●19世紀初頭アルゼンチンで供用されたフランス産の2頭の同名種牡馬 Le Samaritain(FR)

Le Samaritain(1895) は1910年にフランスからウルグアイへ入国。同年(または翌年)アルゼンチンへ。
1912〜1925年にかけてアルゼンチンで供用され、産駒が計367勝をあげた。
Le Samaritain(1893) は1898年にフランスからアルゼンチンへ。前名 Leopold
1909年生まれのクラシック馬 Inspector(ARG) は持込み馬なので Le Samaritan(1895) の産駒で問題なし。


●北米で最初に活躍したチリ産馬 Palais Royal(CHI)

1932年 Haras Kunaco 生産。1935〜1937年にかけてチリ二冠等ステークス21勝。チリ国内通算38戦25勝。
1938年は全休。1939年からは北米で出走、Brown King と改名し、通算11戦1勝。
1940年3月10日キューバで行われたハバナ市ハンデ大賞(1マイル1/4)をR・ナッシュ騎乗で勝利。
1着賞金11,450ドルは当時の日本ダービーとほぼ同額。
種牡馬として大成功。主な産駒にモンマスオークスの Dorothy Brown、ルイジアナダービーの Matagorda
フリゼットH、ニューオーリンズHの Red Camelia、ラスフローレスH、サンタマルガリータH、サンタマリアHの Spanish Cream
ベルデームHの Thelma Berger など。
ちなみに1939年には10頭が輸出されており、うち6頭は以下の顔ぶれ
Brown Bomb (ex Adam Lux) ビーニャ・デル・マール賞2勝。種牡馬入り。別名 Adams Dux
Brown Boy (ex Triangulo) 北米では不出走か。産駒の Ming が2戦0勝。収得賞金0ドル。ネブラスカで供用された。
Brown King (ex Palais Royal) 上記馬。
Brown Man (ex Jayun, ex Jaranero) 種牡馬入り。
Brown Prince (ex Ix, ex Sideral) 6歳時にカリオストロ・スティープルチェイス・ハンデに勝利。
Brown Queen (ex Soledad, ex Medea)



Cruz Lila(CHI) の父 Doncaster(CHI)

Doncaster(GB/1870) から続く父系3代目(三世)にあたる。
Doncaster(GB/1870)
|Doncaster II(GB/1883)
| |Doncaster III(CHI/1889)
| | |Cruz Lila(CHI/1897)
Doncaster II が1884年チリに輸入された。
公式カレンダー、サリナス著「エルダービー史」などで父 Doncaster II とあるのは誤認だろうとのこと。


●本邦輸入種牡馬 ヂプロマット

Diplomat(GB)
1903年オーストラリアへ。1904年日本へ売却。
購買価格1万5千円。当時最高クラスの種牡馬インフォーメーションが1万円だった時代。
1904年10月奥羽種馬牧場入場。1909年9月退場。
1909年9月福島種馬所入場。1919年10月退場。
1919年10月13日東京帝国大学入場。以後不明。

・・如何せん当年取って二十歳の老境に入り、然かも今日は多数の
良サラブレットが輸入されあるを以て流石の名馬も往にし昔の祇王
祇女を牡馬にしてそぞろに秋の哀れをかこつ身となり、加之病を得
て遂に無残や同局淘汰馬の数に入り、此儘にして置かば由なき人の
手に移り一層の悲しき運命にも遭はんも知れざるを、現所長の山田
仁市氏や前所長の山下甫氏など気の毒がりて極力尽力の結果、今は
駒場の農科大学獣医学科の厩舎に繋がるることとなれるが、彼も日
本の馬匹改良の為に斯く許り貢献せし昔の夢を繰返して御規則とあ
れば用なき後の身は棄てらるる恨めしの世を、彼は此頃の夜寒む朝
寒むに何と観じて居るであらう。実に同情に堪へぬ次第である。
(「馬の友」誌より)


●Young Emilius という名の英国産 Emilius 産駒の同名馬

Young Emilius(1827) out of Sal :無名。1832年仏輸出後に命名。同年よりブルターニュで供用、38年以降記録無し。
Young Emilius(1828) out of Cobweb:1834年10月仏へ。35、37年国立バン種馬場、36年他所で供用。38年以降不明も、51年に種馬登録あり。
Young Emilius(1828) out of Mercy:別名 Mr.Sowerby's Young Emilius
Young Emilius(1833) out of Shoveller:当初 Eric と称し、1840年に産駒記録あり。輸出記録無し。
Young Emilius(1833) out of Sea Mew:

3頭いるフランスダービー馬の父は全て Young Emilius(1828) out of Cobweb
Australian(GB) の母 Emilia の父は Young Emilius(1833) out of Shoveller
Mercy は Shoveller の仔である。すなわち Mr.Sowerby's Young Emilius は Eric の甥にあたる。


●ポール・マッカートニーが父にプレゼントした競走馬

Drakes Drum(GB) 1961年生まれのセン馬。1964年の父ジム・マッカートニーの誕生日にポールが贈る。
輸入種牡馬*ハーディーカヌートのひとつ違いの半兄になる。
1966年3月エイントリー競馬場、グランドナショナル開催日の前座レース、ハンデ戦のヒルトン・プレート(6F)を頭差勝利。
勝ち時計1分25秒2。賞金は414ポンド。斤量は7ストーン4ポンド。人気は「その他」扱いで20対1だった。
調教師C・クロスリー、騎手マッキントッシュ。


●名馬ラシカッター(ラシデヤー)引退時の騒動

馬主の山岡長七氏が現役引退を条件に続秀太郎氏に1500円で売却。
続氏は約束を反故にし、小倉の障碍戦に出走させる。初日2着、2日目1着、優勝戦1着(レンドを破る)。
更に阪神競馬の出走を前にして山岡氏が出走差し押さえ手続き。
1年間の係争の後、2500円にて山岡氏が買い戻すことに。
小岩井農場に5000円で売却。同所で余生を過ごす。
同名の父 Rushcutter は現役時22戦4勝、2着3回、3着1回。アスコットS(16ハロンのハンデ戦)勝ち。



●続秀太郎情報

明治19年8月4日函館出身。
明治38年函館の中学卒業。札幌の農学校に1年通い、翌年早稲田大学予科入校。
競馬に騎乗したのは13歳(小学校高等2年)からで、中学1年から卒業まで函館の競馬に騎乗した。
明治43年馬政局の購買馬を護送。イレネーが灼熱のインド洋上で水をがぶ飲みするので苦労。
宮崎信太郎の代理でヒサトモを落札。5〜6千円の馬をという宮崎氏を口説き、1万5〜6千円までならという約束で参加し
結果2万円で落札する。繁殖入り後空胎続きのヒサトモの馬体を作り直すために現役復帰せよと助言をしたのも続氏か!?
昭和5年、平出氏との共同経営だった平出牧場を平出氏の本業であるサケマス漁の大不振により手放すこととなった。
引き続き新場主の古門氏の顧問として携わっていたが、昭和8年10月前川道平氏の手に移ったのを機に完全に縁が切れた。
前川氏の御賞典馬マークイスは昭和8年生まれなので、実質的に続氏が生産した馬といえるかもしれない。
ちなみにその後の旧平出牧場はドイツ人W・R・フォルスター氏の所有となる。同氏は終戦後GHQに資産接収され帰国するも
ナチスに国籍剥奪されていたため、妻秀子、長女エリカ、長男ウイリーとともにスイスに移住したとされる。



●ローデシア分離とザンビア競馬

1964年ザンビアジョッキークラブ創設。
コッパーベルトダービー(ザンビアダービー)1968年の勝ち馬は Sanatoga(SAF)
Ipi Tombe(ZIM) は2頭目となるジンバブエ産ジュライハンデ勝ち馬。
初代は Spey Bridge(ZIM)、当時でいうところのローデシア産馬だった。



●混同しやすいチリの廃止された重賞

Premio Internacional(1900-1976)サンティアゴ馬事倶楽部の看板レースだった。Filibustero が勝ったのはこちら。FTは間違い。
GP.Internacional de Chile(1961-1967, 198?-1990)南米国際競馬レース。3場持ち回り。スプリント、マイルと併せ計3競走。


●賞金が地金だった頃の事例

大昔の英国のレース→ソブリン金貨
1887〜1904年のアルゼンチンオノール大賞→アルゼンチン金貨
19世紀のインド→モハール金貨
明治の日本・余興レース→一分銀


●戦前の中国競馬

公認競馬(1920年頃からの認識)のクラブ。
Pekin Club(北京競馬場)
International Recreation and Race Club(北京南苑競馬場)
Tientsin Race Club(天津競馬場)
Chinese Race Club of Chieli(南開競馬場)
Shanghai Race Club(上海競馬場)
International Recreation Club(江湾競馬場)上海に門前払いを食らった帰化日本人が設立。英国皇太子が観戦。
Hankow Race Club(漢口競馬場)
Tongshan Club(通山競馬場)非公認の歴史あり
Hongkong Jockey Club(香港=ハッピーバレー競馬場)
(哈爾濱競馬場)中国公認から満州国競馬に組み替え。
(青島競馬場)

台湾の競馬場は6場?(台北、高尾など)
満州には10場ほど(形状はトライオーバルがデフォだったとか)。
南満競馬協会には大連、奉天、安東、金関、撫順、旅順、鞍山が加盟。
営口競馬(臨時競馬)には大正2年に日本から遠征競馬も。


●札幌競馬の珍競走

持田謹也氏のアイデア?障害レースを全国初導入、3マイルレース開催などなど。
10ハロンの曲線競走は9ハロンコースに障害物(決勝戦手前あたりか)を置いたものか?
時計は9fが2分10秒、12fが2分57秒、曲線10fが2分30秒ほど。
当時の札幌は左右両回りの一周1マイルコース。
明治44年春季最終日には優勝戦2マイルと長距離戦3マイルを龍勢が同日に連勝する珍記録。


●欧州へ渡った赤石孔騎手

明治27年11月13日福島市生まれ。福島中学校2学年終了後、騎手募集に応募し渡欧。
英国、フランス、ドイツ、オーストリア、チェコなどの競馬に従事。本場仕込のモンキー乗りを習得。
(注:実際の欧州での騎乗暦については諸説ある状況)
昭和2年帰国、日本の競馬に新風を吹き込んだ。ムチ持ち替えの早業は「一鞭千両」と称された。
昭和14年まで根岸で開業し、300騎乗36勝、2着35回、3着34回。
最後の活躍馬はタエヤマで、ダービーではスゲヌマに惜敗したが、名勝負として記憶されている。


●米国へ移籍した日本産トロッター、ダーネルファイブ

1960年ランチョトマコマイ(白井新平氏)生産。鹿毛。
父 Torpedo ch, 1941 by Guy Abbey
母 Darnell's Lee b, 1947 by Darnell's Abbe
1963-64年に国内56戦8勝、2着5回、3着2回(速歩)。
1965年カリフォルニア州イングルウッドのF・W・ゲイ氏によりスタンダードブレッドとして登録。
初勝利をあげた後、売却。


●中神輝一郎騎手のブラジルでの成績

Year Rnrs Wins Earnings Ranking
1967 056 10 032,545.00 ----
1968 248 42 199,125.00 09th
1969 202 32 210,335.00 14th
1970 180 23 156,045.00 24th
1971 120 17 159,780.00 43rd
1972 142 16 219,050.00 44th
1973 205 29 388,055.00 17th
(1974年以降は下位成績者(10勝以下)統計がなく、確認できず)
当初はサンパウロ・ジョッキークラブのアウメイダ会長に優遇されるなど好待遇だったが。。
サンパウロ競馬史上で屈指の名騎手バホッソとは親密な仲(悪友)だった。


●怪人コリンス

昭和20年代、根岸、上野で活躍した騎手。ハーレー・B・コリンス。
父ポルトガル人、母白人と南海人種の混血?あるいは香港生まれの英国人?
容貌は日本人風だった。
横浜生まれ(南清に生まれ、その後横浜へ来た)という説もある。
メール新聞、ヘラルド新聞などに勤めた後、騎手に。
御下賜を受けるほどの活躍をするも、度重なる怠惰、背信行為により
騎手職を免除される。
火災保険金詐欺疑惑を起こした後、神戸、上海と転々。
明治37年ロシア人女性を伴い横浜のホテルに宿泊中に露探容疑で逮捕。
重禁固11年で服役するも特赦により39年4月出獄。明治40年2月27日天津駅で
爆裂薬を所持しているところを見つかり逮捕された。


●スーダンの競馬

競馬場はハルツームにある。Khartoum Racing Club が運営。
1929年英国人により始められた。10〜6月がシーズン(当時は)。


●アルゼンチンで調教師・岩谷宗谷

明治時代に岩谷天狗の名で著聞された煙草王岩谷松平氏は仲々の愛馬家
で、自らも終生乗馬に趣味を有されてゐたが、其息宗谷氏は世界
の三大馬産国であり、且つ英国に次での競馬旺盛の国であるアル
ゼンチンに十三年間牧場生活をなした後、調教師として更に十二
年間を精進して今回二十五年振で帰朝された。
大正元年日置特命全権公使に随行して南米智利国に赴き同国の各
牧場を視学の上アルゼンチン国ラアルトーナ牧場、ヲンスエ牧場
に各二年を送り、大正五年同国に於る斯界の大家コルテン・サン
トス氏の懇望により騎手見習として二年を練習したが体重増加の
ため騎手たる資格を得なかつた。依つて只管競走馬の飼育調教に
就て六ヶ年を研究し、其後調教師フランシス・マキロ氏等と共に
調教馬専門の実習をなし昭和二年に同国調教師の免状を受けた。
(「競馬界」昭和13年7月号)

フランシス・マキロ氏とは Francisco Maschio 調教師のことだろうと。
アルゼンチン競馬史にその名を残す名調教師。
1927〜36年まで10年連続首位調教師。ペリェグリニを3勝。
タンゴの王様カルロス・ガルデルとは親友。所有馬 Lunatico などを管理した。
世代を考えると同期というのは疑問で、恐らく岩谷氏が Maschio 師の元で実習を受けたのではないか。


●コッペーさん

H・W・Coffey。大正期の日本で大活躍したオーストラリア人の名騎手。
明治41年秋、C・ダウン氏が*ホートニップ(プリンスチャーレー)を輸入した際に同行し初来日。
来日前には1906年のアスコットヴェールSを Antonius、1907年のQTCセントレジャーを Inglewood で制覇している。
1905年のメルボルンカップでは Scot Free で2着もある。


●ポール・カライ

ハンガリー人。73歳まで現役で騎乗。17歳と67歳でダービー制覇する大記録。
1979〜81年にはユーゴスラビアの首位騎手も獲得。
1980年代の八百長事件に連座して米国での騎手免許を失う。
1990年にはじめて行われたトルコの国際競馬でユーゴ代表 Magrana に騎乗し勝利。
参考までに日本では明治9年生まれの坂東角太騎手が昭和9年春の札幌・騎乗速歩に騎乗。
地方競馬では昭和3年生まれの海方昭三騎手が平成4年の樹氷賞をティーボイスで勝利。
翌5年にはアラブの蔵王賞をルビーキャップで勝利。
アイルランドの障害ではハリー・ビーズリーが83歳で騎乗した記録がある。


●アメリカで騎手になった若者

留学先のサンフランシスコで競馬に魅せられた騎手になってしまった。
仲村直己騎手。1944年生まれ。
1970〜75年までに1435騎乗し134勝をあげる。
その後の消息は不明。


●フリッパンシーの仔で一番強かったのはハツガロン?

タイホウ、セントライト、クリヒカリ、トサミドリなどを輩出した名繁殖牝馬フリッパンシーだが、
実は一番強かった産駒はハツガロンだったという説がある。
ハツガロンは5尺7寸という体高のため、公認競馬での出走が叶わずアイチハツガロンの名で
東海から羽田と敵無しの圧勝を続けた。斤量70kgでも勝利、国内の地方競馬に敵はなく
果ては台湾、朝鮮にも遠征し、その名を轟かせたという。
1933年生まれ、父アスパイヤリング、母*フリッパンシー。