2014年8月、7月、6月




お恥ずかしい  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 8月29日(金)23時38分11秒	返信・引用 編集済

ちょっと調べれば出て来る名馬ですね。申し訳ないです。
これ完全にボケたかな…。

「歩み」に掲載された全成績見ましたが、横浜での3戦は3連闘(3日間)なのですね。
この3日の走りだけで明治最強馬という事ですから、さぞ底知れぬインパクトを残したの
だろうと。ゼ・コロネットに着差一町ということは100m以上の大差勝ち…。
種牡馬として厚遇されなかったのが残念ですね。	 




日本では  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 8月29日(金)20時25分3秒	返信・引用

第二インペリヤルミストラル Imperial Mistral II と呼ばれました。
明治時代の日本競馬界最強馬だったと考えて間違いありません。

DRFの成績書では Mistral II となっていますが
ASBには imp. Mistral 2nd という名で登録されています。当時ASBは
持込馬を胎内輸入馬として馬名に imported の意味の imp. を冠したのですが
日本レースクラブはこれを Imperial の略だと誤解したようです。
そのあたりのことが面倒なので昨日は馬名について書きませんでした。

1901年と1902年はアメリカで種牡馬として供用されたと思われ
日本でも静岡県あたりで供用された形跡があります。	 




この馬  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 8月29日(金)06時08分8秒	返信・引用

http://www.pedigreequery.com/mistral33

日本での馬名も「ミストラル」でいいのでしょうか?	 




mistral33  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 8月28日(木)23時50分53秒	返信・引用

この馬の説明に日本での3戦3勝が抜けていますね。
また、2着したレースは Fabiola Cup ではなく Fabiola Handicap です。

Year  Country  Start  Won  2nd  3rd
1896  U.S.A.       6    1    1    1
1897  U.S.A.       6    0    0    0
1898  U.S.A.      37    8    9    8  2nd Fabiola H.
1899  U.S.A.      30    4    5    3
1900  U.S.A.      15    1    1    2
1901  U.S.A.       2    0    0    0
1902  Japan        3    3    0    0  Won All-Aged S., Tokio S., All-Comers H.
total             99   17   16   14	 




続秀太郎  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 7月 4日(金)08時00分22秒	返信・引用

1886(明治19)年8月4日−1938(昭和13)年4月28日。
という事ですか。具体的な病因は記されてないようですね。

まぁしかし友人総代の顔ぶれが豪華なこと…。
これほどの存在感を示した続氏ですが、未だにネット検索しても
ほぼプレッチーポリーがらみでしかヒットしませんね。
書き手がいないと歴史に埋もれてしまう典型例でしょうね。




函館新聞昭和13年  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 7月 3日(木)21時35分30秒	返信・引用

5月6日夕刊(翌日付けなので5日発行)が続秀太郎氏の死を伝えていました。
写真も載っていまして、ふてぶてしい容貌を想像していたのですが、神経の細か
そうな四角い顔に丸い眼鏡をかけ、どう見ても「社長」ではなく「先生」タイプ
でした。行年五十三。明治19年8月4日生まれなので、まだ満51歳でした。

父秀太郎儀旅行先ニテ発病横浜市大雄山病院ニ於テ加療中薬石無効四月二十八日
午後三時五十分死去仕候間此段生前辱知諸彦ニ御通知申上候也
 追テ葬儀ハ来ル五月七日午後一時自宅出棺途中行列ヲ廃シ湯川町明光寺ニ於テ
 告別式相営ミ可申上候
昭和十三年五月四日 湯川町千人風呂
男    続 駒男
妻      ノブ
親戚総代 大泉正一 続 隆吉 内山 通
友人総代 一條友吉 尾形景造 伊藤勝吉 内藤精一 和田勇雄	 




いえ  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月12日(木)17時10分12秒	返信・引用

古写真を眺めてあてずっぽうに当時を思い描いているだけでして。
いろいろとヒントをいただきありがとうございました。
 



そういうことでしたか(汗)  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 6月11日(水)07時59分53秒	返信・引用

しゃとるさんは一次資料を発掘なされる方ですものね。
自分には出来ない事なので、心から敬服いたします。
また何か面白いモノが出て来ましたら是非お話お聞かせ下さい。	 




あっ  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月10日(火)23時35分28秒	返信・引用

いえいえ、血統の記録をちゃんとつけられている競走馬なのかなという意味でして。
血統不詳の在来牝馬に洋種の種牡馬を掛け合わせた雑種、という感じに見てました。
烙印などで区別しているのかもしれませんが、これだけいると個体の識別をしている
ように見えないなと。

坪内徳太郎・幸次郎の両氏と坪内源次郎・元三郎兄弟が血縁に当たるのかどうかも
わかりませんが、つながりを示すような資料を探す楽しみはできました^^

厚紙の台紙に鶏卵紙の写真が貼り付けてあるのですが、台紙から写真を剥がしたら
写真の裏に何か書いてあったりしないのかななどと妄想してます。あるいは
CTスキャンとか^^;


 

なるほど  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 6月10日(火)20時30分21秒	返信・引用

今で言うところの血統登録的な作業だったとしたら、周辺の牧場からも
多くの若馬が集められていた可能性があるかもしれませんね。

騎乗している人が二人写ってますが、坪内徳太郎氏か幸次郎という
ことも考えられますよね。坪内家に何らかの由来がある写真でしょうし…。	 
裏書がないので  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月 9日(月)23時53分12秒	返信・引用
 	撮影時期もなにもわからない状態で残念です。
ところどころに切り株みたいなものが残っているし、奥の方に着物を着た女性や
よちよち歩きの幼児の姿もあり、そんなにお金をかけていない個人経営の牧場の
ようにも見えるのですが。
うじゃうじゃいる馬も血統を管理されているのかな?と。


 

裏書が  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月 9日(月)23時29分2秒	返信・引用

なにもないので	 



凄い馬の数ですね  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 6月 8日(日)18時33分58秒	返信・引用

100頭近くいそうな感じです。ほとんどが軽種に見えますが果たして…。
しかし何のために一箇所に押し込めているのでしょう。写真撮影のため?
当時の道内の牧場事情がもうひとつ把握できてませんが、もしこれだけの数を
繋養していたとすると、御指摘の真駒内か新冠御料、あるいは七重官園くらいしか
ありえないような気がします。

もちろん道内限定なら、ですけれど…。	 
うーん残念  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月 8日(日)02時24分7秒	返信・引用
 	教えていただいた北海道庁種畜場の技手に坪内徳太郎氏の名前を確認できましたが、
同時に坪内幸次郎氏という方の名前も発見、こちらが兄弟でしょうか。

坪内元三郎氏の写真の中に詳細不明の牧場写真があるので、北海道庁種畜場に
関係あるかもと期待したのですが・・・。


 
 
 
坪内徳太郎氏は  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 6月 7日(土)20時21分33秒	返信・引用

明治30年代には北海道庁種畜場の職員でした。
畜産共進会を報じる北海タイムスの記事に名前が出てきます。

真駒内ではトロッター×ペルシュロン(いわゆる農トロ)の出来がよいので
農トロを生産しては種牡馬として各地に送り出し始めていましたが、
タイムスは農トロの効用は認めつつもそれはあくまで作られるもので
種牡馬は原種、この場合はトロッターとペルシュロンであるべきとの考え。
要するに敵の一員として真駒内の職員の名を並べた中にありました。




びっくりしました  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 6月 6日(金)20時44分52秒	返信・引用

半蔵、広高、一の順でしたか。いやはや、わからないものです。
自分のように情報源がネットオンリーだとこういう時に酷い目に遭いますね。
しかし改めて情報の拡散って恐ろしいです。気をつけないと…。	 




なるほど長男が  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月 6日(金)00時37分21秒	返信・引用

半蔵氏なのですか。通説の三兄弟が年齢的にまったく入れ替わるわけですね。
この時代の家族関係は複雑ですね。

坪内源次郎氏という騎手がいたのですか?それでは明治23年の不忍池競馬はそちらの源次郎氏が
参加していたのかもしれませんね。
当時の函館競馬の審査部員に「坪内徳太郎」という名前をみつけ、元三郎氏の血縁かもと
考えていたのですが、長男徳太郎、次男源次郎、三男元三郎なのかも。
多賀氏の話の後なのでまったく確信もてませんが。



 
半蔵は長男ですから  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 6月 5日(木)21時58分44秒	返信・引用

還暦前後の逝去になります。「花月草紙」が廣高の兄として名を出しているのは
半蔵だけで、一は多賀某と書かれているので外で出来た子の扱いです。『尾形藤
吉』に91か92で死んだとあるので維新前後の生まれと思われます。

官員録の十六等出仕には若手のバリバリが名を連ねていますね。片岡辰吉は天覧
馬術もした名手ですし、岡次善(治善)は不忍池競馬の花形、福羽守人は騎手と
して活躍した後東京中央郵便局の厩舎長になりました。彼らがハイティーンだと
すると十七等出仕はミドルティーンと考えられます。

 


タキの多賀家養女入りは  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 6月 4日(水)22時22分35秒	返信・引用

家柄の格を考えての事だったのでしょうね。
政財界のドロドロとした人間模様が花月、湖月を舞台に繰り広げられていたと。

多賀半蔵はかなりの早逝で、広高は73歳位で逝去のようですが、
一はなんとまぁ長命ですね。昭和35年没と仮定しても、広高と同年生まれだったら
享年100歳になります!もし兄だったなら100歳以上の御長寿、弟だったとしても
90を越えてなお御存命だったということになりそうです。
(米寿の祝いが昭和何年の事だったのか判明すれば生年もハッキリするんですが…)	 




『日本の騎手』の記事は  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 6月 4日(水)21時22分9秒	返信・引用

『尾形藤吉』(昭和39年)からの丸写しです。同書によれば大正5年に多賀半蔵が
死んでHクラブは解散しました。多賀半蔵は大正2年に東京競馬倶楽部を脱会してい
ます。平岡広高は昭和9年没。多賀一は『尾形藤吉』が出る少し前まで存命でした。

湖月厩舎がそのまま尾形厩舎になったので、尾形師は多賀氏を終生の恩人とし、府中
に引っ越してから屋敷の中に8畳と6畳に水洗便所を付けた離れを建て、多賀氏専用
としました。また、多賀氏の米寿の祝いの費用も全額負担したということです。

明治23年の札幌の代表騎手は飯田藤作、杉浦禎之進、坪内源次郎です。源次郎はお
そらく元三郎の兄だろうと思います。	 




もちろん眉唾混じりです。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 6月 3日(火)22時28分5秒	返信・引用

「花月草紙」によれば、廣高を育てた太田滝は奈良原繁にあの子守娘を座敷に呼べと
何度も請われて16歳で結ばれ、飛行機で有名な三次を産んだというのですが、明ら
かに間違いで、滝が産んだのは次男幸彦です。後年の日陰の存在とは違って明治初期
には妾は二親等の親族で、庶子も嫡子と同等の扱いをされていました。

奈良原家は長男が死んで幸彦は「多賀タキの私生児」として除籍され、三男の三次が
次男に繰り上がって、再び幸彦が入籍されました。これは本妻が産んだ三次に家督と
爵位を継がせるための手段でしょうが、奈良原繁は本妻や三次とは別居し幸彦と終生
行動を共にしました。タキは若くして亡くなったと思われますが、注目すべきは姓が
多賀になっていることで、奈良原家に送り出すに当たって養女にしたようです。廣高
にとっては子守の姐やが義理の姉になっていたということですね。

平岡兄弟の資料探しで家の中のゴミを漁っていたところ、大経負傷の記事のコピーが
出てきました。最近の大発見と喜んでいたのですが、実は大間抜けだったようです。	 




普通に考えたら  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 6月 3日(火)19時47分56秒	返信・引用

三兄弟と記される事が多いので、一、広高、半蔵の順なんでしょうけど、
仰るとおり、別の兄弟が幼くして亡くなっていた場合も考慮しなければ
ならないですね。この時代だと幼児の死亡率も結構高かったでしょうし。

都新聞、御閲覧なされましたか。要約ありがとうございます。
賊に襲われるくだりはネットの写真でもかろうじて読めますね。
大正元年の記述ということなので、古い時代の事実関係などは
関係者への取材が頼りでしょうから、既にこの段階で錯誤が
生じている可能性もあるかもしれませんね。	 




「花月草紙」読みました。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 6月 2日(月)21時33分45秒	返信・引用

平岡彦左衛門(前名重太)は文政の頃馬術の名声を妬む賊に襲われ左手の指3本と
片目を失ったがめっかち重太として名を上げ唐津藩の馬術師範に召し抱えられた。
妻けいとの間に娘鑛が生まれ、鑛は家老の次男多賀右金次に嫁いで半蔵と廣高を産
んだ。彦左衛門には男児がないので廣高を養子とした。

右金次は維新の際町人風に装い本所の番場河岸に佐々木屋という船宿を出して舟で
品川沖に旧幕府軍の武器を運んでいたが会津落城を聞いて竹川町の家を買い12月
21日花月の看板を上げた。明治2年全焼したが建て直した。彦左衛門は開拓使に
勤め俸給を仕送ったがけいはそれを全部花月に注ぎ込んだ。

晩年花月の隠居として自適した彦左衛門が死に右金次は花月はすべて平岡家のもの
だと考え廣高に譲り、明治5年末烏森の稲荷祠の跡に狐穴を出し後に湖月とした。

以上が概要です。ちょっと?なのですが、どうも右近次と半蔵の親子は湖月からも
離れたようで、半蔵が歌舞伎座の向かいあたりで料亭若菜を開いたのは既出ですが
右金次も浜町、式部小路を経て最後は日本橋三越近くの有名な料亭蔵多家を買い、
明治末に没した模様です。武士の商法にしては花柳界べったりで成功してますね。	 




次男と  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月 2日(月)12時50分12秒	返信・引用

かろうじて読めますね。次男が広高氏として、長男がどなたかなのかですね。

長男が多賀一氏、次男が平岡広高氏ということなのか、あるいは
長男に当たる方がどなたかいて、亡くなってしまい後妻の子である
多賀一氏が後を継いだとか。多賀一氏の方が若いけど、本家を継いだから
「兄」という言い方になるとか。(まったくの当てずっぽうですけど)

主馬寮にいたということから、馬術家としてのバックボーンのある鑛さんの
子供とも思えますが、なんとも言えないですね。
後妻の柴田フミさんの実家はお米屋さんみたいですが。
http://1000ya.isis.ne.jp/1055.html

待合政治ですか。当時の人を理解しようにも一筋縄ではいかないみたいですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/umiheyuku092727/25587649.html?from=relatedCat



 
以前リンクした  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 6月 2日(月)07時25分50秒	返信・引用

ブログにある新聞記事の切り抜き写真に
http://livedoor.blogimg.jp/mie1946honkeiko/imgs/2/1/2139b6cd.jpg
花月の歴史を紹介する記述があります。
はっきり読み取れないのでアレすが、後半部分に
「〜二人の仲に出来た次男がこの花月の主人廣高であった。」
と記されているような…
…しかし肝心の「次男」の箇所が読み取り難いってのがなんとも。




wikipedia他の  投稿者:しゃとる  投稿日:2014年 6月 1日(日)13時59分39秒	返信・引用

多賀一氏長男説の原典は「日本の騎手」のこの記載みたいですね。
驚いたのは、宮内省主馬寮に勤めていたという記載。あれ?料亭の経営は副業?
「改正官員録(明治16年1月)」の宮内省の名簿にたしかに名前がありました。

平岡氏の10歳年下の弟と仮定して1870年生まれとすると、数えで14歳になったばかりで
主馬寮に入ったことになりますね。弟だったとしてももうちょっと年齢差少ないかも。

年齢については坪内元三郎さんについてもおや?と思っていることがあります。
過去ログに明治23年の不忍池競馬に参加しているという話があったのですが、
明治26年に17歳、大正5年に40歳だとすると、こちらも数えで14歳なんですよね。
いったい何歳で入門したのかな、と。