2014年2月、1月




そうですね  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 2月28日(金)08時09分22秒	 返信・引用

 撮影年度がわかれば被写体の正体もかなり絞り込めるんでしょうけど。
上の写真は馬の向うにも人がいますね。下の馬は結構若そうに見えますが…。
牛の写真は引き手が木の裏側に隠れているんですかね。奥ゆかしい(笑)	 




馬の写真なのですから  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 2月27日(木)22時22分12秒	 返信・引用

 第二家畜房と考える方が自然ですが、撮影年代にもよりますね。
第一家畜房は明治11年8月、第二家畜房は14年6月の落成です。
馬の名がわかればよいのですが、特に上の明るい毛色の馬が謎です。
この写真は私も初めて見ましたが、鮮明なもので驚きました。

10年11月に真駒内に出来たバーンは第一家畜房と同じ構造のはずですが、
中層は11頭ずつ繋ぐ牛欄が3列(33頭)と種牛9頭の欄、耕牛9頭の欄、
加えて子牛数頭を入れる追込室があったとされています。

第二家畜房の場合は1列10頭で36頭というので、耕馬が6頭でしょうか。
種牡馬舎は別にあったはずです。
おそらく壁に向かって馬を繋ぐ欧米の重種・中間種飼養法だったのでしょう。	 




第二家畜房は  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 2月26日(水)07時39分5秒	 返信・引用

 事務所側とは随分離れていたんですね。
https://mapsengine.google.com/map/viewer?mid=zGYSB-TqgsTM.klr578aEK510
本籍が大中山村ということは屋敷はこの近辺という事ですか。

http://dounan.exblog.jp/20557230/
これらの馬の写真は見たことがなかったような気がします。凄く鮮明ですね。
後方の建物は第一家畜房と推測されてるようですが、もし外観が同様だったのであれば
第二家畜房という可能性も捨てきれないのでは…。




それですね。  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 2月26日(水)00時04分33秒	 返信・引用

 ただし説明文には誤りがあって、牛と馬を同じバーンに入れたのではありません。
『明治百話』によれば同じものが東京にもあったようですが(豚逃走で大騒ぎ)、
明治10年ダンの設計により真駒内に建てられ、翌年七重にも同じものが建てられ
ました。上層は乾草置場、中層は牛舎、下層は半地下式の豚舎になっていました。

第二家畜房は中層を馬用にモデファイしたもので、牝馬30頭の馬房の他に子馬用
の馬房もあったはずです。詳細を記した資料があったのですが今見つかりません。
竣工は明治14年6月でした。大経は弘化3年生まれとして満年齢は誕生日が来て
いれば36歳、まだなら35歳ですね。跛行は明治15年頃だけだったのかも。	 

 

 
明治14年という事は  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 2月24日(月)08時22分48秒	 返信・引用

 弱冠35歳位ですかな。
その当時のことですから、多少の後遺症は残ったのかもしれませんね。

七重官園の第一家畜房はこの建物ですか。
http://www2.town.nanae.hokkaido.jp/rekisikan/menu_1/shiseki/kachiku1.html

 

 
大正時代の回顧記事に  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 2月23日(日)23時09分42秒	 返信・引用

 明治14年の競馬は招魂社の境内でやったとあるのに調べてみるとちゃんと
例年通り街路で往復競馬をしていたのですが、この年は9月13日に臨時の
招魂祭が行われたことも判明しました。境内云々はその時のことでしょう。

明治13年4月に皇居で天覧馬術、同年後半には七重官園の未墾地を開いて
牧馬場とし馬用の第二家畜房を建て、本籍を大中山村に移していますので、
おそらく屋敷も建てたはずです。牧牛場からは離れているので、牛小屋と
いうのは屋敷に隣接して搾乳用の牛舎を建てていたのでしょう。

14年は春に東京で第2回内国勧業博覧会の審査員を務め、9月には七重に
天皇の行幸を迎えて天覧馬術、10月には第2回北海道農業仮博覧会を切り
回し、人生の絶頂期にあったと思われます。油断大敵ですね。	 




詳細な記事がありましたか  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 2月23日(日)09時20分4秒	 返信・引用

 程度はわかりませんが右脛の骨折という事で、切断には至らなかったと。
伝説に纏わるエピソードがまたひとつ解明されました。

まぁしかし酒がらみの逸話には事欠かないようで…。	 




明治14年12月4日の  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 2月22日(土)19時38分38秒	 返信・引用

 函館新聞を読みまして、『蹄の音』の記述は正しいことがわかりました。

七重勧業試験場詰御用係函館大経氏の馬術に有名なるは人の知る所なるが去
る一日同場に予て飼置数頭の牧牛に甚だ癖の悪しき牛一頭ありて折々人を誤
つこともありしが其日も例の癖を出せしかば函館氏は痛く其癖を懲しけるが
晩餐一酌の后同氏は彼牛小屋に到り人に物云ふ如く癖の悪しきことを諭し手
を以て首の辺より背へかけて撫さすりしに牛は前足を以て函館氏の右足の脛
骨を蹴附しに不意のことなれば一時其処に打倒れ早速治療をされ当港よりも
院長深瀬鴻堂氏が見舞はれ治療されしが外面より見れば別段疵所とては分ら
ねど内部脛骨をば打折られ余程治療に面倒にて廃疾とならねばよいがと一同
心配のよし其折函館氏の云はれしに癖の有無に係はらず酔中には必ず牛馬に
近付なと師の教なりしが夫を近付しは拙者の過ち今更後悔致せば以後人々注
意すべきことなりと云はれしよし牧畜に熟練の同氏にして此過ちありしは誠
に不慮の事とゆふべし

12日の紙面には公立病院にて治療中、快方に向かい廃疾とはならずと。	 




今年もよろしくお願いいたします  投稿者:ふてき  投稿日:2014年 1月19日(日)19時35分48秒	 返信・引用

名を知られているのは記事の翌年に宮内省賞典を勝つことになる
タチバナだけでしょうかね。
青毛という情報もありましたが、黒鹿毛が正解でしょうか。

早逝した*ブラックプリンスの活躍馬というのはあまり耳にしたことがないような気が。	 




明治13年11月18日の  投稿者:通りすがり  投稿日:2014年 1月18日(土)23時34分51秒	 返信・引用

函館新聞に東京及び横浜の競馬で活躍した3頭の馬が紹介されていました。
日本語史料で競走馬の血統に触れた最初の例かと思います。

駒ヶ岳 牡 鹿毛 明治8年5月7日七重官園産 同12年12月開拓使東京出張所移送
 父トロ(米)ブラツクプリンス
 母和種第十二号 河原毛 文久3年渡島国五勝手村産 明治6年七重 同9年登別牧場

橘 牡 黒鹿毛 明治7年4月東京官園産
 父トロ(米)ドンジユアン
 母和種 黒鹿毛 明治6年磐城国三春産(6年は官園入場年か?)

玉兎 牡 新冠牧馬場(後の新冠御陵牧場)産 明治13年開拓使東京出張所移送
 父母共に同場産の和種