健司 馬主として御賞典を拝受したのに騎手稼業に逆戻り。 札幌市北六条41丁目 坂東角太 この人たち騎手だったんですね。 北海道勇払郡安平村 吉田一太郎 北海道勇払郡安平村 吉田権三郎 勉強になります。 投稿者:倫敦納豆 投稿日:2010年 6月22日(火)03時00分47秒 返信・引用 お話からイメージすると、当時のB2は今のA3くらいに感じられます。 そうするとホウリンも結構いいところまで行っていたのですね。 ということは、ホウリンが倒した相手を丹念に探すと、 中には後の重賞勝ち馬がいたりして。 通りすがりさん、ありがとうございました。 解説ありがとうございます 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 6月21日(月)23時11分30秒 返信・引用 D4のその下まであったんですか。 こつこつ階段上がるには時間がかかるわけですね。 全然違う話ですが、今度の日曜にモンテリコで行われるマイル王決定戦 OSAF賞に*ケンブの仔が出ます。 http://www.pedigreequery.com/m+v+p+manning プログラムの生産者名も和田さんでクレジットされてます。 キワモノっぽい名ですがここまで4戦4勝。 一線級とは初めてあたるので勝ち負けはなんとも言えませんが。 そういえば先日ジャマイカの重賞を藤田與志男氏の生産馬が勝ってました… http://www.pedigreequery.com/ronron もちろんアラ系のB2です。 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 6月21日(月)20時38分16秒 返信・引用 当時の南関はサラ系・アラ系ともA1・2、B1・2、C1~4、D1~4で その他に未格付馬がいました。頭数はD級や未格付が多く、C級はそこそこ、 A級やB級は貴重な存在でした。クラスのインフレがまだ起こっていません。 B2特別を勝ち上がるとA12B1特別でトップクラスに対戦する感じです。 当時のC2は今の中央競馬なら1000万下、B2は1600万下でしょう。 A1はA2から上がったばかりの馬から全国的強豪まで混在していますから、 東海でやっていたサラ系A1アラ系C1混合レースではアラ系A1馬が上位と 下位を占め、3着から7着まではサラ系C1馬なんてことがよくありました。 なるほど 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 6月20日(日)10時06分9秒 返信・引用 納得です。 センジュはサラ系競走ではC2特別を勝ち、B2C1特別を勝った後 (間にアラブ重賞を挟みながらですが)サラ系オープンに出走し始めてるようです。 ご指摘の通り当時はC2が最下級で、B3もなかったのでしょうね。 ただアラブ競走の方では「B23特別」とか「A2下特別」などのレースに 出走していたようなので、サラ系競走とは違い、かなりクラスが細分化されていたの だろうと思われます。 であれば、ホウリンが16連勝してもなおB2に甘んじていたのも合点がいきます。 やはりアラブでしょうか 投稿者:倫敦納豆 投稿日:2010年 6月20日(日)02時47分15秒 返信・引用 お返事ありがとうございます。ご期待に応えたいところですが、 私は競馬歴は長くなく、アラブ競馬についてはほとんど知識がありませんので、 ご質問に対して確信ある回答はできません。以下の内容は推理・想像レベルです。 前回の投稿時には、16連勝もしてB2とはクラスが低すぎるのでは?と思って アラブでデビュー後に途中でサラ路線に転向してB2まで行ったのかと 一人合点で考えてしまいました。(ここで混乱させてしまった様ですみません) ですがお返事にある、「センジュがサラのレースに出たときはC2スタート」 との記述にびっくりしました。センジュは当時の南関東のアラブ最強馬ですが それがサラではC2扱いとは。(南関東はA1~3、B1~3、C1~3です) あるいはアラブでの実績が全く評価の対象にならず、最下級から始める方式で、 当時はC3がなかっただけなのかもしれません。(完全に想像の部分です) いずれにせよ、それでは限られた戦績でサラのB2まで上がるのは困難です。 それに、アラブ馬がサラ路線に転向する理由は、まず斤量関係なのでしょうが、 最上クラス以外ならば強い馬は昇級しますので斤量はそれほど重くなりません。 よってホウリンはサラ路線に転向していないのだろうと思うようになりました。 問題のB2特別も、アラブのB2だと予想します。 はじめまして 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 6月18日(金)22時54分19秒 返信・引用 organa さんのところで博識ぶり常々拝見しております。 この板も識者の方々に興味深いネタを提供して頂いているのですが、 いかんせん管理人の力不足が否めず、宝の持ち腐れになること多々ありの現状です。 今後ともお気軽にご参加頂ければ大変ありがたく存じます。 ホウリンの件、シュミレーションありがとうございます。 地方競馬、とりわけ南関事情はど素人なもので、ピントの外れた疑問かもしれませんが、 そもそもこのB2特別はサラ系競走?それともアラブ系の競走なのでしょうか? 参考になるかどうかわかりませんが、5歳上の世代のセンジュの戦績を見ると、 サラ系競走に出走し始めるのはアラブのオープンに昇格してからのようです。 ちなみにこの馬はその際サラ系のC2に編入されたみたいですね。 ただし既にアラブ重賞を制しているのでホウリンとは獲得賞金が相当違うと思われますが。 今ならもっと昇級してます 投稿者:倫敦納豆 投稿日:2010年 6月18日(金)03時02分38秒 返信・引用 初めまして。これまでもたびたび海外競馬の情報を見せていただいております。 ホウリン号と地方競馬の昇級システムですが、この馬が3歳7月に今の船橋競馬に デビューしたと仮定して、16連勝した場合のシミュレーションをやってみました。 その結果、16戦目はA2でした。B2は10戦目と11戦目になります。 今回は特別戦をあまり使わない設定で考えましたので、 本当はもう少し上のクラスまで上がっている可能性が高いです。 昇級制度自体も変わったのかもしれませんが、ホウリンの昇級ペースが遅いのは、 アラブでの戦績をあまり評価しない仕組みだったのではないかと想像します。 (この馬がアラブのレースに出ていれば、ですが) 地方競馬の 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 6月 2日(水)22時33分20秒 返信・引用 昇級システム、なかなか改善されませんね。 よくわかりませんが、あれは馬主サイドに都合がいいのかな。 しかし殺処分は無念でした…。 堂山師は反骨の人でしたか。 ネットで調べていて気づきましたが、息子さんかなり前に騎手辞めてたんですね。 道営ほとんど見に行かなくなってたので今更知りました。 本来ならテキの跡取りを考えるはずなんでしょうけど…このご時勢ですからね。 地方競馬は 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 6月 2日(水)20時43分54秒 返信・引用 クラスが細かく分かれていて下の方は賞金も少ないのでなかなかA級まで上がりません。 中央未出走とか未勝利の馬が古馬になって地方で一番下のクラスから走り始めるとすぐに 連勝街道を驀進してしまいます。ホウリンは故障持ちで旧4歳の夏にデビューしましたが 16連勝目がB2特別でした。直後に骨折・殺処分になったようです。 アラブとはいえ父の父がトキノチカラ、母の父がセントオーという興味ある血統でした。 クラキンコは堂山芳則厩舎ですね。腕のいい調教師だと思います。 父の堂山大企知師は帯広の名門と言うか・・・反主流派の大将みたいな感じでした。 いつだったか「リーディングを獲ったのに馬房を増やさないのはなぜだ」と怒る親父さんに 「芳則は生意気だから当然だ」という道庁職員の声が聞こえていたかどうか。 netkeiba DB 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 6月 2日(水)20時00分14秒 返信・引用 って参加型じゃないんですね。 スタッフじゃないと新規登録できないみたいです。残念。 「日本のリボー」ホウリンですか。関係者以外ほとんど知らないのでは。 「歩み」にも名前がないようなので専ら条件戦ばかり走っていたのかな…。 雑学事典はそもそも麻雀のマイナーな役に興味があって古本屋で買ったんですよね。 もう20年以上前になりますか。しかし高額馬の代表としてあげられてるのが タイプアイバーとキジマジョウ(初耳でした)って。時代を感じざるを得ませんね。 関係ないですが、クラキンコ凄かった。久々痺れました。 どこまで信用していいのか 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 6月 2日(水)03時09分4秒 返信・引用 わからん事典ですね。麻雀に関する記述が一番充実してる気がします。 ここでひとつ雑学。 全勝不敗記録を調べていると、どうやら日本記録はホウリンらしいのです。 船橋の小檜山悦雄厩舎にいて、昭和38年7月から39年3月までに16戦16勝。 でもホウリンなんて誰も聞いたことがないんじゃないですかね。 アングロアラブ血統書第2巻に福里という繁殖牝馬が載っていて、昭和35年に 父ミキノヒカリの鹿毛の牡馬を産んでいますが、馬名が書かれていません。 実はこれがホウリンなのです。この表の一番下にいるべき馬なのでした。 http://db.netkeiba.com/horse/mare/000a00ccd1/ 榎本三平事件 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 5月30日(日)09時21分28秒 返信・引用 ギャンブル雑学事典に載ってました。 酔っ払って向正面でうつらうつらしているうちにスタートを切られ、 迫って来る蹄音に目が覚め、慌てて馬群に合流した、と書かれてますね。 もちろん1着でそのまま確定したと。 ここでは「三島の競馬場」となってますが、向正面が10メートルほど 森のトンネルになっていたんですね。そこが事件の現場になったと。 しかしこれ記述者「渡辺啓一郎」となってますが、渡辺敬一郎氏の間違いですよね。 まずは 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2010年 5月25日(火)04時39分12秒 返信・引用 阿部以外の4人は住所から地方競馬が本業で間違いなしですね。 当時、公認だけで食べて行けた競馬人は、大物馬主がバックについた 厩舎ぐらいだったのかな。 長岡競馬は三島競馬の前身ですね。それにしてもバレバレの手を使うとは(笑) 確か大正期の松戸か中山競馬でも同じような事件があった記憶が…思い出せない。 榎本三平は札幌・函館競馬のイメージが強いのですが、 居住は猿橋でしたか。槇田吉一郎が関わった都留競馬にも参戦していたのでしょう。 各県の畜産組合には、戦前の競馬の資料は残っていないかな~と良く妄想しています。 戦前の地方競馬にはとても興味をそそられるのですが、 如何せんそこまで手が回らない…(悲) 阿部以外の4人は 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 5月24日(月)01時37分4秒 返信・引用 この頃から公認に乗ってはいたでしょうが、まだ地方競馬が本業の頃ですね。 名古屋市南区野立町海道二〇六〇鬼頭伊助、静岡県磐田郡笠西村高雄相仙市、 静岡県磐田郡十束村高木齋藤友吉、神奈川県国府津町狩野繋壽となっています。 この他に下目黒の鈴木信太郎と本田保と芹澤武、淀競馬場内の南條源次郎、 阪神競馬場内の安川定治郎と安川三次がいるのです。明らかに公認の騎手。 山本金吾は静岡県田方郡三島町二日町、山岡壽惠次は齋藤友吉氏方です。 尾村は神奈川県藤沢の人でサーカスの軽業師から騎手に転じた変わり種。 もうひとり私にとって馴染みのある名前が山梨県北都留郡猿橋榎本三平。 暮れなずむ伊豆長岡の最終レースでスタートにつかず向正面の藪に隠れ、 馬群が来たところで飛び出して1着という仰天エピソードの持ち主です。 推測 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2010年 5月23日(日)01時48分41秒 返信・引用 昭和3年には藤枝競馬はありませんので、東海騎士会とは 静岡県畜産組合連合会(焼津競馬場・三島競馬場)や 愛知県畜産組合連合会(岡崎競馬場・名古屋競馬場)が主催する地方競馬の 騎手会じゃないでしょうかね。ちなみに山本金吾は三島を拠点にしていたことがあるそうです。 さて「阿部」とは誰でしょう。『九州馬事月報』が一流騎手として挙げている5人のうち、 阿部以外の4人は公認競馬の騎手ですね。 海外を転戦するほどですから、阿部も公認競馬での出走歴がありそうです。 だとすると該当騎手は、大正後期に関東で活躍した阿部四郎かな…。 神埼市 投稿者:ふてき 投稿日:2010年 5月21日(金)23時05分19秒 返信・引用 なるほど旧佐賀競馬場からも程近い場所のようですね。 謎の国際派阿部騎手ですか。 ご多分に漏れずシンガポールのジョッキークラブなんかも 大昔の成績資料は紛失してるんでしょうね…。 山岡壽惠次師の名もあるようで、東海騎士会というのは 藤枝競馬場を本拠とする組織ということなのですね。 川田若彌情報 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 5月21日(金)19時20分54秒 返信・引用 第3回地方競馬騎手講習会(昭和4年8月5~9日、熊本市)の 修了者に佐賀県神崎郡城田村川田若彌がいました。 城田村は現在の神崎市役所があるあたりみたいです。 国際派の先駆者「阿部」 投稿者:通りすがり 投稿日:2010年 5月21日(金)19時11分36秒 返信・引用 騎手中に於ける人格者なり。尚国際的騎手として毎年上海、香港、 シンガポールの競馬場を雄飛す。近年健康を害しあまり騎乗せずと 雖も、尚騎手界に於ける権威たり。好漢益々自愛を望む。 『九州馬事月報』昭和3年6月号にあった「東海の騎手界」です。 一流騎手として相羽、狩野、阿部、齋藤、鬼頭の5人を挙げ、更に 大多氣、吉田、尾村、山川、畑澤、山本の名も出しています。 同年の東海騎士会会員名簿に相羽仙市、狩野繋壽、齋藤友吉、鬼頭 伊助、大多氣仁洲、吉田新一郎、尾村重太郎、山岡壽惠次、畑澤長 太郎、山本金吾とあるのが該当しそうで、仙市は仙一でしょうし、 山本金吾は後の栗田金吾に間違いなく、山川は山岡の誤植と考えら れます。なのに阿部だけが不明なんです。亡くなったのかも。 それにしてもこの名簿すごいですよ。阪神競馬場内安川定治郎とか 下目黒町鈴木信太郎とか明らかな公認競馬の騎手が6人もいます。