2014年5月 推理の参考までに 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月31日(土)16時25分43秒 返信・引用 この写真が結構鮮明なので。 右から4番目が多賀一氏ということですが、撮影が1934年の正月。 1860年生まれの平岡広高氏は(写ってませんが)この時、数え73歳になっていた はずですから、写真の氏がそれより上か、下か… …うーん、これは何とも微妙で判断つきかねます。 「一」という名前は長男っぽいですが…。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Family_of_tokichi_ogata_and_prince_higashikuni_aruhiko.jpg その記事はトクホの 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月30日(金)23時28分2秒 返信・引用 種牡馬入りに関連したものでしょうね。花月楼を新橋竹川町と書いているのは京 橋竹川町(銀座7丁目)の間違いです。新橋には別に湖月楼という料亭があり、 多賀一氏の住所芝区烏森町4(新橋二丁目)がそれです。 『競馬ファン』昭和7年12月号「往年の馬主を覗く」K・N生 平岡廣高氏 尾形厩舎をして今日あらしめたのは實に氏と令弟多賀一氏あつたればこそなので ある。得甫老廣高氏は京濵間鶴見に兒童遊園地花月園を経営されてゐる。 馬のことは一切弟の多賀氏が當たられてゐる。今日まで有名な馬にトクホ、フロ ラカツプ、キングフロラ等がある。 筆者は野辺好一氏です。私が野辺氏からお聞きしたところでは3兄弟で、目黒競 馬場近く(目黒4丁目)に共同で湖月厩舎を持っていたのです。 湖月楼を経営していたのは柴田フミで、兄弟の父多賀右金次の後妻とされていま すから、多賀一氏はフミの子ではないかと思うのです。 トクホは大正11年まで福島県で供用されましたが、その後地方競馬を走ってい るところを黒沢文助騎手に救出されたというニュースがありました。 何が何やら。 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月30日(金)19時17分39秒 返信・引用 トクホ号を調べていたところ、名馬録(大正8年)にこんな記載が。 多賀一氏が兄とあり、口取りしちゃってますね。 もう何が何やらわからなくなりました。 北園の母 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月30日(金)08時08分27秒 返信・引用 手がかりは掴まれましたね。 払い下げられて改名、日高という馬名だけが手がかり… 道のりはまだまだ長そうです。 多賀一氏が弟ですか。wiki の記述が間違いという事かな。 平岡広高氏が1860年生まれみたいですから、多賀一氏が10歳くらい下ですかね。 1933年のアスコット口取り写真を参考に推測しただけですけど(汗) 広高氏の母方が馬術の世界の家柄なのですね。 http://blog.livedoor.jp/mie1946honkeiko/archives/51600774.html ホクエンの血統判明! 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月29日(木)19時40分19秒 返信・引用 と喜んだものの・・・。従来、北園(第三豊平)の母は洋種というだけで馬名不詳と されてきましたが、北海タイムスの札幌競馬報道に北海道物産共進会出品馬と書かれ ていて、そちらを探すと母日高(御料産)とありました。 ただし新冠御料牧場に日高という生産馬はいませんし、ホクエンの生産者大塚助吉に 売られた馬もいません。馬喰に払い下げられた馬が転売され、日高と改名されたので しょう。明治35年以前に民間に払い下げられた洋種牝馬は十数頭いて、とても特定 できません。母馬名はわかったけれど、正体はまだ藪の中です。 下の方で多賀一氏が平岡広高氏の兄という書き込みがありますが、平岡氏が兄です。 年齢も離れていて、おそらく異腹の兄弟だと思います。 こちらこそ 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月27日(火)07時26分34秒 返信・引用 ありがとうございました。 これからも是非お気軽にお書きこみ下さい。 やっぱり 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月26日(月)23時32分26秒 返信・引用 彦七さんは「ひこしち」が自然でしょうか。湯桶読みという読み方になりますか。 なんだか変な方向に話を広げてしまいすみませんでした。 「つぼうちげんざぶろう」さんの件、ありがとうございました。 たしかに 投稿者:ドサにっき 投稿日:2014年 5月26日(月)21時49分28秒 返信・引用 それはないでしょうね(笑) 輔彦さん、邦彦さんといらっしゃるのでふつうに考えれば「ひこしち」さんなのでしょうけど 私も大変勉強なりました。通りすがり様、しゃとる様にもお礼申し上げます。 今後も期待しております。 「ひこなな」 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月26日(月)08時02分43秒 返信・引用 だけは絶対ないでしょうね(汗) 実際のところは、訛って「ひこすつ」とか、そんな感じで呼ばれていたのかな。 今後は読みで迷ったら正解が判明するまでは音読みでやりすごすことになりそう(笑) ふてき様 投稿者:ドサにっき 投稿日:2014年 5月26日(月)01時04分19秒 返信・引用 お返事ありがとうございました。 私自身の戸籍にも名前の読めない先祖がいたりして、ふりがなしててくれれば良かったのにな と思うことがありました。もちろん、文章で説明する以上読み方なんて大した問題ではないか もしれません。でもどこかにそのヒントがあればと資料を漁ったり、妄想したりするのがま た楽しみだったりします。 もし明治時代に競馬中継があったら、口頭では何と解説するのかな?とか。 私も「たけひこしち」さんだと思っていましたが、武家ではなんと伝わって いるのでしょう? なるほど 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月25日(日)14時04分0秒 返信・引用 「高島俊男によると、戦前には有職読みをすることが一般的であり、」ですか。音読みしておけば 間違いではないということですね。有職読み、勉強になります。 音読みしておいて「その名前の読み方おかしいよ」と言われたら「有職読みです」って言ってやります。 それで言うと武彦七さんは「たけげんしち」さんなんですね。 「ひこしち」と読んでた私、赤面。 なるほど 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月25日(日)13時55分29秒 返信・引用 「高島俊男によると、戦前には有職読みをすることが一般的であり、」 ドサにっきさん、お久しぶりです 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月25日(日)12時42分3秒 返信・引用 自分も元々歴史が苦手で、明治の競馬も全然知らなかったのですが 競馬ブックの連載を拝読して以来、俄然興味を持つようになりました。 とは言っても、今だに皆様がお調べになったものを御うかがいする一方で 自分で調査したりする機会はほとんど得られていないんですけど…。 高橋孔照調教師もそうですが、本来の読み方はどうであれ やはり名前を音読みして話す習慣が割と一般的にあったみたいなですね。 呼称(通称)は分かっているけど漢字はわからない、 適当に当て字しちゃえ、みたいな場面もあったのでは、と。 当時は文字媒体がそれほど身近に溢れていたわけではないでしょうし。 現代の政治家でも本来の読みとは違う通名使っている人が結構いるのですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E8%AA%AD%E3%81%BF 登録騎手名簿を見ると 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月25日(日)01時13分7秒 返信・引用 大正7年の時点では春の阪神、東京、秋の函館に函館大次の名前がありますね。 既に48歳ですから体調を崩して東京には姿を現さなかったのかもしれません。 それなら「御体ヲ御大切ニ遊ばしませ」の文面も納得がいきます。トクホの件は 普通の葉書を使うよりはポストカードの方が気が利いていると考えただけかも。 各地を股にかけるような騎手でも変な所に住んでいる人がいました。 半沢喜一郎(31)千葉県印旛郡遠山村三里塚 星川泉士(23)根室国根室郡和田村 松田嘉太郎(25)石狩国空知郡砂川村 小森園長次郎(33)鹿児島県鹿児島郡中郡守村 エツチコツフエー(34)神戸市オリエンタルホテル 清水権平(27)石狩国空知郡幌向村 元石吉太郎(29)秋田県仙北郡金沢本町 森江小八郎(44)石狩国旭川区宮下通二十丁目 探れば探るほど 投稿者:ドサにっき 投稿日:2014年 5月25日(日)00時06分49秒 返信・引用 以前にも投稿させていただいた者です。 坪内さんの記事を 何度も読ませていただきました。お名前がわかり、私もとてもすっきりした気分です。 大変ありがとうございます。 下記リンクの尾形師の記事には高橋孔照さんの記述がありましたが、「光昌」とあるので (通称かもしれませんが)「こうしょう」なのですね。古い記事には例えば「虎伊」が 「寅作」と書かれていたりして、誤植なのかそれとも別人なのか判別がつきにくく、 特に人の名前は軽んじられている様な気がしてなりませんでした。 ところで 平岡氏は多賀一氏の弟さんですね。wikipedia(アスコット)には尾形師と多賀氏がならん で写っておられる写真がありました。このトクホの写真も馬の体高と比較とすると、 口取りしている方は当時としては大柄なのかなと思います。尾形師も騎手としては背が高 いほうではないかなと思いますが、wikipediaの写真といい多賀兄弟は大柄な方々ですね。 以前は明治の競馬がこんなに面白いとは思いませんでした、私もそんなひとりです。 たしかに 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月24日(土)22時50分43秒 返信・引用 わざわざ鳴尾にトクホ号を持っていくって考え辛いですね。となるとやはり目黒の写真でしょうか。 一枚の写真を見るだけでも、当時の時代背景的なものまで調べることになるので面白いです。 平岡広高氏も、料亭がうまくいかないからトクホ号を連合二哩に使おうとしたと考えていたので、 山師的な人だったのかなと思っていましたが、遊園地が経営難で資金を必要としていたと考えると ちょっといい人に思えてきました。 明治時代にあんまり興味なかったんですが、坪内元三郎さんの写真を入手してから、興味をもって 時代背景を考えるようになりました。坪内さんが生まれたとき、ギリギリ西郷隆盛生きてたんだな なんて。 大次氏は恰幅がいいですし、背もかなり高いように見えますね。 それとちょっとポーズとってるのが面白いです。大正12年の写真もモデル立ちだし^^ トクホは調べていませんが 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月24日(土)20時49分3秒 返信・引用 大正6年秋季阪神には大次も尾形も騎乗しています。尾形は豪抽のアスベルに乗って いました。鳴尾に本拠のあるコイワヰがまだ現役でしたから、呼馬で鳴尾遠征という 発想はしにくいんじゃないかと思います。 平岡広高は京橋竹川町(銀座7丁目)で料亭花月楼を経営し、鶴見に花月園遊園地を 開きました。料亭という連想はピタリですよ。 仰るとおりですね 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月24日(土)20時24分42秒 返信・引用 ああでもないこうでもないと推測し合うのが楽しいですね。 結論を得る事よりも、そこに至るまでの過程の方が好きです(汗) 瓢箪から駒じゃないですが、喧々諤々のやりとりの中から 重要な歴史的発見が見つかったりする事もあるのではないかと。 まぁしかし明治37年の大次の恰幅のよさは騎手とは思えないですね。 一枚の写真で 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月24日(土)13時05分27秒 返信・引用 楽しめますね^^; 私はトクホ号の競走成績も調べていないし、トクホ号と大次氏との関係もわからないので なんとも判断できないですが、写真の印象としてお話しました。 大レースを勝ったあとの華やかな感じがしないのと、 トクホ号が連合二哩に勝ったのは大正4年みたいなので、 3年も経ってからわざわざ関連の薄い馬の名前を挙げて 先生に送るかな~と思ったのです。 しかも本人が写っていない写真をもらってもなあ、と。 「去の局鳴尾で御厄介に預かりました」と 「トクホ号写真余りましたから」が別の文脈とは考えてなかったです。 馬主の平岡広高氏の写真があれば参考になるかなと思ったのですが、 ネットではあんまり写真ないですね。 花月園というのは遊園地なんですね。料亭かなにかかと思いました。 トクホ号の競走成績を調べないとダメかな^^; 文面解読ありがとうございます 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月23日(金)23時09分41秒 返信・引用 トクホは鳴尾で勝ち鞍ありました? 全成績は知らないのですが、重賞級は目黒の連合二哩しか勝ってませんよね。 普通に考えると「花月園の大将が大喜びした」 https://www.prcenter.jp/yushun/column/pdf/02.pdf という連合二哩のレース直後の一枚、という気がします…。 大次とトクホの繋がりがよくわからなかったこともありますが、 「鳴尾でお世話になった云々」というのは別件で何かあったのでは?と思いました。 ちょうど馬券禁止の暗黒時代で、尾形師も例外なく苦しんでいたという エピソードもありましたから…。 解読していただいた後 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月23日(金)12時36分13秒 返信・引用 読み返してみますと、まさにその通りにしか読めないですね。ありがとうございます。 勉強不足で「去の局」「宜敷」といった言い回しが想像できなかったです。 私もこのぐらいの文章が読めるようになりたいです。 4行目の御厄介の下に「様」のような字があるように思うので、「御厄介様に預かりました」 でしょうか。「○○介様に預かりました」という馬主の名前かなと思っていたのですが、 解読していただいて全然違うとわかりました。 このあんまり内容のない文面(といっては失礼ですが)といい、絵ハガキではなく写真に 文字を書いて送ったような感じといい、素直に鳴尾競馬場で口取りしている大次氏の写真と 考えていいのではないかなと思いました。隣のページに他の大次氏の写真が掲載されている のですが、ガッシリした大柄な体型も似ているように感じます。 ちょっと怪しいんですけど 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月22日(木)23時55分39秒 返信・引用 御無沙汰致して居ります 先生ニハ御達者で御座ますか 御体ヲ御大切ニ遊ばしませ 去の局鳴尾で御厄介に預りました トクホ号写眞余りましたから一寸 御無沙汰の御伺ひに 先ハ御免与下されませ 御奥様へ何卒御宜敷御願ひいたします さ与うなら 消印の日付が大正7年6月のようですから、千歳孫作が函館姓を名乗った頃で 大次は騎手を引退して関東に出てこなくなったのだと思います。当時は馬主が 口を取るのが普通でしたから、口取りは平岡広高氏かと。 吉野は単なる記者の書き間違いによる重出だと思います。 色々と 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月22日(木)15時47分5秒 返信・引用 間違いが多いようで・・・。たぶんどちらも馬の吉野でしょうね。たとえば吉野村 などという地名があれば出身地かもと思ったのですが。ネットで調べる限りそんな 地名もないみたいで。 ポストカードはご指摘のとおり騎手が尾形藤吉氏のように思います。 函館大次氏の写真を紹介しているページなので、口を取っているのが大次氏かと。 私も手書きの文面が読めないのでまったくの推測ですが。 自分は 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月22日(木)06時05分45秒 返信・引用 どちらも同じ馬名で、文章の書き違えを校正しきれなかったのかな と思いました。 ところで、トクホの写真のキャプションでは「口を取っているのが尾形」 と記されてますが、実際は鞍上にいるのが藤吉ですよね。 手書きの文章内容はよく解読できなかったです(後半特に)。残念。 名前は 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月21日(水)01時50分35秒 返信・引用 あだなや通称もありますから、読み方にこだわらなくてよいのかもしれないですね。 坪内元三郎さんも、命名者の意図した読み方かどうかはわからないけれども、みんなから 「ゲンザブロウ」と呼ばれていたことは間違いない、と。「ゲンさん」とか呼ばれてた んでしょうね。 吉野の件なんですが「後日の競馬の第二回目に吉野の騎手源三郎が小谷熊蔵の吉野に乗つて」の 「小谷熊蔵」の「吉野」の吉野は馬の吉野號だと思うのですが、「吉野」の「騎手源三郎」の 吉野は馬の名前じゃないんじゃないかなと思ったのです。細かいことですみません。 東原騎手の場合 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月20日(火)22時24分3秒 返信・引用 明治時代は玉造と書くのが普通で、英字新聞の表記もTamazoです。後の調教 師名簿では「ト」の項に入っていますね。 大次は競馬社会でダイジと通称されてたんでしょう。大二と書いた人もいたようで 昭和30年代の『優駿』で大次はもと大二と書いた記者が大政氏から抗議されると いう一幕もありました。函館家は大(ヒロ)を通字にしていますからね。 明治33年の秋季札幌競馬を伝える北海道毎日新聞は坪内元三郎と書いています。 吉野は馬名です。明治29年生の鹿毛牡馬。和種にしては4尺7寸と大型でした。 東原騎手は 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月20日(火)20時24分13秒 返信・引用 「とうはら」ですか。 そもそもこの時代の戸籍には漢字にフリガナは必須だったんですかね。 仮に読み方が記載されていたとしても、本人が勝手に好きな方の読み方を使うケースも あったのでしょうね。 例としては相応しくないかもしれませんが、徳川慶喜が「よしのぶ」だったり「けいき」 だったりするように。 全くの推測ですが、函館大次の場合も正規には「ひろつぐ」だったものの、 愛称混じりに「だいじ」と呼ばれていて、そこから大冶という表記が生まれて広まった という可能性もあるかも知れません。 …うーん、見当違いですかね(汗) 画像を 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月20日(火)12時40分12秒 返信・引用 貼ります 昔の文字を判読するのは 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月20日(火)12時36分3秒 返信・引用 難しいですね。ご指摘いただいて、なるほど「菊」に見えてきました(笑) 「禾」も、まったく思いもよらない字で勉強になりました。ありがとうございます。 当て字を使ってくれたおかげで読み方がわかることがあるというのも目からウロコです。 振り仮名のある資料やローマ字表記の資料を見つけることばかり考えてました。 函館大次の読み方については、私も「おやっ?」と思っていたことがあります。 「競馬」(大正13年)に「函館大治 はこだてだいぢ」と書かれているのです。 「次」を「治」と間違えてるなと思い、その下の「坪内元三郎 つぼうちもとさぶろう」 の振り仮名についての信憑性に疑問を持っていたのですが、その後、「函館競馬場100年史」 という本に、尾形景造氏から函館大次氏に当てたポストカードの写真が掲載されている事を 知り、どうもその宛名を見ると、「次」というよりは「治」という字を書こうとしたように 見えるのです。そのため、「だいじ」もしくは「たいじ」と読むのかなと思っていました。 大次はヒロツグですか 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月20日(火)06時04分33秒 返信・引用 文字媒体が極めて少ない時代なので、致し方ない面もありますよね。 杉山菊次郎。全く知りませんでした。 稲森騎手は当時の番組表に名前が見つからないようでしたら キャリアが短かったのか、あるいは養子入りなどで途中で姓が変わっていた 可能性もあるのかな、と。 戦前のルビはいい加減で 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月19日(月)19時12分16秒 返信・引用 編集者が適当に振ったものが多いと思います。逆に耳で聞いた単語を適当な字で 書き記すことも多く、そちらの方が類推の手がかりになったりします。坪内氏も 元三郎が最初からの名前で、ゲンザブロウを源三郎と書いていた可能性が高い。 函館大次の場合も広次と書いた新聞があり、ヒロツグと読むことがわかります。 写真の裏書きの中央の人名は、明治30~40年代に札幌で活躍した杉山菊次郎 でしょう。右の名字はは禾森と読めますね。禾はイネと読むので稲の略字として 使うことが可能で、稲森だと思いますが、人名に心当たりはありません。 貴重な写真ですね 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月19日(月)06時50分34秒 返信・引用 姿を見るかぎり、残りの二人も騎手なのは確かなようですね。 >「豊」というより「索」という字のようにも見えますが 仰るとおり「豊」という感じではないですね。 「○山○次郎」 なのは確かだと思いますが…。 もう一人は「森」の下が「福」のような字にも見えますが、何とも。 三人とも若い頃に函館や札幌で乗っていたのでしょうから、 その辺を手がかりにして引き続き推測してみます。 達筆すぎて 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月18日(日)20時19分26秒 返信・引用 私もまったく読めず困ってます。ギリギリ左が坪内元三郎と読めるくらいで、 真ん中が杉山豊次郎?と読めなくもないでしょうか?「豊」というより「索」と いう字のようにも見えますが・・・。右の方は2文字目が「森」としか(笑) 大正五年十月四改とあり、40、45、46とあるのが大正5年時のそれぞれの 年齢みたいです。 右側の人物が坪内元三郎氏のようです。 お久しぶりです 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月18日(日)18時49分31秒 返信・引用 引き続きご調査続けられていたとのことで、ひたすら頭が下がる思いです。 明治26年に17歳ということは明治9年の生まれですか。 数えだったら10年生まれになるのかな。 横浜で活躍したのが明治40年前後ですから、当時25~35歳位の出来事だったのでしょうね。 写真の裏書?にある坪内元三郎の文字の隣は杉山豊次郎でしょうか? 同時期に活躍した騎手から適当に絞り込んだだけですが(汗) 右側の人物はちょっとわからなかったです。 ご無沙汰しております 投稿者:しゃとる 投稿日:2014年 5月18日(日)11時51分34秒 返信・引用 以前、坪内元三郎騎手・カチドキ号の写真について書き込んだ者です。 元三郎の読みが「ゲンザブロウ」のようだとのこと、大変すっきりしました。 この名前の読み方についてだいぶ気になっていて、稚拙ながら自分なりに調べていました。 近代デジタルライブラリーで帝国大学の先生が書かれた「競馬」(大正13年)という本を 読んでいたところ、「つぼうちもとさぶろう」という振り仮名をみつけ、喜んでいたんですが、 その後戦前の「優駿」(昭和17年)で偶然「つぼうちげんざぶろう」の記載を見つけ、結局 どちらなのかわからなくなり落胆しておりました。 源三郎を元三郎に改名したのでは、という件についてもまったく思いもよらなかったです。 明治26年17歳時の写真があり、その裏書に「坪内元三郎」とあるので、源三郎は単なる 書き間違えではないかと思ったのですが、「大正5年改」という、後に書き加えたと思われる 記載もあり、その時に改名後の名前を書き加えた可能性もあるのかな、と。 「吉野の騎手源三郎」という記載も気になりました。吉野とは地名でしょうか? 17歳時の写真が札幌の写真館で撮影されたものなので、札幌近辺出身なのかなと考えて いたのですが。 ありがとうございます 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月17日(土)17時16分54秒 返信・引用 同名馬ゆえの情報混乱でしたか。 おかげさまでスッキリいたしました。 自分もデータサイトまがいの事をやっているので、 気をつけなきゃいけませんね。 「横浜~第二コスモス~」の牝系の終焉はこの辺りでしょうかね。 http://www.jbis.or.jp/horse/0000101226/broodmare/info/ もう一本の分枝「~玄華~」の方もほぼ同時期についえたようで…。 田辺一夫氏の畢生の力作 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月17日(土)01時01分53秒 返信・引用 『アラブ系牝馬系統大鑑』は非常に便利な本で、これをネタに孫引きしている人もいる と思いますが、裏を取るという作業を怠るとミスプリントを書き写すことになります。 コスモス(大2) コスモス(大7、黒鹿、父ポートランドベー)繁殖名第二コスモス コスモス(大11、鹿、父ブラツクスミス) 母と同名の娘たちで、子孫を残した第二コスモスは大正7年生まれです。 完成しましたね 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月16日(金)22時27分8秒 返信・引用 http://www.pedigreequery.com/miyagino 横浜の素性も明らかになれば尚良しですね。 便乗でお伺いしたいのですが、横浜の孫にあたる大正2年生まれのコスモス(父ウイリアム) の産駒に同名のコスモス(父ブラックスミス)大正11年生まれ、という牝馬はいますか? 切り抜きの「日本競馬の歩み(資料編馬名索引)」を見ていると、大正11年生まれの牝馬が そのように記されてますが、ネット情報等によると同年の生まれには 第二コスモス(父ポートランドベー)という牝馬がいるようなので…? お騒がせしました。 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月16日(金)20時15分45秒 返信・引用 claudine15 の母は同名の CLAUDINE でした。 CLAUDINE は英国産、鹿毛、1823年生。父 ebor 母 ORPHAN ORPHAN は英国産、鹿毛、1812年生。父 camillus 母 gabriel mare2 北海道の競馬を調べるうちに新冠御料牧場の馬名表に行き当たり、そこに オーストリア産ノルマン月山、オーストリア産サラブレッド横浜 という記述を見つけたのです。月山がハンガリー産ノニウスであることは異論がない。 ノニウスは中間種をサラで改良したのですから、アングロノルマンみたいなものです。 横浜は豪州産のサラ系とされてきましたが、年代が飛び抜けて古く、なんとなく変だな と思っていたので、ハンガリー産のサラではあるまいかと思って調べたところ、日本に サラの牝馬を輸出した記録は見つけられませんでした。その代わり、宮城野と思われる 牡馬が輸出されていたわけです。百年の時を隔てて、血統が明らかになってよかった。 横浜の正体は依然として不明ですが、オースト「リア」か「ラリア」か面白いですね。 ネット以外の資料をメインに 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月15日(木)21時06分1秒 返信・引用 情報を集めてらっしゃる感じですか。 JRA 図書室にもないんですね。 発行部数がかなり限定されていたようで、今では入手困難みたいです。 http://www.pedigreequery.com/claudine15 私もまだ読んでいません。 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月15日(木)19時53分33秒 返信・引用 大きな本屋にもないですね。国会図書館には最近入庫したが未整理なので出せないと。 Claudine はハンガリー産、1841年生、8号族、というところまでわかりました。 Smaragd との間に Claudius I (1857), Claudius II (1859), Claudius III (1861) を産み、種牡馬になったのは Claudius II であると。 Carthago は英国産、鹿毛、1823年生。父は Pioneer3 、母は Reserve です。 Reserve は英国産、鹿毛、1812年生。父は waxy 、母は lady jane2 です。 LBさん、ご覧になられてるかな 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月14日(水)08時26分34秒 返信・引用 トモエゴゼンの血統はデルマにも登録ありますね。 http://www.pedigreequery.com/tomoe+gozen3 ちなみに自分は著書も読んでおりません…。 大岡賢一郎氏にお願い 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月13日(火)23時03分40秒 返信・引用 最近話題の『奇跡の名馬』の著者のサイトを今日初めて見て内容豊富なのに驚き まだ各種の記録の部分しか読んでいませんが、コメントできないみたいなので、 共著者の大岡様から以下の3点をご連絡していただければと思います。 昔の16歳を今の表記にすると17歳にはなりません。 メルボルン二世(第二メルボルンは早坂氏用語です)は22連勝していません。 全馬種の日本最高齢記録も違っています。 読み方そのままで 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月12日(月)07時33分53秒 返信・引用 字だけ改名したということですね。 そして、バリアスタートの時代にはこういうフェイク技が有効だったと(笑) ホクショウモモ、知りませんでした。驚きです。 シンザン産駒のハクヨウチカラ(姪に小倉3歳Sのキョウワシンザン)が ペルシュロンに付けられたと。 その後、数代の間の子孫はばんえい出走歴もないようですし(サイズ的にも当然か)、 まぁよくぞここまで…という。 シンザンの血も、スウヰイスーの血もサラブレッドから消えたとしても 重種の血統に残る可能性が出てきたわけですか…。 ありがとうございます。 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月11日(日)22時26分5秒 返信・引用 坪内元三郎騎手の名前はゲンザブロウのようです。明治33年6月23日の北海道毎日。 後日の競馬の第二回目に吉野の騎手源三郎が小谷熊蔵の吉野に乗つて、旗振りよりはズッ と後に居つて、他の馬の動静を見ては、時々拍車を中てて一寸馬を躍らして、左も駈け出 すかのよふな格好をして見せる。すると外の馬は釣り出されて一生懸命飛び出すと、源三 郎は自分の馬を乗り鎮めてまだまだと声をかけて居る。其乗り鎮め方の旨いことといふも のは実に驚くばかりである。然るに他の騎手には彼様な伎倆がないから、急に止めよふと しても止らない。遂に引ッかけられて、漸やく乗り返して来る。 其処は旗振の機転と役員の眼で成るべく下手な騎手に不利益のないよふにするのが東京横 浜の例であるよふだ。処が此間のは源三郎にまだまだと謂はれると振り下そふとした旗も 切らずに待って居るといふ工合で、全く源三郎の挙動に左右されるよふな形であつた。 おまけ。5月5日に初勝利を挙げたホクショウモモ。去年の草競馬1歳馬決勝大会で3着 の素質馬なので、重賞の1つや2つは勝てると期待しています。8代母はスウヰイスー。 http://www.rg.liaj.jp/bj/b1_2.do?fn=search&ktno=22401%200074 とりあえず登録してみました 投稿者:ふてき 投稿日:2014年 5月10日(土)20時14分29秒 返信・引用 父の Przedswit がロックされているようで編集できませんでした。 コメント欄に注釈入れようと思ったのですが、それも叶わず…。 http://www.pedigreequery.com/miyagino 情報漏れや間違いがあればご指摘下さい。修正いたします。 オーストリア・ハンガリー血統書第3巻に 投稿者:通りすがり 投稿日:2014年 5月 9日(金)23時15分40秒 返信・引用 1883年に日本に輸出した1880年生まれの無名の鹿毛牡馬が記載されています。 生産者は Graf Johann Zichy's Erben ですからヨハン・ジツィ伯の遺産でしょうか。 血統はデルマで父 przedswit 母 forelle5 ですが、どちらも間違っています。 父はPOL産になっていますが、生産者であり父の母の輸入者でもある Graf Johann Tarnowski はガリツィア貴族で、そこは第1次ポーランド分割以来オーストリア領で した。GSB第12巻にも The Jewel はオーストリアに輸出と書いてあります。現在 はウクライナ領ですが。参考 http://www.rollintl.com/roll/austro-hungary.htm forelle5 は鹿毛、Graf Johann Zichy's Erben 生産、その父母の所有者も同じです。 ジツィ家はハンガリー貴族です。 claudius13 は鹿毛、1859年生。 その父 SMARAGD はドイツ産、鹿毛、1851年生。その父は incognito3 、 SMARAGD の母 JOUVEL はドイツ産、鹿毛、1842生。父 morisco 、母 ipsala2 。 問題は claudius13 の母 CLAUDINE (by CARTHAGO) で、今のところ正体不明です。 オーストリア・ハンガリー血統書はドイツ血統書の南ドイツの部からバイエルを除いた ものを引き継いだと思っていたのですが、その他に旧オーストリア・ハンガリー血統書 第1・2巻というのがあって、 CLAUDINE はそこに登載されていたらしいのです。 whalebone4 は鹿毛、1854年生。血統は母 WHALEBONE MARE が同名異馬です。 正しくは英国産、鹿毛、1831年生、その母は vicarage です。 GSB第5巻にドイツへ輸出と書かれていますが、その頃はオーストリア帝国も 含めて全部ドイツとなっています。 『仙台産馬史』に明治16年ハンガリーから種牡馬5頭、牝馬1頭を輸入したという 記述があります。当該馬は明治13年生、明治16年輸入の宮城野かと思います。