2011年7月、6月、5月、4月、3月、2月、1月 間違いありましたら 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 7月21日(木)21時18分3秒 返信・引用 引き続きご指摘下さい。 北海道明3才けいが速歩特別の勝ち馬を見る限り 大種牡馬トーピード、そしてジェービー時代へ、という事でしょうかね。 というか、そもそもこの分野は新平氏の独壇場だったのですかな。 http://www.allbreedpedigree.com/b+j すみません。 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 7月20日(水)21時32分0秒 返信・引用 輸入されたのは昭和27年春でした。買ったのは白井新平氏。 2シーズン供用された後の現役復帰というか顔見せですね。 道営は不振の小樽競馬を廃止して国営札幌競馬場を借りたので こけら落としの話題作りに顔見せさせたんじゃないかと思います。 それとペーサーじゃなくてトロッターです。 ビージエー 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 7月14日(木)08時11分43秒 返信・引用 国内での競走実績あったんですか。 初日の時計が更に速いようですね。リタイア後の余興(?)でこれですから 全盛期の姿が窺い知れます。 http://www.allbreedpedigree.com/b+j B.J. 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 7月13日(水)22時12分16秒 返信・引用 b.c.1944, bred by J. McWilliam & Son, Dayton, Ohio 父scotland6、母duckie 戦後の日本速歩界のリーディングを独走した大種牡馬です。 昭和28年春に輸入されてすぐ十勝で種付けに励みましたが その年の秋に道営札幌に現れて2戦2レコード勝しました。 10月19日 1700m ハンデ270m 2分57秒2/5 10月20日 1600m ハンデ270m 2分51秒2/5 1870mを171秒4ならハロン18秒3ですね。日本産馬は オープンで21~22秒台、未勝利では24~25秒台でした。 斉藤和助 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 5月14日(土)19時12分4秒 返信・引用 お地蔵さんにもなってる偉人なのですね。 岩手から移住してきた、との記述もありますから ttp://www.kasibe.com/blog/webmastereiicii/ydhycaiyyyuyyeaith.html 源吉の実父で同じ岩手の斉藤巳之助は親族と考えて差し支えないでしょうね。 http://www.apoi-geopark.jp/news/PDF/2011/%E3%82%B8%E3%82%AA%E5%A1%BE%E9%80%9A%E4%BF%A1_Vol.5.pdf 原文では藤八を大次と改名させ 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 5月13日(金)22時46分14秒 返信・引用 とあって、口碑ゆえの錯誤があるものと思われます。 大政の養父が大次、実父が藤八であることから混同したものでしょう。 豊間根というのも岩手県下閉伊郡のようですし。 小野儀三郎が上京したのは江戸時代なのに士族を名乗ったというのも変です。 齋藤家が広範な漁業権を握る富豪だったことは見当がつきますが。 日高は様似から開けたことを考えると、渡島以外では最も富裕だったかも。 静岡移住後は多大な借財を背負ったみたいです。 単身上京し陸軍省・海軍省と官途に就いたのもそのためでしょうし、 『日本馬術史』によればその前に福岡藩でも馬術を教授しています。 開拓使は借金を肩代わりしていたようです。 文書館がありましたか 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 5月13日(金)20時41分56秒 返信・引用 なるほど開拓使関係の資料からのアプローチが可能ですもんね。 >実弟藤八(大次)に馬術を教えるも才なく鍛冶屋をやらせた。 儀三郎の実弟(六男?)藤八と大次(七男)は別人と理解して構いませんか? http://homepage1.nifty.com/futeki/familytree01.htm 『様似町史』によれば 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 5月12日(木)20時12分22秒 返信・引用 様似開拓の第一に名の挙がる齋藤和助は寛政年間に来住し 海産物の自由採取権・使用権を得て豪勢に暮らしていた。 子がなく、青森県上北郡豊間根の齋藤巳之助の三男源吉を 養子とした。ハルは上北郡蠣崎村の布施忠左衛門の長女で 源吉に嫁して17人の子を産んだ。源吉は明治の頃は没落 し家を継いだ三男菊太郎は幌満川の渡し守をしていた。 四男儀三郎は幼い頃幌泉の通称トリヤに貰われ後に函館の 海産物商小野市右衛門に貰われ実子次男として入籍した。 鍛冶屋に弟子入りし近在から鍛冶屋に来る馬を皆乗りこな して注目された。上京し士族小野儀三郎と名乗った。実弟 藤八(大次)に馬術を教えるも才なく鍛冶屋をやらせた。 幌満の佐々木佐之八の妻の連れ子勇太郎に馬術を教えた。 『様似町史』にはありませんが口碑に大経は本来が大慶で 徳川慶喜の警護をしたことによるとの説があるようです。 道立文書館に開拓使の 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 5月12日(木)19時52分56秒 返信・引用 函館大経関係の辞令が大量にありました。 明治5年8月箱館儀三郎を採用。 同月函館大経を勤務地の東京出張所から横浜に出張させる。 10月11日函館大経を馬買入御用として出立させる。 この辞令には松平太郎の印があるので函館五稜郭で交付か。 6年1月函館大経にアラビア種馬護送命令。 4月に上京中の函館大経に対し静岡在住の家族を引き取るための旅費交付。 明治4年末の海軍省名簿に箱館儀三郎大経の名があるようで、要するに 戸籍制定に際し字(儀三郎)を捨て諱(大経)を採っただけのことでした。 西郷吉之助隆盛が西郷隆盛になったようなものですね。 『日本馬術史』に江戸小石川水道橋生まれとあることから推して 幕臣に箱館家があって養子となり、維新で静岡へ無祿移住したと考えられます。 お久しぶりです 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 4月 9日(土)19時24分40秒 返信・引用 新生活突入ですか。何はともあれ、幸多からんことをお祈りいたします。 こちらの入力作業もすっかり停滞しておりまして、申し訳ない限りです。 LBさんに足並み合わせてエンジンかけ直さねばなりませんね。 ご連絡などありましたらお気軽にメールでも下さいまし。 #昨日のパレルモ開催は第2レース以降、騎手がボイコットしましたね。 #ホセ・メンデスがオノール大賞で降着された件の処分内容に不満がある感じですか。 ご無沙汰しております 投稿者:Lucky Boy 投稿日:2011年 4月 9日(土)02時01分2秒 返信・引用 どうも半年ほどこの掲示板から遠ざかっていました。 今年に入っても殆ど競馬に手を付けず。完全に気力が失せ休眠状態でした。 南米からの調査依頼に応えたり、ウルグアイの年鑑アルバムに寄稿を頼まれたので、 それをチョコッとしたぐらいです。 さすがにこれぐらい競馬研究から離れると活動意欲が湧いてきました。 で、ボチボチと再開し始めたところです。 ただ4月から都内の某私立高校で非常勤講師をすることになりまして、 まだ余裕がない状態。慣れてきたら気合い入れていきます。 ちなみに、今は1997年のウルグアイ競馬の競走馬のインデックス整理と 種牡馬成績の集計のためデータをチビチビと入力しています。 閉鎖前の最後の年、賞金は2着までしかなく散々な状況です(*_*) 同馬と母馬を 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 2月19日(土)07時43分24秒 返信・引用 編集済 登録しました。 一応コメントも入れてみましたが、間違い等ありましたらお知らせ下さい。 #リンク先に飛ばないようでしたらアドレスをコピペするか、 #http://www.allbreedpedigree.com に Darnell Five を入力してみて下さい。 http://www.allbreedpedigree.com/darnell+five 忘れていたのは私の方で 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 2月18日(金)21時49分39秒 返信・引用 そこまでは過去に調べてあったのですね。すみません。 この馬はJRAが公表している海外遠征馬の一覧にも出ていませんし、 トロッターは迫害されてます・・・というか考えてもいないんでしょうね。 旧3歳時は道営で23戦10勝。デビューから6連勝しましたが、最後は 着外続きでした。なにしろ距離ハンデの時代で、2600米のレースで 260米ものハンデが付けられていましたから。 ログ整理してなくてすいません 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 2月18日(金)19時32分22秒 返信・引用 以下、HDに残っていた過去ログから抜粋したものです 白井氏が発行していた新聞 投稿者: 通りすがり 投稿日: 8月23日(火)20時12分43秒 『昼夜通信』に事の次第が書かれていました。 父母共に昭和27年白井氏が初めて渡米した時買ってきた馬です。 暮の31日に、横浜を出た太平洋上の快速船チャイナ・ベア号は、九日に桑港に到着 した。これが本場のアメリカで一流馬に互して勝てるとは思っていない。日本の記 録では米トロの時計資格のハロン一六秒八にやや達しない。だがこれをアメリカの トレーナーが、アメリカ式に再調教し、アメリカの馬場でアメリカのレースをすれ ば、中堅級までいけるのではないか。…との夢は持っている。これは一つのテスト である。一応日本の代表的トロが、どこまでの素質があるか、めくら蛇におぢずか も知れないが、成功しても失敗しても、日本の速歩馬の将来を卜するには、とに角 大きな参考になる筈である。 白井氏の持ち馬だったみたいですね。登録名義人のフランク・ゲイ氏は平地の元調 教師で、当時はハリウッドパークの渉外係でした。初勝利の後売却したようです。 ----------------------------------------------------------------------------------- Erratum は b. 1895 です。 投稿者: 通りすがり 投稿日: 8月22日(月)20時29分0秒 ところで昭和35年にランチョトマコマイで生まれたダーネルファイブという馬 1965年にサクラメントとフェニックスで勝ってます。 父トーピード(Torpedo, ch. 1941 by Guy Abbey) 母ダーネルスリー(Darnell's Lee, b. 1947 by Darnell's Abbe) という血統の鹿毛のトロッターで、加州イングルウッドのF・W・ゲイ氏により スタンダードブレッドとして1965年に登録されました。 残念ながら米国での詳しい成績は日本ではわかりません。中央競馬では旧4歳時 と5歳時に56戦8・5・2・41ですが、当時の速歩は八百長だらけですから これだけで力量は測れません。また全馬がマル特すなわち地方上がりで、3歳時 地方で走っていた馬ばかりという構成でした。 お母さんはダーネルス・リーなんだけど弟にダーネルシックスがいたり・・・ それにしても何故アメリカへ行ったのか不可思議千万です。 ----------------------------------------------------------------------------------- ダーネルフォー、ファイブ、シックスの三兄弟ですか、セブン以降もいたのかな(笑) ありがとうございます。 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 2月17日(木)23時50分3秒 返信・引用 今日気がついたのですが、ダーネルフアイブがアメリカに遠征してますね。 白井新平氏の持ち馬で、旧3歳時道営で速歩のダービーと呼ばれた北海道産 明3才けいが速歩特別を勝ち、旧4~5歳時は中央で走りました。渡米後の 成績は国内では調査不能です。現地で売ってしまったので帰ってませんし。 ご無沙汰してます 投稿者:ふてき 投稿日:2011年 2月17日(木)20時36分12秒 返信・引用 更新しましたのでご確認ください。 http://homepage1.nifty.com/futeki/ayumi.htm ここのところなかなかチェックする時間が取れず申し訳ないです。 小樽競馬場はもはや痕跡ひとつ残ってないですね。 昔の地図で確認すると、バックストレッチ側(?)が海岸線に ほぼ隣接してたんですね。これだけ海に近かった競馬場は 鳴尾競馬場のどちらか一方?ぐらいでしょうか。 お久しぶりです。 投稿者:通りすがり 投稿日:2011年 2月17日(木)00時07分39秒 返信・引用 資料編960頁の4つの開道記念はいずれも開道八十周年記念。 ミスタカコの勝ったレースの2着馬の斤量61、2着と3着の差は頭、 3着馬はトラヤング、斤量は66。 オトコヤマの勝ったレースの2着馬はキンボシではなくギンボシ、斤量61、 2着と3着の差は頭、3着馬はテンリユウ、斤量は60。 ナルダンの勝ったレースの2着馬のハンデ300m、2着と3着の差は80m、 3着馬はパンドラ、ハンデは390m。 ハツピースターの勝ったレースのタイムは2分21秒1/5、 2着馬はツキヒメではなくスター、斤量は61、2着と3着の差はハナ、 3着馬はラツキークイン、斤量は64。 オトコヤマの生年は昭19ではなく昭15、鹿毛、せん、父アノ・美竜、母軽半・千里。 ナルダンは昭18、鹿毛、牝、父半血・安黒、母半血・第二光 ハツピースターは半血ではなくサラで、昭20、栗毛、牝、母フエボリツトノ一。 ミスタカコは馬違いでした。鹿毛、牝はそのとおりですが、 品種は不明なので半血とするよりなく、生年は昭17ではなく昭18、 父はサラのテンリユー、母は不明です。 ばんえい記念の施行地を昭27~36(その後昭27~35に修正)は近文の旧旭川競馬場 と書いたのは花咲町の旧旭川競馬場が正しい。近文は広い範囲で、競馬場所在地は近文一線と通称されていましたが、昭和26年に花咲町と改名されました。昭和35年にホームスト レッチの一部が接収され、40年に旧ホームストレッチ上にスタンドを建てる形でダウンサ イジングされたのを、歴史書は近文から花咲町への移転と記していたのでした。