2013年12月、11月




感謝です  投稿者:ふてき  投稿日:2013年11月14日(木)07時26分21秒	 返信・引用

sake と一緒に出てきたので短絡的に判断しちゃいましたが、
御指摘の通りかもしれませんね。

馬車鉄道厩舎と新設競馬場。なるほど。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/sato_yuu.htm
最盛期には97頭もいたそうですから、厩舎の規模もそれなりに必要だったでしょうしね。

橋本馬之助、ありがとうございます。恐らく初耳の人物だと思います。	 




回想の原文を  投稿者:通りすがり  投稿日:2013年11月13日(水)22時49分53秒	 返信・引用

JRAの人にも読んでいただいたのですが、a pretty girl とは特定の人物では
というご指摘をいただきました。なるほど茶店や遊廓の女性なら複数形ですね。
愛人かとも思いましたが、英語のガールは性的に成熟していない少女です(洋服
のガールズサイズは胸の採寸がチェストになります)。すると娘?

『蹄の跡』には函館競馬倶楽部の事務所(大経先生宅)とも書いてあり、市電の
車庫があそこにあるのは馬車鉄道(松山吉三郎社長)の厩舎だったからですし、
函館競馬場が海岸町から柏野へ移転したのは七重試験場廃止の2年後ですから、
あの競馬場は七重に代わる道南の馬事センターを目論んだものだったのではない
かと思います。同書によれば外人を含む函館の馬好き紳士淑女が6ハロン馬場で
乗馬を楽しんでいたようで、大経の弟子たちは競馬騎手であると同時にインスト
ラクターでもあったのではないでしょうか。馬鉄の馭者を兼ねていたかも。

橋本は橋本馬之助だと思います。武や大次と同様、彼も道庁の技手でした。	 




そうなのでしょうね  投稿者:ふてき  投稿日:2013年11月12日(火)23時31分21秒	 返信・引用

切断云々は伝説に纏わる尾ひれはひれという事ですか。

明治23年に北海道から不忍池競馬への参戦騎手は
函館大次
武彦七
飯田藤作
杉浦武秋
坪内元三郎
ですかね。
「橋本」がよくわからなかったですが。




すっかり忘れていましたが  投稿者:通りすがり  投稿日:2013年11月11日(月)21時16分0秒	 返信・引用

函館市立図書館所蔵の長鞭生『蹄の跡』(昭和8年)という小冊子の
コピーがありありました。「函館大先生と語る」章を読んでみたら、
死後二十余年を経て甦った大先生の口を借りて自説を述べるものだっ
たのはがっかりでしたが、他にいろいろ興味深い記事がありました。

慥か明治十五年の頃かと思ふ、廃使置縣の結果今の支廰の所在が函館
縣廰と変つて、其上の今公會の建設しある處にお厩と稱して縣所属の
厩舎があつた。其所には常に数頭の繋駕乗用馬が繋飼されてゐた、其
中で殊に美事なものはアラビヤと呼んでゐた。當時優駿が國産馬改良
の為め海外から輸入され種牡馬として、新冠、眞駒内牧場へ送らるヽ
途次立寄るが例であつた。当時縣令として令名ある時任為任さん、園
田実徳さん始め二木さんなどの偉い人々が其都度見分に来られ、馬の
頭函館大経先生が跛行の足に拍車凛々しく説明役をして居つた。

これによれば大経の怪我は明治15年以前となりますが、筆者はその
頃子供だったはずなのと、真駒内はまだ牧牛場だったことなどを考え
ると、やや眉唾です。若林功『北海道農業開拓秘録』に明治20年代
の札幌競馬場で大経がアルゼリー種牡馬に乗って高等馬術を披露した
のを見たと書かれていますが、足が不自由だとは記されていません。
ただし、右足切断ではなく跛行だったことは確認できると思います。

話は亦々元町お厩に戻るが、此處の主管は日向といふ人だつた、此の
人小粒だが會津藩の士分できかぬ気の男であつた。其頃七飯、大川、
桔梗は馬の驥北で其處には函館大先生が守備し直系として同大次、武、
橋本の三勇士が靡下たり、眞駒内には飯田、杉浦、坪内の豪の者之に
対峙し明治二十三年東都不忍池競馬開催に際しては以上の諸豪出場し
北海勇士の栄冠を荷ふて帰り来たつた。	 

 

 
とりあえず少し読んだだけですが  投稿者:ふてき  投稿日:2013年11月 8日(金)22時35分30秒	 返信・引用

実に面白いですね。
平易な文体なので英語に堪能じゃない自分でも入っていきやすい感じ。

one third less time は「3分の1以下の時間」ってことですかね?
まぁしかし伝説のホースマン函館は意外?にも酒と女性を愛する
人間味溢れる人物であったと。	 

 


『エドウィン・ダン』所収  投稿者:通りすがり  投稿日:2013年11月 8日(金)20時39分11秒	 返信・引用

「日本における半世紀の回顧」は訳文しか知らなかったのですが、
ここで原文が読めますね。
http://archive.org/stream/CAT10899295DunReminiscences/CAT10899295_Dun_Reminiscences_djvu.txt

私の友人の函館は自分が知る最高のホースマンの1人で、同じ距離を私が要する
3分の2の時間で行くことができる。ただ私は185ポンド、彼は100ポンド
未満というハンデキャップが付いていた。

なんてことが書いてあります。白雲に跨がった写真を見てもさほど短身とは思え
ませんし、計ったわけでもないでしょうから、いくら痩せ型でも100ポンドに
満たないはずはないので、何かの比喩だと思って調べてみますと、当時アメリカ
の駅馬車は体重100ポンドまでなら基本運賃で乗れましたが、それ以上になる
と超過重量に応じて運賃も割り増しになるシステムだったとのこと。

明治41年8月12日の函館で、函館大政氏所有のフジコシに千歳孫作が乗って
勝っています。大政氏は明治37年生まれ。史上最年少の馬主かもしれません。	 




御投稿感謝です  投稿者:ふてき  投稿日:2013年11月 6日(水)20時14分13秒	 返信・引用

千歳仁三郎と大次、孫作の関係は既に判明なされているのでしょうか。
大次の妻サダが千歳家の出身で、サダの姪千代と結婚した孫作が千歳家に婿入りしたため
「千歳孫作」となり、後に大次の元で夫婦養子となったため「函館孫作」へ…
という事なのかなと思っているのですが。

http://homepage1.nifty.com/futeki/FAMILY02.htm

少し加筆しました。
しかしこれ家系図の方はブラウザによってはまともに閲覧できない事態になって
たりするんですかね。超今更ですが変な汗出てきました。	 




最近の知見(2)  投稿者:通りすがり  投稿日:2013年11月 5日(火)20時38分7秒	 返信・引用

千歳仁三郎は森で馬車渡津旅籠を営んだ島吉の子で、森-室蘭の渡船が廃止
されると家業が傾き、小学校を出て駅逓夫となった。15歳の明治37年に
函館大経に入門を許されたが、仕事はその時35歳の大次から教えられた。
これが事実なら大次は明治3年生まれになります。

函館競馬には明治40年春から42年春まで出場。大経生前から鹿児島県が
牧園に種馬所を作るので調教師をという話があって、仁三郎が推薦された。
赴任は大正元年8月。関門海峡通過中に改元されたそうです。以後県の技手
として働く傍ら、春秋の鹿児島競馬で騎手として大活躍しました。

『はこだて』に載った仁三郎の長男千歳篤氏の随筆から。大正2年生まれ、
鹿児島商船学校を出て函館市交通局に勤務し、晩年は『道南の歴史』主筆。	 




最近の知見(1)  投稿者:通りすがり  投稿日:2013年11月 5日(火)20時15分21秒	 返信・引用

JRAにも函館大経を研究する方がおられて、アドバイスを受けました。

大経の墓は「函館大経之墓」とだけ掘られた大きな石柱で、まるで石碑です。
土倉共同墓地にありますが周囲の墓はみな戦後のもので、おそらく共同墓地に
なる以前は丘の上にポツンと立っていたのではないかと思います。

『優駿』に連載された「走れ富士超」の作者・館大輔とは函館大貞氏でした。
大正14年12月28日生まれ、拓殖大学卒、北海道開発局に勤務しました。
この小説では大経は江戸小石川生まれなので、函館家の伝承でもそうだったに
違いなく、様似生まれという話は様似側から出てきたことになります。大経の
談話を記録した河野常吉は様似にも行っていますから、様似の偉人・斎藤和助
の子孫にこういう人がいるよという形で伝えられたのでしょう。

斎藤源吉は明治22年札幌で死去、ハルは40年湯の川で死去。どちらも当時
大経が居た所で、実の両親が大経と同居していたか、または斎藤家が大経から
仕事を貰っていたと思われます。