2014年4月、3月




そうですよね  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 4月26日(土)21時10分36秒	 返信・引用

 当然、馬名は北雲ですよね。失礼しました。

その頃の小樽は急発展し始めた時期ですね。
札幌の表玄関(今の千歳)の役割プラス商業都市としても、ですか。
函館小樽間の鉄道が全通するまではこの海路が盛んに利用されていたのでしょう。	 




ホクウンが馬場に出ると  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 4月25日(金)22時15分19秒	 返信・引用

 の意味だと思います。北雲は新冠産の青毛で長距離に強かったとか。

七重官園が開かれた折、薩摩の人湯地定基が畜産主任となり、その下で大経が
農牧馬を担当して彼を助けましたが、開拓使が廃せられると湯地は根室県令と
なって道東に芋作を広めました。北海道が成立すると理事官となり根室支庁を
担当し、支庁制廃止で欧州出張を命ぜられ、インド洋で難破してソコトラ島に
打ち上げられるという災難にも遭いました。帰国後は新設された第二部長とし
て産業振興を担当し、元老院議官に抜擢されて北海道を離れました。

明治23年6月27日、湯地は大経を伴って小樽から船で来函しました。札幌
から小樽まで鉄道が通って、そちらがメインルートになったようです。2人は
湯の川温泉に投宿し、7月2日に大経は小樽へ、湯地は東京へ旅立ちました。
開拓使時代の夢を語り合ったのかもしれません。	 




北雲場とは  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 4月24日(木)07時07分49秒	 返信・引用

 馬名ですかね。悪名高き癖馬だったと。
しかしこのシーンは絵になったでしょうね。生で見てみたかったところ。
今は放馬したらロープを使って通せんぼ的な事はするものの、
基本的には馬が止まってくれるのをじっと待つのみですものね。
安全第一の運営方針なので致し方ないのでしょうけれど。

「新発見」楽しみです。是非何処かで御披露願います。




改めて調べ直してみると  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 4月23日(水)23時11分55秒	 返信・引用

 新発見続々と言いますか、自分がいかにショートカットしてきたか思い知らされます。
日本初の競馬論、日本初の競馬小説等々。下は明治21年8月2日秋季札幌初日6R。

此競馬に北雲場に出るや、例の如く剽悍跳躍狂奔すること三四回、遂に馬丁を倒して疾
走せしが、時に函館大経氏馬の進路に臨み、其冠する所の帽を取って馬の前に擲(なげ
う)ちければ、馬之を見て眼を張り、足掻を緩めて疾走を止め、容易く是れを捉へたり
しが、馬術に熟練なるは人皆夙に知る所なるが、奔馬の気を転じて容易く是れを鎮むる
が如きは、常人の克くなし得る所にあらざるなり。	 

 

 
wiki に記述のある  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 4月20日(日)20時14分10秒	 返信・引用

 明治42年頃に開設された苫小牧競馬場の前身にあたるんですかね。場所的にも。
少し年が離れてますし、移転したのかなという気もしますが…。
いずれにせよ、苫小牧競馬には知られているよりも古い歴史があったんですね。

北海新聞(函館の)はどこかに死蔵されているモノが
発掘される事を願うしかないのでしょうね。	 

 


特に北海新聞は  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 4月20日(日)00時13分17秒	 返信・引用

 函館競馬の番組印刷発行してましたから、残ってればなあと思います。下はそれと
は無関係の明治20年に札幌で創刊された北海新聞の同年8月26日の記事です。

苫小牧は胆振日高産馬地方の中央に位する要地なるを以て客年来同村八九の有志者
発起人となり競馬会の設立を企図せしに、之れを賛成せるもの意外に多ければ此頃
滴当の地を相し埒を設け去る十六日開会なせしか、当日は近在近村は勿論沙流新冠
札幌等より続々駿馬出場なし、殊に新冠御料地へ万里小路伯爵の一行御出張ありし
を幸ひに本会へ招待なせしに同伯より金若干円賞金として寄贈せられしを以て頗る
人心を奨励し、意外の盛況にてありしと。

十六日は午後七時頃より会員の懇親会を開き、万里小路伯爵の一行、古川郡長、本
庁出張員函館大経・功力直道・武彦七等の諸君相会し懇篤の談話あり。殊に伯爵の
懇諭に対し会頭上嶋職氏衆員に代りて謝辞を陳べ、官民腹臓なく産馬改良の事など
を談じ、午後十一時過ぎ散会なしたり。

当時万里小路通房は侍従。上野の共同競馬会が買う新冠御料牧場産雑種馬20頭の
選定に来ていました。馬は宮内省主馬寮に運ばれ1頭200円で抽選されました。	 




これは競馬というより  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 4月14日(月)20時56分58秒	 返信・引用

 牛追い祭りの様相ですかね。

親平出派は函館日日新聞と北海新聞でしょうか。
残念ながら現存の望みは薄そうとのことで…。
そもそも部数が少なかったでしょうし、明治40年の函館大火の影響も
あったかもしれませんね。
http://www.lib-hkd.jp/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/saito_tai.htm

 


調べを進めたところ  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 4月13日(日)20時36分14秒	 返信・引用

 明治30年代には函館で4紙が発行されていますが、道南の政界は函館競馬会理事長
初代平出喜三郎の支持派と反平出派とに分かれており、親平出の2紙は全く現存せず
反平出の函館毎日と函館公論が断続的に残っていて、競馬には親切ではありません。
今とは常識の違う時代とはいえ「嗚呼売国奴」「無学文盲の平出」と書きたい放題。
後に函館競馬倶楽部理事長を務める武富平作は「ハイカラの親玉」と書かれてます。

35年7月12日の函館公論に初期の競馬の内容を書いた記事がありました。

現今の梅香楼の前から東照権現の此方まで両側に埒を設けてある一直線の競馬場だ。
両側の遊女屋の二階には桟敷を仕つらへ毛氈を敷詰めて琉燈を吊し観客は今日を晴れと
着飾つて喝采の声を上げて動揺めき渡る。出場者は近郷近在から大功名を為て呉れんも
のと大意気込て出て来る。太く逞しき南部駒、和鞍に五色の布団を乗ッけ手綱を繰上げ
てハイヨーと二十頭も三十頭も駈け出すのだ。其の奇観は到底現今は見られない。

現今の様な洋式の競馬でないのだから其混雑と云つたら酷しい。一直線の狭い競馬場を
我れも我れもと駈け出すのだから毎年怪我人が出来る。何んの出来てもお構へなし、夫
れを覚悟で蛮勇連が意気込んだものだ。
中にも混雑を極めたのは両側の見物人で山を築く。押すに押され埒の中へ這入る。邏卒
さんが制しても聞かぬ。為めに見物にも怪我人が多く出たものだ。	 




当時は  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月16日(日)16時38分9秒	 返信・引用

 漁師にとっても馬の力は必要不可欠だったのでしょうね。
魚の運搬だけじゃなく、地引網を引かせたりしていた…ですとか。

両千歳氏は血縁関係アリ間違いないでしょうね。当時の少ない人口から考えても。
函館氏と千歳氏がセットで出てくるので何となく勘違いしてしまいますが、
千歳という姓は入植前から内地で既に名乗っていたのでしょうね。
或いは、読みも「ちとせ」じゃないのかも知れず。	 




新聞が伝える森村競馬  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月15日(土)23時10分34秒	 返信・引用

 毎年旧暦5月5日に茅部郡と山越郡の馬を集めて施行するのが慣例。
良馬が集まるので森早馬と呼ばれ、転じて森の娼妓を早馬と呼ぶようになった。
明治18年は千歳孫七と玉谷和五郎が発起人となり、6月17日に施行した。
コースは市街の道路で東の電信分局前から西の島谷龍吉借家前を往復する150間。
3頭立てで第9レースまで。森13頭、函館2頭、宿野辺4頭、尾白内1頭が出場。
余興に徒競走や綱引きがあった。

孫七は孫作の父か祖父なのかもしれません。千歳千代作という馬主もいました。
寿都でも毎年道路を使った競馬が行われていたようです。湊町の時代ですね。	 



sunadori farm  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月13日(木)08時32分4秒	 返信・引用

 漁牧場。なるほどそういうことですか!

当時の博覧会に、主に2歳馬が出陳される傾向があったとしたなら、
御指摘の明治13年札幌農業仮博覧会の線が濃厚でしょうね。
道立文書館あたりに当時の資料がないものかと検索しましたが、
残念ながら13年の出品目録の類は見つけられませんでした。	 




ダブは6月漁牧場で生まれ  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月13日(木)02時06分22秒	 返信・引用

 7月新冠に移されて通年放牧され、翌年11月に厩舎に入れられたとありますから、
このペーパーが書かれたのはおそらく明治13年ですね。第2回札幌農業仮博覧会に
出陳されたのではないでしょうか。各国領事等の参観に際して読み上げたのではと。

漁村と島松村が合併して恵庭村になるのですが、今では誰もが前者をいさり村だった
と思い込んでいます。『北海道立種畜場沿革史』にも「いさり」とルビが振ってあり
ます。しかし本当は当時「すなどり」と呼んだみたいですね。

明治10年8月に東京で開かれた第1回内国勧業博覧会には七重という雑種馬が出陳
されています。これも生まれた翌々年です。

年齢 二歳二ヶ月 父ハ米国産名「ブラツキプリーンス」 母ハ北海道産
   満二歳ヨリ乗御ス 三歳ニテ四尺九寸ニ至ル
飼料 一日大麦三升糠壹升五合乾草二十斤ヲ与フ
   一週回毎ニ食塩少許ヲ水ニ溶カシ飲料ニ供スヘシ
所長 耕作ニ馴練セシ者ナリ
   遠行ニ用ヒテ迅速トハ云ヒ難ケレ共ヨク労ニ堪ヘルノ性アリ	 




なるほど  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月12日(水)20時41分43秒	 返信・引用

 ご教示のお陰で、読めなかった箇所もほとんど理解できました。
確かにこの内容ですと、何らかの展示会で外国人に向けて?
解説している文章のような気がします。
競走実績など一切触れてないので、デビュー前のものでしょうか。
この4頭に何か接点でもあれば糸口が掴めそうですが。
ただ、麒麟だけ年代が違うってのが謎を深めてますね…。




凄い資料ですね。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月12日(水)00時41分54秒	 返信・引用

 ナポレオン三世のアラブ牝馬には芦毛の他に泥芦毛というのもいるんですが、
第四ブラドレーの純白の馬体を見ると高砂は芦毛の方だと断定できそうです。

「馬4頭の血統書」は血統書と言うより展示の解説資料みたいな内容ですね。
青毛をスカイブルーと訳していますから日本人が日本語資料を英訳した感じ。

飛花の明治11年の産駒は牝で後に七重ノ郷と命名されるわけですが、ここは
流星となっていて牡と解しており、5月生まれをマーチにしています。
しかし貴重な情報がありますね。
飛花は大きくて強くて速さに優れた馬だったと。

麒麟は明治8年5月7日生まれの芦毛、母は和種三十一号(慶応3年泉沢産、
芦毛、4尺5寸)
ダブの正体はわかりませんね。ダブレンだとすれば生年はこちらが正しいので
しょうが、あるいはダビンかも。
カモイダケ(神威岳?)は父が青森県産とありますからいわゆる南土合です。	 

 

 
建部彦麿氏  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月11日(火)21時38分33秒	 返信・引用

 検索すると後に壮瞥、留寿都で牧場を開いたようですね。
建部地区というのは御尊名が由来という事ですか。

また北大北方関係資料からですが、
この綺麗な芦毛は第四ブラドレーで間違いないところですかね。
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0B018830000000000

このサイトで、キーワード「馬」で絞り込み検索すると、色んな資料が出てきますね。
ネットで閲覧できるものではダブリン、キーンリチャード(キングリチャード)の
血統書ですとか…既にこの辺の資料は御研究済みでしたか?
「馬4頭の血統書」に出てくるのは「リウセイ」「ダブ」「カモイダケ」「キリン」
ですかね。生年はキリンが明治8年で、他3頭が明治11年でしょうか。
英単語が所々読み取れないのですが、父がダブリンという「ダブ」は
名馬「ダブレン(ダブリン)」のことでしょうか。
確か明治12年(1879年)生まれだったと認識していたのですが…。
「キリン」はブラッキプリンス(ヤングブラックプリンス)産駒と記されてますね。	 

 


その人のことなんですが  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月11日(火)19時13分0秒	 返信・引用

 本当に上海で騎乗経験があったのなら日本人騎手のパイオニアかもしれません。
口からでまかせの可能性の方が大きいような気はしますけど。

今日JRAの人から『北海道に生きて』(昭和55、北海道新聞社)のコピーを
いただきました。その中に建部武四郎「わが家の歴史」という文章があり、それ
によると建部家は明治14年に福岡から移住したのですが

次は北海道という寒地における農畜業の勉強である。以前から福岡藩では藩士の
青年に馬術の教練をしていたが、たまたまその指導に、日本の三馬術名人の一人
として著名な函館大経という教師を招いたことがある。彦麿もこのとき馬術指導
を受けたことを思い出し、連絡をし自分の希望を伝えた。
函館大経氏から「ぜひ渡道されよ。幸い自分は現在、七飯の勧業農事試験場に勤
めているので、出来るだけお力になりたい」との便りであった。

函館に上陸すると、大経氏から依頼を受けているという旅館の主人が案内してく
れ、函誰山の麓にある旅館で、にぎわう元町の灯を一望にしながら北海道の第一
夜を過ごした。
彦麿は翌日、七飯の農事試験場に函館大経を訪ねた。試験場は米人ケプロンの勧
めで出来ただけあって、すべての施設が整備されており、牧畜、林産、養蚕等に
分かれ、農場周辺には杉、トド松、ナシ、梅、桃、リンゴが栽培され、植物園に
は苗木が植えられて、外国種の穀類や野菜が広がっていた。
大経が案内してくれて彦麿の目を驚かせたのは外国産の見事な牛馬であった。
差し当たり函館に適当な住居がないため、大経氏の計らいで函館師範学校の寄宿
舎の舎監として住み込むこととなった。

建部彦麿は入植するつもりでしたが、そのまま師範学校の漢学教師になります。	 




資料(スクラップ)が  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月10日(月)21時08分57秒	 返信・引用

 探しても見つからないので(汗)、ピンボケしたレスになるかもしれませんが
ここでの「注目すべきポイント」とは、荻野徳太郎騎手(良く知りません)が
当時の上海で騎乗していた、という所でしょうか?

#スクラップの山、そろそろデジタル化して保存しておかないと大変な事に…。	 




栗毛のように見えますね。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月 9日(日)22時23分15秒	 返信・引用

 冨士越なら流星があるはずなので七重の種牡馬には該当する馬がいません。
あるいは馬車会所から移した去勢馬の魁(1867年米国産)でしょうか。
もうひとつの可能性としては明治10年に輸入され、新冠で12年に死んだ
ダブリンですね。函館に陸揚げして一時七重に置いたのかも。

明治16年11月4日付け函館新聞に注目すべき記事がありました。10月
27日の第1回函館競馬2日目第9レースです。萩野と書いておぎのとルビ
が振られているのが謎ですが。

第九回は一回半にて山田慎氏持の山越野が勝を得たり此時如何せしか萩野徳
太郎氏は真逆さまに落馬せしかば若しや怪我などせしならんかと人々案せし
に流石同氏は嘗て横浜及び上海等にても競馬に出でヽ熟練の先生程ありて直
ちに起き上りて微笑と打笑ひしは反って勇ましく見えにけり	 




胤馬と表記していたんですか  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月 9日(日)17時56分29秒	 返信・引用

 「日本初の種牡馬広告」と言っても差し支えないような文章ですね。
明治16年だと大黒柱の*ドンジユアンも未だ健在でしたか。

この写真も種馬のようですが、撮影年度が明らかじゃないのが残念ですね。
http://www2.town.nanae.hokkaido.jp/rekisikan/pichari/dayori73.pdf	 




重ね重ね失礼しました。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月 9日(日)15時42分33秒	 返信・引用

 第二ボツプエークルは明治20年生まれです。

明治16年12月2日と4日の函館新聞に七重の「胤馬種付手続」が載っています。
産駒に血統証書を出すとありますから、日本の血統登録の原型とも言えるでしょう。
前文に当たる「種付手続」がなかなか格調高いのでご紹介します。

西人云へることあり曰く生児の美質は之を父に受け生児の美形は之を母に受くと故に
馬種を改良し蕃殖を謀らんと欲するものは同血同形を生ずといふ動物天然の規則によ
り双親の生質鋭鈍を察し形体の美醜を視然る後交接をなさしめされば仮令数万の馬を
蕃殖し得るも徒労に属するのみ此れを以て当所々蓄胤馬の種付を望み当所に於て差支
なきときは左の箇條に拠りて取扱ふべし	 




明治19年ですと  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月 9日(日)08時35分1秒	 返信・引用

 第二ボツプエークルスと同年生まれということに?

札幌初の競馬場ですか。亭というのは清華亭の事でしょうね。
大経師はここでも縦横無尽の活躍ぶりのようで…。

一応競馬場の写真も現存してるのですね。
http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/episode/018.html
もっとも、草地に埒を張り巡らしてあることしか確認できませんが。	 




失礼、第三は明19です。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月 8日(土)23時36分51秒	 返信・引用

 函館新聞は明治16年9月16日の札幌競馬を詳しく報じていました。

競馬場は亭を距る約そ一丁馬埒円形にして周囲半里(凡七丁二十二間)にて幅之れに
称ひ外部は大木之を蔽ひ場内にも数株あり自然の景色に富めり中央に一棟屋あり階級
を設け眺覧に便す検査所あり検査員函館大経氏及び森定道氏等此にあり勝敗を検し且
両氏は其前より専ら経営奔走されしと聞へぬ

競馬に先ち函館大経氏自ら一馬に倚り縦横馳せ廻られしが素より調馬に名ある人なれ
ば一同其熟練なるを感じ合へりと

最後に旧土人二名他の騎手二名と合せ皆騸馬に跨りて馳駆す中に旧土人一名稍後れ馬
上に直立して馳せて戯るといへども一興を催ふしたりとぞ	 




貴重な情報  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月 7日(金)20時48分53秒	 返信・引用

 ありがとうございます。
もしかしたら写真の仔馬はドンジユアン1×2の七重だったかも知れませんね。
表中の第二ドンジユアンと第三ドンジユアンの生年が同じ明治18年になってました…。

ちなみに把握しているジヨンアールの父系図はこんな感じです。
父不明
|*ジヨンアール(1882 牡 鹿 不明)
| |第三ジヨンアール(不明 牡 不明 不明)
| | |新野(1908 牡 鹿 岩見)
| |玉月(不明 牝 不明 不明)
| |春花(1891 牡 鹿 七重ノ緑)
| |斫風(1892 牡 鹿 七重ノ緑)
| |追風(1892 牡 鹿 第三ドンジユアン)
| |奔星(1892 牡 栗 第二キングスリー)
| | |日本桜(不明 牝 不明 不明)
| | |第三奔星(1903 牡 栗 岩見)
| |第二北清(1901 牡 黒鹿 *北清)
| | |ハツカリ(1907 牡 黒鹿 不明)-帝室御賞典(阪神秋)-1911
| |タチバナ(1904 牡 鹿 不明)-2着-帝室御賞典(東京秋)-1908
| |シラナミ(1905 牡 黒鹿 不明)-3着-帝室御賞典(東京秋)-1908
| |北洋(1906 牝 鹿 香月)




七重官園産馬について補足  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月 6日(木)23時06分19秒	 返信・引用

 七重ノ郷
 七重(明17 牝 栗 父ドンジユアン) 父娘交配ですね。
七重ノ緑
 第二ドンジユアン(明18 牝 栗 父キングスリー)
  泰山(明22 牡 鹿 父チヤーレイヂラード)
  初咲(明24 牡 鹿 父チヤーレイヂラード)
 第三ドンジユアン(明18 牝 鹿 父ジユニオルアドミラール)
  追風(明25 牡 鹿 父ジヨンアール)
 第二ボツプエークル(明19 牡 栗 父ボツプエークルス
 春花(明24 牡 鹿 父ジヨンアール)
 斫風(明25 牡 鹿 父ジヨンアール)
 八重霞(明26 牝 栗 父ボツプエークルス) 続氏「武彦七所有 競馬の花形」
  第二八重霞(明35 牝 父ユスーフ) 「競馬の花形」
   八重桜(ヤエサクラ 明44 栗 牝 父セントフヲスチノ) 「3連勝不敗」
    キンバレー(大9 牡 栗 父ガロン) 「5尺2寸5分」
第二キングスリー
 第二バーブ(明24 牡 鹿 父ボツプエークルス)
 奔星(明25 牡 栗 父ジヨンアール) 明治の大種牡馬の1頭です。
 凌霄(明26 牡 鹿 父ボツプエークルス)
第二アドミラール
 冨士ヶ峯(明23 牝 月 父ボツプエークルス)
 初駒(明25 牡 鹿 父ボツクエークルス)
 飛練(明26 牝 月 父ボツプエークルス)
  第三飛練
   第五飛練
    第七世飛練(大8 牝 黒鹿 父ラシカツター) 「5尺1寸」	 

 

 
感謝です  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月 5日(水)22時02分49秒	 返信・引用

 以前の牝系図は間違いだらけだったですね(汗)
修正したデータを貼りたいのですが、SireLine のテキスト出力機能が
Windows7 では利用できないみたいなので…簡略版を手入力します。

*飛花(1865 牝 月 父不明)
|七重ノ郷 七重ノ里(1878 牝 栗 *ドンジユアン)
|七重ノ緑(1879 牝 栗 *ドンジユアン)
|アメリカ 亜米利加(1882 牝 鹿 *ボツプエークルス)
|ワシントン 華盛頓(1883 牝 栗 *ボツプエークルス)
| |第三ワシントン(不明 牝 不明 *モルモン)
| | |ホワイトローズ(不明 牝 不明 *ラピアス)
| | | |セイウン(1919 牡 鹿 *セントフヲスチノ)-3着 帝室御賞典(阪神春)(阪神秋)-1923
| | | |セント・ローズベリー(1920 牡 栗 *セントフヲスチノ)
| | |コマリウ 駒龍(1915 牡 栗 *ラピアス)-各古馬特H(中山秋)-1920
| | |オシヲロ(1917 牡 栗 *ラピアス)-抽籤馬特H(中山秋)-1922
| |第三初蕾(不明 牡 不明 初蕾)
| |初蕾(1889 牡 鹿 *ジエービーフエルグソン)
| |花薫(1898 牝 青 初蕾)
| | |香月(1902 牝 栗 第五ボツブエークルス)
| | | |北洋(1906 牝 栗 *ジヨンアール)
| | | | |トルーバドウーア(1916 牡 青 *ウイリアムレツクス)
| | | | |ナイト 第六北洋(1919 牡 鹿 *ラピアス)-帝室御賞典(横浜秋)-1924
|第二キングスリー(1885 牝 栗 *キングスリー)
| |第五ボツブエークルス(1896 牡 鹿 *ボツブエークルス)
|第二アドミラール(1886 牝 川原 ジユニオルアドミラール)
| |飛練(不明 牝 不明 *ボツブエークルス)
| | |第三飛練(不明 牝 不明 *ユスーフ)
| | | |第五飛練(不明 牝 不明 *セントフヲスチノ)
| | | | |アサヒ(1915 牝 鹿 *ダイヤモンドウエツデイング)-帝室御賞典(横浜秋)-1919
| | | | | |アサトモ(1930 牡 鹿 *ロイヂユール)	 

 



同じ馬です。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月 5日(水)08時24分40秒	 返信・引用

 後代史料には七重ノ里または七重里という名で出てきますが、北海道文書館に
あった同時代史料には七重ノ郷または七重郷と書かれています。

飛花 1865生 流星月毛 亜米利加ニウヨルク産 明8.5.7東京より輸入
11.5.25 七重ノ郷     牝 流星栗毛 父ドンジユアン
12.4.28 七重ノ緑     牝 流星栗毛 父ドンジユアン
15.3.25 亜米利加     牝 鹿毛   父ボツプエークル 明20.5真駒内
16.5.6  ワシントン    牝 星栗毛  父ボツプエークル 明20.5真駒内
18.3.20 キングスリー   牝 星栗毛  父キングスリー
19.4.16 第二アドミラール 牝 川原毛  父ジユニオルアドミラール
明20.6園田実徳へ貸与

牝馬ばかり産んでいます。ワシントンは真駒内では華盛頓です。	 




アイヌの競馬ですか  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月 5日(水)06時35分21秒	 返信・引用

 その前日には七重も訪れていたようですね。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32041/1/SyagakukenRonsyu_08_00_015_Shigematsu.pdf

「七重ノ郷」と言う馬はドンジヤン×飛花の「七重ノ里」(この馬名の情報元は
失念してしまいました)とは別馬なのでしょうか?	 




凄い写真の宝庫ですね。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月 4日(火)22時53分50秒	 返信・引用

 飛花錦という馬はいないので飛花かなと思っても、飛花は月毛ですから
明らかに写真の馬とは違いますね。洋種牝馬というキーワードから唯一
可能性があるとすれば七重ノ郷(流星栗毛、明治11年生)でしょう。
七重ノ郷という名が付く前に飛花錦と呼ばれていたのかもしれません。
現存最古の牝馬名簿には表紙に第二家畜房と書かれていますので。

ところで初期の函館競馬は蓬莱町の道路を使って6月の招魂祭に行われ
ていたわけですが、明治12年7月22日に同じ道路を使い、香港太守
(総督)来函を歓迎して「土人の競馬」を行うという函館新聞の記事が
ありました。残念ながら結果を伝えたはずの号は現存しません。	 




やはり  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 3月 4日(火)19時28分15秒	 返信・引用

 後ろの建物は第一家畜房なのでしょうね。
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=ctrl&ei=kakVU_ypKIPN8gehu4G4CA&gws_rd=cr#q=www2.town.nanae.hokkaido.jp%2Frekisikan%2Fpichari%2Fbacknumber%2FH25%2Fdayori70.pdf+
左右反転してますが周辺の木々の様子など一緒だと思います。
だとすれば第二家畜房建設の明治14年以前にここで馬の写真が撮影されたのも納得ですし、
御推測のブラツクホーク&神戸説とも時期的に符合しますね。

ここの下の方にも七重官園の写真が一杯ありますが
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=ctrl&ei=kakVU_ypKIPN8gehu4G4CA&gws_rd=cr#q=www2.lib.hokudai.ac.jp%2Fhoppodb%2Findex.php%3FFF%3D1%26hd%3D%25E3%2583%258A%26max%3D100%26pageID%3D5
明治10年代撮影の洋種牝馬飛花錦というのは飛花のことでしょうか?

#直リン貼ると何故か投稿エラーになるので、申し訳ありませんがグーグル経由で入ってください。	 




あの頃新冠へ送る馬も  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 3月 4日(火)07時48分2秒	 返信・引用

 函館に陸揚げしてお披露目したんですね。七重まで行った馬もいたそうで。
下の馬は青毛で右前肢と両後肢に白があります。青毛で星(横を向いている
ので確認できませんが)・三白というブラツクホークかもしれません。明治
13年に5歳で輸入され、北海道馬産に最大の功績があったと言われます。

もしもそうなら明治13年5月頃の撮影となり、すると上の写真は種牡馬で
はなく、貨車用の牝馬神戸(1861年イタリア産、明治7年函館馬車会所
より移入、17年斃死、鹿毛粕)かもしれません。たてがみと尾が黒いよう
ですし、粕毛のおびただしいものは真っ白に見えることさえありますから。