2011年12月、11月、10月、9月、8月 お疲れ様でした 投稿者:ふてき 投稿日:2011年12月29日(木)19時20分47秒 返信・引用 数日不在にしてました。すいません。 やはり収穫ありましたか。新発見というよりは 曖昧だった所が明瞭になった感じでしょうかね。 All Breed Database の登録馬見た限りですが Mambrino Patchen の 配合相手にサラブレッド牝馬が何頭かいたようですね。 ダンの考証が的を射ている可能性は結構あるんじゃないかと。 #第二十一号は半血表記にしておきました。 http://homepage1.nifty.com/futeki/ayumi.htm 飛花は1865年生 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年12月27日(火)23時27分11秒 返信・引用 亜米利加ニウヨルク産と書いてありました。 ケプロンが明治5年に東京官園で天覧に供した米国産馬の1頭ですね。 明治8年5月7日七重に入牧。明治20年6月園田実徳に貸与。 ではパークスから川村純義、黒田清隆を経て函館大経の所有馬になったという話は 何かというと、富士越のことらしい。ただし川村、黒田は登場せず、パークスから 直接買ったことになっています。しかし「函館大経氏ノ談話」にはパークスなんか 出てきません。どういうことか考えてみますと、富士越は大経から開拓使が買って いるわけですから、その評価のため大経は誰かから有料で買ったことにしなければ ならなかったんじゃないかと思えてきました。 ドンジユアンは「絶美」とまで書かれています。 血統書は付いておらず、父マンブリーノパッチェンというのはエドウィン・ダンの 考証であるとのこと。ダンはまた、母を純粋種つまりサラブレッドとしています。 白雲の母は和種第二十一号(慶應3年生、月毛、上磯郡泉沢産)。 豊平はやはり持込馬ですね。母の第八号を七重から移したという『北海道立種畜場 沿革史』の記事が間違いで、アメリカから直接真駒内に入ったようです。 灯台下暗しでしたか 投稿者:ふてき 投稿日:2011年12月14日(水)07時50分8秒 返信・引用 ともあれ、お気づきになられて本当に良かった。 どんな新発見が出てきますやら。楽しみ楽しみ。 こちらはもうすっかり銀世界です。お気をつけていらしてください。 もう十年以上何回も 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年12月13日(火)20時37分38秒 返信・引用 読んでいるのに一向に気がつかなかったとは頭が悪いことこの上ない。 『蹄跡』に載っている写真に「自明治六年至同二十年七重牧馬繁殖記」 「牧馬系統明治六年ヨリ」というような冊子が6つ並んでいるではありませんか。 飛花の繁殖記録も豊平の母の輸入時期も七重に関する謎は全部解けそうです。 1ヶ月前に気づいていれば札幌往復は1度で済んだのですが・・・それでも嬉しい。 日本の近代馬産の起点ですからね。 図書室羨ましい 投稿者:ふてき 投稿日:2011年12月 1日(木)19時41分45秒 返信・引用 お勤めお疲れ様です。 こちらも何やかやと忙しく、データ整理が滞っております。 連絡事項等ありましたらご遠慮なくお願いいたします。 コロンビア 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2011年11月30日(水)23時31分59秒 返信・引用 コロンビアのデータブックですか。ここ1年くらい図書室のほうに顔をだしていないかも。 ひさびさ顔を出して閲覧させてもらいます。 千人風呂の写真、興味深いですね。 コロンビア 投稿者:ふてき 投稿日:2011年11月30日(水)20時46分53秒 返信・引用 もう長年カリブ国際には不参加でしたね。 1983年に↓の馬が制したのが唯一の勲章ですか…。 http://www.pedigreequery.com/galilea 湯の川のホテル花びし懐かしいです。修学旅行で泊まりました。 現在の竹葉新葉亭が千人風呂跡地みたいですね。 http://hakodate-concierge.com/cgi-sb2_osusume_concierge/shop/149.html 古い写真みると今で言う温水プールにしか見えませんけれど。 http://archives.c.fun.ac.jp/postcards/include/main/?action=showZoomify&zoomifyImageDirname=5671 http://hakodate-yunokawa.com/photogallery.html?func=viewcategory&catid=1&startpage=4 コロンビアの競馬は 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年11月29日(火)02時12分49秒 返信・引用 1984年までの全クラシコの結果を載せた2巻本を JRA図書室に寄贈してありますので参考になさって下さい。 問題はむしろそれ以後なんでしょうけど。 ところで大正14年の最新函館市街全図で続秀太郎氏の湯の川ホテル というか千人風呂と書いてあるのを発見しました。 湯の川はもともと湯の川女性クリニック付近から南西に流れていたんですね。 竹葉新葉亭の北端あたりに入口があって今の湯の川をまたいで松倉川まで。 http://maps.google.co.jp/?ll=41.778897,140.790653&spn=0.008129,0.008583&t=m&z=16&vpsrc=6&brcurrent=3,0x5f9ef493289aac27:0xea5b465f397ac143,1 生産者協会のサイトで 投稿者:ふてき 投稿日:2011年11月26日(土)20時20分16秒 返信・引用 記事見ました。 コロンビアは今年のカリブ国際シリーズにも不参加のようですし、 やはりボゴタで開催することが競馬再興に必要不可欠なのかも。 今年のエクアドル三冠馬がコロンビア産でしたが、 Thunder Blitz っていう種馬がなかなか有能そうなので 脚光を浴びる機会が増えたらいいなあ、と。 http://www.pedigreequery.com/manzur+manzur ボゴタ 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2011年11月25日(金)23時43分25秒 返信・引用 なんだか、コロンビアの首都ボゴタに競馬場建設計画があるようです。 この25年、地方を転々と移動しているコロンビア競馬場ですが、 数年中に、ボゴダに競馬がかえってくるかもしれません。 まるで疎いのですが 投稿者:ふてき 投稿日:2011年11月 1日(火)21時37分58秒 返信・引用 慶喜公の逃亡劇がかなり前から計画されていたものだったこと、 大経は慶喜に厚く信頼されていたこと、は感じとれました。 大経が貰い受けた「不良の馬」は富士越と考えて 間違いないのでしょうね。 大経は談話の中で 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年11月 1日(火)00時24分43秒 返信・引用 鳥羽伏見の20日ほど前に馬と共に大坂を立ち江戸に下ったと言うんです。 『徳川実紀』を見ますと慶應3年9月21日(1867年10月18日)に 慶喜公の警護が交代しているので、大経の京都滞在は3ヶ月弱になります。 鳥羽伏見の幕府軍は騎兵が驚くほど少なくて全部で15騎しかいないんです。 どうやら大経の談話は本当らしい。慶喜公は最初から逃げる気だったようで。 慶喜公が「函館」と呼ばれたのは上野で謹慎中に警護した時だそうです。 追記に「函館大経ト改メタルハ『明治三年二月願済改名』ト云フ。」 お役に立てましたか 投稿者:ふてき 投稿日:2011年10月31日(月)20時13分31秒 返信・引用 編集済 やはり多くのエピソードが微妙に間違って伝えられたようですね。 小野義三郎に成りすましていたというのは驚きですが、 名前が偶然にも漢字違いの同名だったことになるわけですか。 白雲(ハクウン)と大経に関してやっつけですが更新しました。 http://homepage1.nifty.com/futeki/ayumi.htm http://homepage1.nifty.com/futeki/FAMILY02.htm 入手しました。 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年10月30日(日)15時48分16秒 返信・引用 原本は道立図書館蔵、河野常吉『談話集』です。昨日まで全く知りませんでした。 超弩級の史料ですね。謎の大半は解けたと言えるでしょう。 弘化3年様似に生まれる。 13歳で函館に出て池田家の養子となる。 16歳の時栗本鋤雲に従い江戸に出る。 幕臣小野市右衛門の弟義三郎が死んだので替え玉で小野義三郎となる。 横浜の仏国公使館にて仏人プリーより馬術を学ぶ。 騎兵一小隊を率いて上洛中の慶喜公の警護に赴く。 慶喜公が常々「函館、函館」と呼ぶので改姓する気になる。 ナポレオンの馬は政府に贈られたと伺うも新政府が受け取りを拒否するので重臣に分配。 「残り不良の馬一頭を私が貰ひました。」 明治4年帰省の帰途同船の黒田次官に勧められ翌年海軍省から開拓使に転属。 ポツプエークルス引き取りに上京したが天覧馬術で騎乗したのは白雲。 白雲はドンヂヤンの子で宮内省に献上。 これまで弘化4年生まれとなっていたのは死んだ小野義三郎の生年のようです。 白雲は明治14年に戸山で宮内省下賜賞典を勝った馬でしょうね。これ月毛です。 競走条件は雑種馬なんですが、もし母馬が飛花だったら勝つのは当たり前ですね リンク先は 投稿者:ふてき 投稿日:2011年10月29日(土)21時26分6秒 返信・引用 昨年様似で行われたセミナーの案内のようですけど、 文中に出てくる「函館大経氏ノ談話」という文献は 既にご調査済みでしたでしょうか? http://samanikko.blog.ocn.ne.jp/web/2010/09/post_aab6.html もうひとつ思い出したのは 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年10月29日(土)00時03分20秒 返信・引用 日露戦争の頃道庁が作った地誌に幕府が和助に海産物取得権を与えたのは 近藤守重と最上徳内の嘆願によると書いてあったことです 下のレスで言及したのは『明治事物起源』ですね なるほど 投稿者:ふてき 投稿日:2011年10月28日(金)22時30分56秒 返信・引用 「明治4年5月」時点の「雉子橋門外牛馬商社ノ鉄沓師」に大経が 該当する可能性がある、ということですか。 もしも裏づけが取れたとしたら、大経伝説発祥の舞台としては ここが最適なような気がします…。 箱舘姓に関してはご高察の通り、箱舘流馬術とでもいいますか、 ある種の家元的な意味合いが込められていたんでしょうね。 経歴を見るに箱舘奉行との関わりが強かったようですし。 これに関連して 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年10月28日(金)00時37分1秒 返信・引用 『様似町史』に儀三郎が鍛冶屋でもあったことが書かれていたのを 思い出しました。鍛冶屋は当然装蹄師でもあったというか、当時の 状況からすればそちらが本業でしょう。すると『新聞雑誌』第2号 (明治4年5月)の記事が俄然注目されます。 五月十五日招魂社祭ニ邦人外国人四名ト競馬セシニ遂ニ勝ヲ得タリ 此人ハ雉子橋門外牛馬商社ノ鉄沓師ナルヨシ 私は苦心の末明治5年10月に臨時の天覧競馬があったことを発見 しましたが、4年5月に西洋人に勝った日本人とは函館大経のこと かと思えてきました。すると天皇との関係も再考すべきかもしれま せんが。大経はこの頃福岡藩馬術師範、陸軍省出仕、海軍省転属と 勤務に就いていますが、兼業は当然考えられます。 『西洋事物起源』「洋馬の始」も示唆的です。 慶應三年秋徳川慶喜将軍の時、佛国皇帝第三世那翁牝牡廿六頭の アラーブを寄送す、其内牝馬パリー号は、後上野動物園に繋留し たりしが、明治二十七年三十七歳にて斃死せり。 あらびやの乗馬とかけて、そば屋のあつらへとゝく、 心はかけが早い(開花なぞ尽し) (高名方)西洋馬 丸の内 箱館儀三郎 今のところ 投稿者:ふてき 投稿日:2011年10月20日(木)20時26分20秒 返信・引用 この登録情報しかソースがないので、声高に叫ぶわけにも いきませんが、もし事実だとしたら新鮮な驚きですよね。 「飛花の正体」、旧来のアメリカ人・横浜・アラブ説ではなく ナポレオン三世寄贈アラブ説?ということですか。 飛花は月毛だったようなので、ナポレオン三世の牝馬の中では 薄栗毛と記されている2頭に最も可能性があるのでしょうかね。 これは凄い。 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年10月20日(木)04時39分41秒 返信・引用 日本産馬ではないとはいえ、明治時代に日本で走った馬の子孫が 現代のヨーロッパに広がっているとは思いもしませんでした。 ところで古地図を見ていて、丸の内とは江戸城の堀の内側だと気づきました。 大名小路の地図には江戸城の城内である本丸・西の丸・吹上は出ていませんが、 今の「丸の内」の他に大手町、北の丸まで含んで描かれています。 「西洋馬・丸の内・箱館儀三郎」が馬術を見せた所はどこだろうと考えると 北の丸の付け根にあった「朝鮮馬場」しかあり得ないように思えます。 そこから堀を渡ったすぐの所にナポレオン三世の馬を収容した雉子橋御厩。 ひょっとして飛花は・・・と想像を逞しくしているところです。 ありがとうございます 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2011年10月16日(日)16時22分43秒 返信・引用 助かりました。 過去に話題になっていたのですね。全く記憶にございませんでした。 カナック氏の持ち馬でアメリカ産馬はキーンの管理の可能性がありそうです。 キーンがロシアを出て行ったのも禁止薬物からみでしたっけ。 まぁこれを手がかりに、少し調べてみます。 古い通りすがりさんの書き込みですが 投稿者:ふてき 投稿日:2011年10月16日(日)09時50分31秒 返信・引用 >ジミーの過去に登場した人物の中で、幸運に恵まれていたのはジャック・ >キーンだけだった。ジミーがロシアで待っているのをよそに、ジャックと >兄弟のハムはサンフランシスコへ行ってタンフォレンでレースに勝ってい >た。ジャックはそこでもやがて退屈して、日本へと飛び出した。実は極東 >で競馬をやるつもりはなかったのだが、日本でも競馬が盛んで、賞金は高 >額なのに馬はあまり質がよくないのを知って喜んだ。兄弟に手紙を書き、 >優秀なサラブレッドを何頭か掻き集めて太平洋航路の船に乗せるように頼 >んだ。日本でも相当儲けたが、結局、日本の競馬団体から、ジャック本人 >が主張したように妬みのせいか、あるいは団体側の主張のように禁止薬物 >の濫用のせいか、いずれにせよ締め出された。 >これまでは1980年頃の 投稿者:通りすがり 投稿日:2007年 5月14日(月)10時19分51秒 > サラレコのこぼれ話を集めたようなコラムにジャック・キーンが2頭の牡馬を >日本に運んだら検疫所が満杯で根岸湾の海岸に馬を置いていてその砂浜がよい >調教場になって日本ダービーを1・2着できたと書いてあっただけなのです。 >逸話の出所がわからなかったのと(おそらくどこかの新聞記者に手柄話をした >のでしょうが)、トニックらは4頭で輸入されているので若干眉唾気味だった >のですが、大筋のところは事実と考えてよさそうです。日本に居つかなかった >理由は来日した途端に馬券禁止になったからだと思いますけど。 ---------------------------------------------------------------- 明治41年の横浜ダービーを1、2着したトニック、トライアムフハント辺りが 管理馬でしょうね。 http://www.pedigreequery.com/tonic10 http://www.pedigreequery.com/triumphant6 今デルマ見ててビックリしたんですが、確か5年前位?に登録した *トニックに産駒情報が付加されていて、その牝馬からのファミリーが 東欧圏中心に大きく拡がっているんですが…。 ちょっと調べただけですが、チェコの大障害勝ち馬なんかの 血統にも名前出てきました。 2001年の勝ち馬 Chalco(CZE) の8代母の父が*トニック http://www.pedigreequery.com/chalco2 他にも大レース勝ち馬いるかもしれませんね。 ちょっと 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2011年10月15日(土)22時50分33秒 返信・引用 編集済 キーンランド競馬場の創設者ジャック・キーンですが、ウィンクフィールドと組んで ロシアで調教師として活躍した後、アメリカに帰国する1909年の前に、 ちょうど1907~1908年ころ日本で調教師をしていた(アメリカ産馬で17勝したらしい) との情報を得たのですが、どの馬主と組んで、その馬を管理していたか全くわかりません。 諸々の資料を実家に置きっぱなしなので、探ることもできず。。。 何か話を聞いたことありませんかね。 信頼の出来る 投稿者:ふてき 投稿日:2011年10月 1日(土)08時08分19秒 返信・引用 まとめサイトでもあればいいのでしょうけどね。 ご指摘のサイトを 投稿者:Gペガサス 投稿日:2011年 9月30日(金)12時32分2秒 返信・引用 見る限りでは、開催地の変更と距離の短縮が行われた、と解釈してよさそうですね。 どうもありがとうございました。 South African Classic のスポンサーの変遷。Champions Challenge や Cape Guineas の レース名変更など、混乱します。 勝ち馬も1910~20年代以前はなかなか埋まらず、血統不明馬もいるし頭が痛くなります。 全く詳しくないので 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 9月29日(木)22時07分35秒 返信・引用 事情通の降臨待ちですが…。 とりあえず、ここ見る限りでは ・来年もグレイビル1800mでやる予定 ・歴代勝ち馬表で過去の Champion Stakes と一連扱いしていない …な感じですが、なんとも。 南アもレース名が紛らわしい&変更多しで正確に把握するのは骨ですね。 http://news.tabonline.co.za/MajorRaces/SAMajors/CanonGoldCupGreyville/tabid/403/Default.aspx 南半球つながりで 投稿者:Gペガサス 投稿日:2011年 9月29日(木)12時24分29秒 返信・引用 南アフリカについての質問です。 去る7月末に行われたChampion's Cupですが、昨年まではまでClairwood Parkの2000m でしたが、今年はGreyvilleの1800mでした。 ということは、1998年まで行われていたChampion Stakes(Greyville 2000m)が復活したと 考えていいのでしょうか? それとも今年限りの変更なのでしょうか? どなたか南ア情報に詳しいかた、お教えください。 よろしくお願いします。 成都はこれかな 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 9月27日(火)20時32分34秒 返信・引用 やはり中国競馬の見通しは暗いですか。 各国から随分と投資入ったはずでしたが…。 アルゼンチンのバカシオン牧場とダーレーが接近してるみたいですね。 まぁ直ちにダーレー亜進出というレベルの話ではないようですが。 http://maps.google.com/maps?q=%E6%88%90%E9%83%BD%E6%B8%A9%E6%B1%9F&hl=ja&ie=UTF8&ll=30.637709,103.798378&spn=0.012831,0.019162&sll=43.859194,87.568588&sspn=0.010753,0.019162&vpsrc=6&t=h&z=16 そこですね。 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 9月27日(火)00時48分55秒 返信・引用 北京郷村競馬場はここです。 http://maps.google.co.jp/?ll=40.166904,116.659763&spn=0.00833,0.008626&t=h&vpsrc=0&brcurrent=3,0x0:0x0,1&z=16 中国の競馬は当分見込みナシじゃないかと思います。 こっちの方が面白いですね。 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/sokainomawari.html#k いくら探しても 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 9月24日(土)21時32分0秒 返信・引用 スクラップが出てこないです>< 武漢の競馬場はここでしょうね。パノラマ写真も見れますけど、 スタンド?の外観が随分と立派で驚きます。 飾られているのは馬術大会のポスターですかな。 http://maps.google.com/maps?q=%E6%AD%A6%E6%BC%A2%E6%9D%B1%E6%96%B9%E9%A6%AC%E5%9F%8E&hl=ja&ie=UTF8&ll=30.63193,114.225883&spn=0.024778,0.038323&sll=37.926868,-95.712891&sspn=45.945502,78.486328&vpsrc=0&t=k&z=15 参考までに(3) 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 9月24日(土)16時38分41秒 返信・引用 以下は民族競馬に使用中の競馬場。 呼和浩特(フホホト)競馬場は1983年に初めて中国へ行った時たまたま訪れ JRAが国際大会に復帰する以前の中国馬術チームを訓練しているのを見た所。 その時は戦前の競馬場が残っているのかと思いましたが、1982年竣工。 通遼競馬場は1987年竣工。 ウルムチ競馬場は1990年竣工。 参考までに(2) 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 9月24日(土)16時33分2秒 返信・引用 成都温江競馬場は1993年竣工。公安の馬券禁止が厳しくあまり競馬を開催できず 1996年には餓死する馬も出た。施設は現存。 深セン競馬場は1991年竣工。現状は展示場及び馬術クラブ。 寧波(大紅鷹)競馬場は2001年竣工。1800m×32mの芝コース(未使用) と1600m×25mのダートコース。同年12月第3回全国速度競馬大会の舞台と なったが翌年馬券が禁止され1度も競馬を行うことなく閉鎖。跡地は住宅団地。 以下は馬券の経験・計画なく速度競馬のみ行った競馬場。 東方馬城国際競馬場は2003年竣工。武漢にある。使用中。競馬くじ試験予定地。 1620m×28mのダートコース。 南京鐘山国際競馬場は2005年竣工。1850m×35mの芝コース(未使用)と 1650m×25mのダート。釣堀、ゴルフ練習場等に使用中も回復可能。 西安競馬場は1990年竣工。跡地は住宅団地。 昆明競馬場は1997年竣工。跡地は住宅団地。 長春競馬場は2006年竣工。現状は馬術クラブ。 参考までに(1) 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 9月24日(土)16時02分47秒 返信・引用 『中国における馬産業の現状と今後の見通し』中華人民共和国農業部農村経済研究中心 (2007年12月)という報告書がありました。 北京郷村競馬場は馬券時代に私が訪れ競馬ブック誌に書いた所で最近甘粕代三氏もリポート されましたが、1990年竣工。1993年6月競馬開始。1200m×25mのダート。 その直後から度重なる停止命令を無視するも2000年1月閉鎖。 しかし同年2月賭を伴わない「速度競馬」で再開、現在も施行中。 北京通順競馬場は石川ワタル氏がリポートした所です。施設は現存。 1999年竣工。2002年競馬開始。2004年10月停止命令を受け閉鎖。 2005年3月速度競馬で再開、4月「着順当て」開始、10月閉鎖。 広州競馬場は昼に広州に着いて街を観光しナイターに行こうとしたところ電力事情で 昼間開催したと言われて見ずじまいになった所で、1993年1月竣工してすぐ競馬 開始、1695m×32mの芝コースと1485m×25mのダートコースを備え、 香港に倣って経営。度重なる圧力で1996年7月に馬券を廃止し観客が激減し9月 「賞金付き寄付」賭博を開始。この年から始めた場外発売が人気になりすぎ、人々は 発売所を「賭場」と呼んで大金を賭け、1995年から始めた電話投票とテレビ中継 には小中学生まで熱中した。1999年12月閉鎖。施設は現在自動車展示場。 どうもです~ 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 9月15日(木)20時41分30秒 返信・引用 Gペガサスさん、書き込みありがとうございます。 ご存知のことと思いますが、自分のサイトなんぞは軽い気持ちの思いつきで始めた挙句に 目一杯背伸びして両手両足広げられるだけ広げた状態で収拾付かなくなったという(笑) 近年は最低限の更新でお茶を濁す体たらくです…。 こういう場所への書き込みとか、常連の方以外は結構億劫なものだと思うんですよね。 でも、例えばうちのサイトなんかだと過去の成績の誤記等がかなり膨れ上がっていると 思うんですよ。そういう些細なミスのご指摘でも管理者にとっては有難い話なんですよね。 海外競馬の 投稿者:Gペガサス 投稿日:2011年 9月15日(木)15時00分45秒 返信・引用 日本語サイトが更新をしなくなっている所が多くみられ、 絶滅を危惧しています。モチベーションの維持って大変なんでしょうね。 ふてきさん、ペースメーカーのまま逃げ切りを図ってくださいね。 下のサイトは、今も頑張って更新をされている貴重なサイトです。 訪問された方々はコメントを残すなどして、励ましてあげてください。 そうすればやる気も出ようというものでしょう。 世界の競馬(欧米)http://racedb.com/ Feast of EPONA(米)http://epona.s151.xrea.com/ Dream Scheme(ロシア、欧米)http://d.hatena.ne.jp/MARIUS/ 海外競馬覚書(全世界G1)http://blog.livedoor.jp/nagi17/ うみねこ博物館(世界の名馬)http://umineko-world.jugem.jp/ 表舞台に・・・ 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 8月 1日(月)20時27分28秒 返信・引用 ご心境の変化でしょうか。 紙面では騎手リーディングで最高3位だったと記載されてたような? >ブラジルで聞いた話を鑑みると・・・ですけど。 まぁ誰しも長く生きれば黒歴史の一つや二つ抱えるものですし…。 どうせなら騎乗したブラジルの名馬の事とかバホッソとの事なんかを 伺いたいものですが。 K騎手 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2011年 8月 1日(月)07時25分55秒 返信・引用 今日のサンスポにオドロキの記事がありましたね。 中神輝一郎氏が小倉競馬場に来場したとか。 元気そうなご様子ですが、まぁブラジルで聞いた話を鑑みると・・・ですけど。 http://www.sanspo.com/keiba/news/110801/kba1108010505011-n1.htm